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思考を追い越せ ~我思わずとも我あり:非言語的世界である聖なる次元への回帰~

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この記事は2018.9.16、13:15に更新しました。

更新内容:記事を推敲しました。

 

メインサイトの『お客様の声』に掲載されている『がっくりさんの感想』に以下のような文章がある。

8/15(水曜日)

「静寂」と共に在るということは、思考や想念が追いつけない、それらの少し先を走り続けているようなものですね。

 

 

真なる自己の目覚めがそれなりに進んだ意識状態にならなければ、このような言葉は出てきませんよ。

私の思考回路からも出てこない。

しかも覚者の言葉を自分なりの表現に言い換えたものでもない。

がっくりさんならではの表現ですよ。

 

だから、そこに嘘はない。

嘘が入り込む余地がない。

がっくりさんの内奥から生まれ出た本物の言葉ですよ。

そこががっくりさんの賢さであり、誠実さであり、正直さであり・・・

つまり、その成熟というものを表しているように思うわけであります。

 

そのような本物の言葉には、命や力が宿っている。

 

がっくりさんは勉強家でもありますので、決してスピリチュアル用語に疎(うと)いというわけではない。

なのにあえて宗教用語やスピリチュアル用語を用いた紋切り型の表現を避け、なんとか自分の言葉で表現しようとして苦心しておられるからこそ出てくるこの言葉なのであります。

 

プンジャジもその対話集『覚醒の炎』において、真なる自己の目覚めが生じた生徒に「何でもいいから、あなたの言葉で表現してみなさい」と強いこだわりを見せているところがありますね。

(※ご存知の方は、掲載ページを教えてください。)

それを読んでいた探究時代の私には気がつかなかったことだけれど、今にして思えば、それは生徒に生じた真なる自己の目覚めを詳細に検証するための一つの手段だったのかもしれないね。

突如として生徒に起きた変化が、

純粋意識との接触によって生じたものなのか、または似て非なるエネルギーとの偶発的な接触によって生じただけのものなのか・・・

そこを念入りに見極めるための手段の一つだったようにも思えてくる。

『覚醒の炎』に記されているその文脈を確かめてみなければ、はっきりとしたことは言えないが・・・

 

とはいえ、セッションにおいての感想や報告を宗教用語やスピリチュアル用語を用いて表現することが悪いということではないですよ。

それらの用語を使うことによって、余分な説明を排した短い言葉でも伝わりやすいという多大なメリットがあるわけですから。

 

このように、

言語表現によって片方を肯定すると、残りの片方を否定しているような印象を与えてしまうところに、言葉の不便さというものがある

というわけです。

 

そんな専門用語を排したがっくりさんの言葉、

8/15(水曜日)

●「静寂」と共に在るということは、思考や想念が追いつけない、それらの少し先を走り続けているようなものですね。

 

しかし私は、この文章によってがっくりさんが表現しようとしているもののことが、とてもよくわかる。

真なる自己の目覚めの意識状態にあるといっても、目覚めてすぐにはそのような理解が生じる意識状態にはならない。

やはり目覚めが途絶えることなく順調なペースで2ヶ月も継続しているからこそ、そのような理解が生じる意識状態へと変容してきたわけですよ。

 

真なる自己の目覚めを体験したことのない人や、その目覚めの初期の段階の人からすれば、この文章を読んでもそこまで重要なものと感じないはずですよ。

もしくは、ただの空虚なたとえ話のように見えてしまうかもしれない。

 

しかし、この文章は以下のことも暗示している。

 

つまり、マインドフルネス瞑想などによって思考や想念などを観察または観照しているということは、たとえ自己意識としてのあなたと思考や想念との間に距離が保たれているといっても、しょせんは思考や想念の後ろをあなたが走っていることになるわけですよ。

言い換えるなら、思考や想念ありきのあなたであるということなわけです。

つまり、我思うゆえに我ありなわけでしょ?

思うゆえに、すなわち思考や想念や感情や感覚などがあって始めて、それらを観察または体験しているあなたがいるということを自覚することができるというわけでしょ?

言い換えるなら、

思考や想念などがなければ、あなたは自己という唯一の現実さえも自覚することができない。

そのような意識レベルにあるということにもなるわけです。

 

このように解説されたら、先のがっくりさんの報告にある文章の重みというものが、なんとなくわかってくるでしょ?

つまり、あなたは思考や想念に追いつかれちゃったわけだ。

やつらに人生というレースの主導権を握られちゃったわけだ。

あなたは、まだ脇役である挑戦者の側だ。

まだ栄光の自由とは程遠いわけですよ・・・

思考や想念でなく、あなたが人生というレースを引っ張っていかなければ面白くないですよ。

 

我思わずとも我あり

つまり、

無心すなわち真なる自己なり

でなければね・・・

 

思考の前を走るということは、

自己意識としてのあなたが思考以前の世界思考に先立つ次元、すなわち非言語的な世界である聖なる次元に存在するということ

ですね。

 

ある意味においては、私たちが子供の頃に言語を習得して、徐々に言語的世界を自身の頭の中に構築してきたわけだが、それ以前の赤ん坊の頃に住んでいた美しい世界があったわけですよ。

薔薇(バラ)を見たら、あるがままの薔薇がある。

ただ、それだけの世界ですよ。

「美しい」とか「醜い」とかの思考や想念が入り込めない次元にいたわけですよ。

 

薔薇を美しいとして、言語的に認識してしまうと、どうしても薔薇の美しくない部分が排除されてしまう。

 

言語の特性とは、わかる、すなわち分かる解かる、つまりわけることにあるわけですね。

分別なんて言葉も、分ける別けるで、まさにそうです。

分解とは分ける解かる

 

だから言葉によって薔薇の何かを肯定すると、分けられたそれ以外の部分が否定されたことになってしまう。

 

薔薇には棘(とげ)があるからね。

もしも薔薇が棘だけの植物であったなら、先と同じような情感で美しいとは思えないわけですよ。

ある人は薔薇の花の部分だけを見て美しいと言い、また別のある人は薔薇の棘の部分だけを見て恐ろしいと言う。

全部含めて薔薇なのですよ。

だから本当は、美しいとか恐ろしいとか全てをひっくるめた全体としてのあるがままの薔薇が、ただあるだけなのですよ。

 

惚れた相手を優しい人だと言語化することによってラベリング(レッテル貼り)してしまうから、いざ結婚してみたら、ただの気が弱いだけの甲斐性のない男だったみたいな評価にリラベリングされて、はい離婚みたいなことにもなるわけですよ。

相手である彼は基本的には、何も変わっちゃいないわけですよ。

相手に対するあなたの評価が変わったことによって、相手が変わったように見えてくるわけですよ。

なぜなら、

全ては、あなたの頭の中で起きていることにしか過ぎないのだから・・・

 

真なる自己の目覚めが起きない限り、人は変化後戻りのある、ただの表面的変化)はできても、変容後戻りのない本質的成長)はできない

ですからね。

環境の変化(入力)によって、その現れ方(表示)が変化しただけのことであって、その本質(プログラミング)が書き換えられていないわけですから・・・

 

そんな言語の世界に入り浸(びた)ることによって、私たちは物事のありのままの全体というものを見落としてしまっているわけです。

 

物事の全体の一部だけを言語によって切り取って把握して、それを全てだと信じこむことによって騙(だま)されてしまっている

わけであります。

つまり、

人間(正確には人間存在における自己意識ですが)は言語に囚(とら)われてしまったことによって、頭の中だけで暮すようになってしまったのです。

 

キリスト教的表現をするなら、言語に囚(とら)われたとは、アダムとイヴが智慧(ちえ)の身を齧(かじ)ったということであり、頭の中だけで暮すようになったとは、穏やかな至福の安らぎの場であった楽園を追放されたということになるわけであります。

 

またもや言語表現の特性により、言語の重要性を否定したような印象を与えることとなってしまいましたが、言語は言語として、思考活動やコミュニケーションにおいては重要な道具となります。

なので言語の世界とは、私たちの内なる家である心の中の作業部屋のようなものと言えます。

 

ですがそこは私たちが寛いで暮らすには、あまりにも窮屈(きゅうくつ)過ぎる空間なのではないでしょうか・・・

 

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