未熟なカメラマン
この記事は2018年6月20日12:43に更新しました。
6/19更新内容:記事の終盤に加筆をしました。
6/20更新内容:記事内の言葉の細かい修正をしました。
未熟なカメラマンというものは、そのターゲットととなる被写体よりも、その背景にピントが合っていたりするものである。
もちろん、一事が万事である。
成熟した探究者か否かは、探究歴とは一切の関係がなく、少しばかりの会話などのやり取りをしてみれば、その成熟度は自ずと明らかになるのである。
なぜなら、会話にもピントというものがあるからである。
一事が万事なのである。
「聖なるもの」との接触の入り口である「内なる静寂」への留意にも、ピントというものがある。
ここでもやはり、「ターゲットとなる対象物と、その背景の違いの見極め」が必要なのである。
何事においても、「本質と非本質的なものの見極め」が必要なのである。
その見極めの為には、それなりの「知性との感受性」というものを必要とするのであります。
そのような「知性と感受性」を磨いていく場というものは、あなたの人生における日常の場に他ならない・・・
その際に最も大切なことは、「何を経験したかではなく、いかに経験したか」ということである。
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