「外の景色」と「心の景色」
この記事は2022年1月14日、1:55に更新しました。
更新内容:記事に加筆をいたしました。
ある晴れた日の午後
ある晴れた日の午後、母と一緒にスーパーでの買い物を終えて出入り口を通り抜けると、外は突然の吹雪となっていた。
駐車場へと向かう大人たちは皆、身体を屈めて、しかめっ面をしていた。
まるで「予想外の不幸に見舞われた・・・」とでもいわんばかりに・・・
母も、その場の空気に飲み込まれていた。
このように「人間とは暗示にかかりやすいもの」である。
だから、私は雪の中ではしゃぐ子供や子犬たちのように「ヤッホーッ!ヤッホーッ!」と飛び跳ねながら、車を止めてある場所へと向かっていった。
まるで「予想外の冒険を体験できた!」とでもいわんばかりに・・・
そうなのだ。
私は馬鹿なのだ。
そんな馬鹿な息子を目にしてか、しだいに母も楽しそうになっていた。
つまり私は、そこにいた人々が無意識的に作り出していた空気を意識的に塗り替えてやったというわけだ。
だって、そうだろ?
「雪が降って、風が吹いているだけ」だろ?
積もるかどうかもわからないだろ?
たしかに風景を一変させたほどの突然の吹雪には視覚的なインパクトが大きかったが「印象」と「現実」とは異なる。
いったい、奴らは何を連想していやがるんだ?
このド変態のネガティブモンスターどもが!(笑)
元気な子供たちは雪遊びを連想して楽しんでいるかもしれないぜ?
それに、もうすでに降っているものは、どうしようもねえじゃねえか。
だから私は「楽しむことに決めた」のだ。
私の世界は私の中にある。
だから「幸か不幸か」も私が決めることができる。
(天気などといった)外的な環境によって左右される必要はない。
今でも私は「子供のように世界を楽しんでいる」。
「大人なりに・・・」ではあるがね。
なぜなら、「大人気ない振る舞いであること」は充分わかった上で、「あえて、そちらを選択している」のだからね・・・
私たちが大人になるにつれて「無意識的に不機嫌になってしまうようなこと」に遭遇しても、やり方によっては「子供のように楽しめるということ」を、その人に思い起こさせようとしているのだ。
これが私の言語なのだ。
人々を「常識や暗示や洗脳による呪縛」から解放させるための身体を張ったメッセージなのだ。
しかし、本当に馬鹿な大人というのは、そんな僕の振る舞いを見て「本物の馬鹿」だと思うようだが、「馬鹿から馬鹿だと思われること」は「天才と認められること」と同義なので「名誉なこと」でござるのだ(笑)
「子供のように無邪気であること」と「馬鹿であること」とは違う。
「子供のように無邪気である」のを「馬鹿である」と判断するのは「救いようのない馬鹿となった大人たち」なのだ。
だから僕は、これからも馬鹿でいよう。
馬鹿から馬鹿だと思われるくらいの・・・
これは子供の頃からの「私の生き方におけるスタイル」なのだ。
これぞ、まさに「生まれながらの天才ゆえのスタイル」なのだ(笑)
このように馬鹿に見せておいて相手を油断させ、相手のそのリアクションを観ることで、相手の人間性や本心などを露わにさせることもできるので、私はセッション時にも利用してたことがある(笑)
つまり、人を見る際のリトマス紙にもなるのだ。
もちろん、そのような場合は、無意識的に行っているようにやらなければ変な空気になるだけなので、そこのところはご注意を。
子供たちは知っている・・・
人は「楽しいから笑う」だけではない。
「笑うからこそ楽しくなることもある」ものなのだと・・・
子供たちは知っている・・・
「雪にションベンをかけても、美味しいかき氷にはならない」ということも・・・
条件反射には気をつけなさい・・・
無意識的な条件反射を見守っていなさい。
そして、どんなに些細なものであれ、「あなたを不幸にしてしまう条件反射」を見つけたならば、上記のように書き換えなさい。
人は暗示にかかりやすいがゆえ、「あなたを不幸にしてしまう条件反射」は、やがてはあなたの周りの人間をも不幸にしてしまう。
暗示は無自覚的に取り込まれていくがゆえに、良くも悪くも伝染していく。
暗示は無自覚的に取り込まれていくがゆえに、防御することが困難である。
「国によるプロパガンダ」や「企業によるコマーシャリズム」における洗脳は、そこに見事につけこんでいる。
ファッキュー・ベイビー・フォーエバー♪
雪は雪でしかない・・・
「雪が降ったくらいで暗くなるなよ〜」
それを母に伝えたかったのだ。
私なりの「馬鹿を装ったやり方」でね・・・
外の景色がどうであれ、
心の景色は思いのままに・・・
いずれにせよ、
世界はあなたの色に染められてゆく。
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