永遠不滅の私
この記事は2021.10.30、12:10に更新しました。
更新内容:記事に加筆をいたしました。
「自力と他力」と「意識と無意識」
意識と無意識。
自力と他力。
あなたが知識収集を目的としているのではなく、自己の進化的成長を望んでいるのなら、これらを「善と悪」というような反対語としての関係で捉えてはいけない。
意識とは無意識の一部だ。
自力とは他力の一部だ。
ゆえに「頭と体」といったような、システムの一部と全体としての関係で捉えなければならない。※1
頭は体の一部なのだ。
(その自覚の有無はさておき、)私たち命あるものの活動の主体は無意識だ。
実際のところは、意識でさえも無意識に操られている。
自力(意識)でさえも他力(無意識)に操られている。
その正体は「自力を装った他力」であり、愚かなエゴが「自力のつもりでいるだけ」のことなのだ。
このような意味において、意識/自力とは幻想なのである。
このような意味において、人類は催眠術にかけられているのである。
このような意味において、意識を自己の主体とするなら、あなたは行為者ではなく観照者でしかないのである。
意識とは無意識の火から生じた火花だ。
意識とは無意識の海から生じた波しぶきだ。
母体は無意識なのである。
ゆえに、もともと意識とは無意識にとっての道具に過ぎない。※2
進化の順序からみてもわかるように、生物学的観点からすれば意識の歴史はとても浅い。
なぜなら、心(意識)とは体(無意識)にとってのオプション(追加物)でしかないからだ。
生物の活動における主体は無意識だ。
現に、いわゆる下等生物と呼ばれるものたちは、意識なしで生きている。
街を見わたせば、意識なしで生きている人間たちで溢れている。
母体は無意識なのである。
誕生日とは、肉体としてのあなたが生まれた時のことだが、意識としてのあなたの誕生日はもっと後だったのではなかろうか?
意識としてのあなたが生まれた日、つまり、意識としてのあなたの記憶があるのはもっと後になるだろう。
肉体が生まれてからかなり後に意識が生まれてくる。
裏を返せば、(いくら親のサポートがあったとはいえ)あなたは意識なしで生きていたということになる。
思い出してみて欲しい。
1日24時間。
その中で、意識としてのあなたが存在していた時間はどれくらいだろうか?
1日24時間。
その中で、意識としてのあなたが主体として行ったこととは何なのだろうか?
そもそも「《私》がしたいこと」とは「《それ》がしたいこと」すなわち「《無意識》が《私》にさせたがっていること」なのではなかろうか?
一人遊びのお為ごかし。
しかし、あらゆる自己同一化から永遠に開放された者にとっては、意識も無意識も《私》ではない。
意識と無意識、それらの母体である絶対意識こそが《私》である。
意識も無意識も純粋意識でさえも、絶対意識/私から生じた火花のようなものである。
火花にはそれぞれの火花ゆえの美しさもあるであろう。
しかし、一たびそのような(永続的な直接的体験に基づく)理解が生じてしまえば、そのような《己の排泄物》に同一化しようなどと思うわけがない。
《同一化できないもの》すなわち《対象化できない唯一のもの》こそが《永遠不滅のあなた》すなわち《絶対意識》なのである。
そして、このような《絶対意識としての私》の(注視点ではなく立脚点としての)視点からすれば、自己意識ですら対象化することができるのだ。
自己意識(観照者)も純粋意識も永遠不滅ではない。
現れては消えていく・・・
対象化できない絶対意識を探すことなどできやしない。
ゆえに、もしもあなたが悟りたいのであれば、意識としてのあなたがそこに《行く》のは不可能であるため、絶対意識の働きによってそこに《帰してもらう》しかないのだ。
意識を保ちながら、意識の源泉である絶対意識に帰らなければならない。
その時、闇(絶対意識)が光(意識)に灯される。
そのためには、どうすればよいのか?
そのためには、いかに高次の他力である恩寵を誘導するかだ。
同時に、いかに《見せかけの自力》という幻想を手放すかだ。
しかし「簡単すぎるので難しい」のであろう・・・
催眠術にかかっているからね。
せめて、その事実を見極めることができていれば、後は簡単なのだろうがね・・・
脚注
※1
言葉に騙されるのではなく、本質を見極めること。
連想に流されるのが自然発生的思考というものであり、そのような自然発生的思考に流されないようにするのが知性の役目だ。
※2
意識とは無意識の火から生じた火花だ。
意識とは無意識の海から生じた波しぶきだ。
母体は無意識なのである。
ゆえに、もともと意識とは無意識にとっての道具に過ぎない。
だから大多数の人間にとっては、意識の火花を絶やさないように育み続けて自己意識へと結晶化させていくことは困難なのだ。
それに、意識への絶え間なき集中のための余剰エネルギーも必要だというのに、現代人は慢性的なエネルギー欠乏症といった有様である。
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