
悟った人というものはね・・・
この記事は2021.1.18、9:55に更新しました。
更新内容:記事に加筆をいたしました。
悟りとは
一口に悟りといっても、自己意識の悟り(小悟)と純粋意識の悟り(大悟)とでは、その次元や境地も異なってくる。
悟った人というものはね・・・
純粋意識の悟り(大悟)を実現した人というのはね、知性と感情と本能それぞれが平均的な人たちよりも高いレベルにまで発達しており、さらにそれらはその人にとっての最適なバランスがとれた状態にある。
もちろん、その人のボディータイプによって、それらのバランス構成は異なるため、それなりの偏りはあり、それがその人としての個性となっている。
つまり、
車=身体
運転手=自己意識としての「私」
のようなものである。
車にも俊敏なスポーツカータイプのものもあれば、馬力のあるジープタイプのものなどがあるように、魂の乗り物としての身体にも個性があるのである。
そして人は悟ったからといっても、その車(身体)を交換することはできないのである。
ちなみに、悟りの過程において生じる癒やしや浄化は、車においての修理のようなものであり、新車を手に入れることではないので、その車(人)固有の個性は変わらない。
しかし、そんな彼らの本質は、赤ん坊みたいなものなんだよ。
良くも悪くもね。
日常においては、普通の人のように振る舞うこともできるわけだが。
良くも悪くもとは、繊細さが時には神経質に見えることがあるように、
長所と短所は、受け手の視点や価値観の違いなどによって、いくらでもひっくり返るものだから、良くも悪くもそれがいわゆる特徴ということであり・・・
赤ん坊みたいだということは、
悟った人は感情を抑圧したりする必要性などからも解放されている
ということでもあります。
もちろん、悟りの後の熟成による変容のプロセスがどれだけ進んでいるかによって、その現れ方にも違いがあるけどね。
「大悟の後の熟成による変容」とは何なのかにつきましては、以下の記事をご参照ください。
肉体/精神としての自分に興味がないから、基本的には、ほったらかしのわけだよ。
肉体/精神としての自分という飼い犬みたいな存在が、何をしていようと、そこにはあまり干渉しないわけであります。
その飼い犬に過剰に干渉してわざわざ自己同一化などしなくても、起こるべきことが自然に起こることを知っているわけだから・・・
肉体/精神との自己同一化から完全に開放された意識状態になれば、このことは疑いようのない明白な事実であることがわかるようになる。
肉体のことにおいては肉体中枢が、思考のことにおいては知性中枢が、感情のことにおいては感情中枢が、それぞれ任されている仕事を自動的にしてくれるわけですから。
たとえば、あなたがある目的地に向かって車を運転している場合、あなたが気づいていようがいまいが、肉体中枢が車の運転という仕事を任され、知性中枢は目的地への到達ルートの認識という仕事を任されといったように、それぞれが同時に別々の働きをしてくれるわけであります。
「泥酔していて記憶がないのに、どうやら一人で歩いて家に帰っていたようだ・・・」なんて話をよく聞きますが、そのようなことが起こり得るということがその証左であります。
記憶がないということは、自己意識としてのあなたは完全に眠りこけていたということになりますからね。
いわゆる無意識的な意識状態にあったということですよ。
自己意識としてのあなたは眠っていたが、肉体中枢はまだ眠っていなかった。
だから、それでも家に帰るという必要な行為は自ずとなされていたというわけであります。
つまり、
自己意識としてのあなたなしでも、車の自動運転のように、行為者としてのあなたはそれなりに機能することができる。
というわけであります。
そのようなほったらかしの犬状態においては、その人の体質に由来する気質であるボディータイプが露骨になるわけだよ。
ほったらかしであるということは、抑圧もしないということだからね。
ですがボディータイプという生まれながらに備わったプログラムがあるからこそ、外的刺激(入力)に対して全てが自動的に起こるわけであります。
性懲りもなく、それに逆らい続けて疲労困憊(こんぱい)するのが、いわゆるエゴとしてのあなた、すなわち思考者としてのあなたです。
より厳密に言うなら、知性や思考と自己同一化しているあなた(自己)ということです。
感情を抑圧する主体とは、思考者としてのあなた、つまりいわゆるエゴでしょ?
けど悟った人は、もはや知性や思考とは自己同一化してないからね。
知性や思考や気づきなどといったものを、「自己」として認識(誤解)していない。
知性や思考や気づきなどといったものを、「自己の道具」として認識(自己理解)しているのです。
だから、
「ここで、この怒りを押さえとかなくては・・・」みたいな作為(想念)がない。
「こんなことを言って、嫌われたらどうしよう」みたいな恐怖感(想念)もない。
「こう言ったら、こう思われるかもしれない」みたいな計算(想念)もない。
基本的にはね。
人は悟りによって想念から解放されるというのは、そういうことでもあるんだよ・・・
とはいっても、気づいてはいるけどね。
だから、必要性がある時には、肉体や精神を意識的に制御することはできるわけだよ。
しかし基本的には、そんなゲームに興味がないんだよ・・・
意識としてのあなたが、個人的な必要性だけに基づく作為などといった想念と自己同一化すると、結果的には自分も周りも、全てを汚染してしまうことを知っているんだよ・・・
そんな私の体験に基づく理解と同じような発言を、ようやく見つけることができました。
さすが、ニサルガダッタ・マハラジです。
吹っ切れています。
勇気があります。
そして「尊敬されたい」みたいな世俗的な欲望(想念)からは、解放されていることがわかります。
それでも人間社会の中で生きていくということは、それなりに知性を使って普通の人間のような演技をしなければならないわけだよ。
しかし苦労してわざわざ悟ってからも、そんな面倒なことはしたくないから、悟った人は俗世を離れて隠居したがるというわけだよ。
ラマナ・マハルシのように、山にこもったりね・・・
私なんかもプライベートで、外に出るのは月に一回くらいだからね・・
もちろん私にしかない力を頼りにして助けを必要としている人が目の前にいるなら、きちんと向き合って、できる限りのことをするわけだけど、助けを必要としている人をわざわざ自分から探しに行くような愚かなことはしないよね・・・
ラマナ・マハルシも異なる切り口で、そのことについて言及してくれています。
質問者:「遠く離れた森の中に、またチベットの山中に住んでいる聖者たちは、それでも世界の役に立ちますか?」
マハルシ:「真我の実現は、たとえ聖者たちがどこに住んでいようとも、人類に与えることのできる最大の助けです。」
(中略)
質問者:「しかし、もし彼が人々と交われば、より効果があるのではないでしょうか?」
マハルシ:「交わるべき他の人たちはいません。真我は一つであり、唯一の実在です。」
[引用:『不滅の意識 ~ラマナ・マハルシとの対話~』ポール・ブラントン著/P276・1行目~P277・2行目]
つまり、
悟った人というのは、他人から見れば何もしていないように見えている時こそが、世界に対して一番貢献している時であるからね。
そのような時にこそ、自身の意識内において、全ての存在に対して目覚めや癒しなどのエネルギーを放射し続けているわけですよ。
この外的な世界を通してではなく、存在と意識の根源から内部を通して直接的に・・・
もちろん、そのような目的をもって意図してやっているわけではないのですが。
ですが、それはノーコンタクトでの直接伝達がなされているのと同じことなのであります。
もっとも、それぞれの存在が、自身の意識の根源から流れ込んでくるその純粋意識との接触をどれだけ自覚できるのかは、その在り方や意識レベルなどに左右されることとなるわけですが。
一人で熱心に修業をしている人たちが受け取る目覚めという形での恩寵というものには、そうゆう意味での直接伝達に由来するものもあるのだと思うわけであります。
言い換えるなら、悟った人が増えれば増えるほど、そのような意味での直接伝達の力は増大するということになります。
つまり目覚めを受けとる人が、どんどん増え続けることとなります。
しかし、「現在の地球においては、お世辞にもそのような現状にあるとは言えない」ということを考えれば、現実的には悟った人というものがいかに少ないかということがおわかりになるかと思います。
私たちが赤ん坊を見て癒(いや)されるのは、彼らが無自覚的な悟りの状態にあるからでしょ。
それを真なる自己の目覚めの直接伝達と言うことはできないけれど、肉体/精神の次元での間接伝達ではあるよね。
つまり赤ん坊は、それなりのスピリチュアル教師と同程度の伝達レベルは有しているということだよ。
勿論そのような安らぎの情緒を感じとる程度では、真なる自己の目覚めが生じるわけはないけれど・・・
そういう意味でも、覚者というものは赤ん坊に似ている。
詩聖と称されたインドの詩人、ラビンドラナート・タゴールの詩に以下のような意味のものがあるよね。
赤ん坊の誕生は、神からのメッセージである。
「神は、まだ人間に絶望していない」と・・・
ラビンドラナート・タゴール
つまり、
あなたが真なる自己として生まれ変わるということは、赤ん坊の誕生以上に神や世界にとっての大きな希望ともなるのである。
もっと理解を深めたい・・・
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