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基礎知識

悟った人とは〜悟りの視点からみた「複数の自己」〜【悟りのリストランテシリーズ8】

「悟った人」とは?

「悟った人」についてを語るためには、まずはじめに「『悟り』とは、何なのか」を明確にしておかねばならないでしょう。

「お金持ちの人」についてを語るためには、まずはじめに「『お金持ち』とは、少なくともどれくらいのお金(または資産)を持っていることなのか」をはっきりとさせておかねばならないのと同じことです。

なぜなら、とても収入が多いので「お金持ちだと思われていた人」が「実はお金遣いが荒くて借金まみれ」だったり、悟りの指導をしているので「悟っていると思われていた人」が「実はただの勘違いの愚か者でしかなかった」などというようなことも現実には多々あるからです。

そのうえ、世の中には「お金持ちのフリをしている、借金まみれの見栄っ張り」がいるように、「悟ったフリをしている、劣等感まみれの見栄っ張り」もいるのです。

 

しかし、そのような「嘘や間違いを見抜くこと」は容易ではないかもしれません。

なぜなら、お金持ちの人の「お金の量」なら(通帳などに記載された)具体的な数字によって簡単に測ることができるのですが、悟った人の「悟りの境地」においては具体的な数字によって客観的に測ることができないからです。

ですが、あなたが『悟り』を測るモノサシを手に入れることができたなら、もはや見誤ることもなくなるでしょう。

さらに、お金持ちにも「小金持ち」や「資産家」や「大富豪」などといった、上を見れば切りがないほど様々なランクがあるように、一口に「悟り」といっても「自己意識の悟り」「純粋意識の悟り」「絶対意識の悟り」などといったように、大きく分けて異る3つの境地(ランク)があるので、『悟り』を測るモノサシを手に入れておくためにも、以下の記事(『悟りの地図』)をお読みになれてからこの記事をお読みになられるのも良いでしょう。

 

「悟り」とは「自己を悟る」ことである。

簡単に言うなら、

「悟り」とは「自己を悟る」ということである。

 

ですが、玉ねぎの皮を剥(む)けばいくつもの層があるように、一口に「自己」といっても「人間とは『複数の自己』によって構成された多次元的存在である」がゆえに、その「自己」というものの掴み所がないのでございます。

このことを大まかに理解するためにも、まずは以下の表をご覧いただきたい。

 

「馬車」にたとえた「複数の自己」

車体 御者 主人
肉体 感受性 知性 自己意識

 

スペースの関係で、表においては省略することとなったが、厳密にいうなら以下のような表記となる。

 

車体:肉体としての自己

馬車の本体となる車体

肉体としてのあなた

「生存」のために「動くこと」をモットーとする。

 

馬:感受性としての自己

車体を牽引する馬

感受性としてのあなた

「自身にとっての『快適さ』や『心地よさ』を追求すること」をモットーとする。

特に「感情」に関心があり、「快」を求めて「不快」を避けたがるので「快楽原則」に支配されることとなる。

 

御者:知性としての自己

馬を制御する御者

知性としてのあなた

「思考」による「判断」や「認識」を得意とする。

それゆえ、「快楽原則に従って、自身にとっての快楽や心地よいもののある方向にしか進もうとはしない馬」を調教および制御する役には適している。

しかし、健全な発達を遂げることのできなかった御者は、「(自己の成長のための)馬の制御」という義務を忘れて眠りこけているので、快楽原則に支配されている馬を「自発的に制御すること」ができない。

異常な発達を遂げることとなった御者においては、たとえ眠ってはいなくとも、「(自己の成長のための)馬の制御」という義務は放棄しているので、「(自己の成長のために)自身の馬を制御すること」よりも「(自身の発散のために)他者の馬を攻撃すること」や「(自身の喜びのために)他者の馬を傷つけること」「(自身の劣等感を埋めるために)他者の馬を支配すること」などに関心を持つようになっていく。

「いじめ」「虐待」「(親子関係や恋愛関係などにおける)過剰な支配関係」なども、そのようにして起こるのだ。

たとえ本人に、その「自覚」がなきにしても・・・

 

主人:自己意識としての自己

御者に指示する主人

自己意識としてのあなた

馬につきっきりの御者とは違い、主人は馬車全体を俯瞰するように見渡すことができる。

そのようにして、主人は馬車の連携が乱れないように(「複数の自己」が混沌としないように)監視をもしているのである。

それゆえ、主人は「他者からの視点」のように「自分をも客観的に観ること(メタ認知)」ができるのだ。

しかし、大多数の人においては主人が存在していないので「主人を生み出すこと」が「最初の悟りのための取り組み」となる。

 

そして何より、「主人を生み出す」ためには「健全に発達した御者がいなければならない」ということは、言うまでもない。

 

馬車としてのチームワーク

これら全てがチームとなって「一人の人間(馬車)としてのあなた」が作られているのである。

ならば、チームワークがバラバラの馬車よりは、まとまりのある馬車の方が良いでしょう。

それゆえ、馬車の車体は馬によって牽引され、その馬は御者によって制御され、その御者は主人の指示に従う、それが「馬車としての理想の形」でありましょう。

しかし、御者がきちんと馬を操縦できていなければ、馬車は御者の望む方向ではなく、馬の望む方向にしか進んでくれません。

 

自己の混乱〜心の「悩み」や「矛盾」や「葛藤」〜

それは、「複数の自己」という様々なパーツ(部分)からできあがっている「人間という馬車」においても同様なのです。

なので、「御者(知性としてのあなた)の進みたい方向」と「馬(感受性としてのあなた)の進もうとしている方向」とが異なる時、それが「心の『悩み』や『矛盾』や『葛藤』」すなわち「自己の混乱」による苦しみを生み出すこととなるのです。

 

ダイエットのために食事の量は控えておきたいのだけれど、結局は食べ過ぎてしまう時のように・・・

結婚が叶わぬ不倫の恋なので早く終わらせたいのだけれど、結局は逢いに行ってしまう時のように・・・(笑)

(小林明子の楽曲『恋に落ちて -Fall in love- 』の有名なフレーズ(「ダイヤル、回して、手を止めた〜〜〜 ♪ 」)においては「(馬が)ダイヤルを回して、(御者が)手を止める・・・」そんな、けなげな「葛藤」が綴られています。その時点では、御者の方に軍配が上がっているようですが。しかも(この記事を読み進めていくうちにその意味がわかりますが、)その後に続く「I’m just a woman ♪」という歌詞がなんとも象徴的です。)

 

ですが裏を返せば、「御者(知性としてのあなた)」と「馬(感受性としてのあなた)」との連携がきちんととれていれば、そのような「自己の混乱」による苦しみは跡形もなく解消されていくのです。

 

仏教的な「悟り」とは?

「悟り」とは「自己を悟る」ということである。

私はそう書きました。

 

ならば、先の「馬車のたとえ」における「車体」に相当する「肉体としての自己」のことなら、誰もが悟っていますよね・・・

しかし、それは「すべての人間にとっての自明の悟り」であり「仏教的な意味での悟り」ではありません。

 

ならば、「仏教的な悟り」とは、どのようなものであるのでしょうか?

詳しくは以下の記事をご参照ください。

 

馬車のメンテナンス

私が毎日の晩酌をするのは「毎晩の『馬車のメンテナンス』」のためである。

簡単に言うなら、その日も私のために誠実に働いてくれた「『馬』をねぎらうため」である。

このスタイルは18歳頃から変わらない。

 

馬へのご褒美

美味しいお酒と食事に舌鼓を打つ「晩酌」の時間は、馬(感受性としての自己)につなげられた手綱(たづな)を緩めてあげる「唯一の時間」だ。

特に探求時代の私は、(それが世間的に良いとは思わないが)仕事も結婚もせずに、何年にわたって毎日、ほとんどの時間を瞑想に費やし続けていたわけである。

(脚は痛いは腰も痛いは、一日中じっと座っていなければならないはで、元来が奔放な馬にとっては、なんとも辛かったことであろう。猫には1分間でも、お座りをさせることは難しい。たとえ犬でも、8時間ものお座りは無理だろう。)

だから、それを終えた夜の晩酌時のみが馬(感受性としての自己)にとっては「憩いの時間」だったのである。

(私がタバコを吸うのは、オーバーワークとなりがちな「御者(知性としての自己)」に一息入れるためである。まさに一服なのである。なので、質疑応答による知性活動よって「御者(知性としての自己)」が大忙しとなるスカイプセッションでは、必然的にタバコの量が多くなる。)

厳格な働き者でもある「御者(知性としての自己)」にはその日の仕事の終了を告げ、お酒も飲ませてあげることによって、馬(感受性としての自己)につながれた手綱は自ずと緩められることとなる。

御者の命令にひたすら従うという仕事」後の自由を満喫する馬(感受性としての自己)には、美味しいものも食べさせてあげる。

(だから私は晩酌時のお酒や料理の味には、とてもうるさいのだ。それは「馬へのご褒美の時間」、すなわち、味覚を通して「『感受性としての自己』に快を与えてあげるため」の唯一の時間なのだから・・・)

その時に馬(感受性としての自己)が望むのならば、お気に入りの音楽も聴かせてあげる。

だから、晩酌時の私は(仕事を終えた「御者」のためにも)ゆったりとくつろげる曲を好んで聴くこととなる。

 

馬との信頼関係を育むこと

このようなご褒美の時間がなければ、日常における「馬を制御するための抑制」のつもりが「馬を抑えつけるだけの抑圧」になりかねないので、馬が発狂しかねない。

(「真面目な人ほど、頭がおかしくなりやすい」というのは、そのようなバランスを失い、不本意ながらも「制御のための抑制」が「暴力的な抑圧」になってしまうからだろう・・・)

また、馬によるストライキが起きてもいけないので、馬の残業等が長引いてオーバーワーク気味の日には、ご褒美の品も時間も多めに与え、手綱を完全に解いてやることもある。

 

そのような「私にとっての晩酌の時間」とは「御者の休息」と「馬へのねぎらい」の時間なのだ。

 

それに、私は馬と遊ぶのが大好きだ。

 

私が、汚れなき子供たちや動物たちを愛しているのも同じ理由だ。

「内なる馬を愛する」がごとく「外なる馬を愛する」だけのことである。

それゆえ、そんな彼ら彼女らの方も私のことを愛してくれるのは、大人としての私の面倒見の良さによるものだけではないだろう。

大人になっても枯れないように育んできた「童心」心なき大人や教育者たちに摘まれてしまうことがないよう死守し続けてきた「童心」とでもいうべきものを私の中に感じてくれているからこそ「友達にもなってくれる」のであろう。

 

それに僕は、彼ら彼女らに対して(母性的な愛情という意味において)驚くほど優しい。

なぜなら、知性としての自己が未発達である彼ら彼女らは、馬を躾ける必要なんてないわけだから、私の方としても父性的な厳しい愛情を発動する必要などほとんどないというわけだ。

 

当然のことながら、馬の制御のできている生徒にも(相手の成長のために)厳しくする必要などない。

 

そのように馬を愛する「主人としての私」は子供の頃から自身の「御者」にも「馬」にも、とても厳しい男ではあったわけだが、彼らの仕事後である晩酌時には寛容という意味での優しい男になることも知っているので、彼らは明日も私のために懸命に働いてくれるのである。

 

だけど、外で飲む時には(馬の制御が緩くなることで、たとえ不本意であったとしても)他人に迷惑をかけたくはないので、御者(知性としての自己)には普段よりも強めに手綱を締めておかせる。

なので、私は外で飲んできた後にも必ず、馬をねぎらうために自宅で一人で飲み直す。

つまり、馬車としての私が外で飲むのは「(『付き合い』や『相手との関係を深めるため』などといった、)主人としての何らかの理由によるもの」であり、家に帰ってから飲み直すのは「馬へのご褒美のため」なのである。

 

車体のメンテナンス

しかし、そのような飲み方ばかりをしていては「車体(肉体としての自己)」に負担をかけてしまうこととなるので、「車体の主要部品である胃腸」を休めてやるためにも、朝ごはんと昼ごはんは食べないでいるのが毎日の習慣となっている。

お酒も食べ物もタバコも「無添加のもの」にしているというのも「車体」に負担をかけないためである。

(外食においての食べ物においては、完全にコントロールすることはできないが・・・)

 

馬を支配するもの〜快楽原則〜

とはいえ、「普段から御者の言うことを聞かない馬」や「普段から眠っている御者」を引き連れた「馬車(人)」の飲酒というものは、周りの者にとっては厄介なものである。

そんな「御者による制御なき馬車」に乗っている人たち、すなわち「馬(感受性としての自己)が主体となっている馬車」に乗っている人たちは、(「快」を求めて「不快」を避けようとする)快楽原則に支配されているので、人並みの「自己制御」でさえも「不快」と見なして回避しようとする始末なのだ。

それゆえ、「御者による制御なき馬車」に乗っている人たちは、必ずといっていいほど「酒癖が悪い」ものである。

さらにいうなら、快楽原則に支配されている彼ら彼女らは、アルコールのみならず、自身の心地良さにも酔っているで、その酒癖の悪さに拍車がかかる。

それゆえ、そんな彼ら彼女らと話をしていても、私の意識のスクリーンの下には、字幕で「ニヒヒ〜ン!」というイナナキしか表示されていないので、(人といる時は、お酒にも快楽原則にも酔わないようにしている極めてシラフの私としては)話を聞くことさえ苦痛な時が少なくない。

なので、誰かと飲む時は「相手を選ぶこと」が大切となる。

 

「感受性としての自己(馬)」に支配されている人(馬車)というのは、「『快』を求めて『不快』を避けようとする快楽原則」に支配されることとなるので、「自己制御」でさえも「不快」とみなして無意識的に回避しようとする傾向が強いため、自己制御の主体となるべき「知性としての自己(御者)」の発達が著しく阻害されることとなる。

自己制御の主体となるべき「知性としての自己(御者)」の発達が阻害されると、「人(馬車)」としての本質的な成長が起こらない。(たとえ知識の量は増えたとしても、本質的には自己制御が未熟な「子供」のままだからである。つまり「混沌としての自己」のままなのである。)

 

「快楽原則」に支配されないようにするためには、「馬(感受性としての自己)」の気分に流されないよう、「御者(知性としての自己)」が「馬(感受性としての自己)」への手綱をしっかりと握り締めておかなければならない。(「御者を鍛えておくこと」は前提であるのだが・・・)

 

馬を支配するもの〜連想による条件反射〜

そんな『主人が不在の馬車(人)』の実体とは、「野放しの馬」のようなものでしかない。

だから、主人が不在である彼ら彼女らの馬車は、どこに向かっているのかもわからない・・・

本人に訊いても「わからない・・・」と言うだろう。

「なにかに導かれているような気がします!」と答えるようなスピリチュアル中毒者もいるだろうが、そんなものは「神や恩寵による導き」ではなく「馬の欲求による導き」や「ニンジンの囁(ささや)きによる囚われ」でしかない。

それゆえ、彼ら彼女らが具体的にどこに向かっているのかはわからないし、そんなものに興味もまったくないのだが、

少なくともその人は、

自身にとっての『美味しいニンジン』のありそうな場所に向かっている。

ということだけは確かであろう。

 

しかし、本人の想像の中ではともかく、現実においては、美味しいニンジンの「ありそうな場所(主観世界)」と「実際にある場所(客観世界)」とはイコールではないのだ。

賢い「御者(知性としての自己)」が操縦している「馬車(人)」なら、そのこともわかっているだろうが、「御者(知性としての自己)」なき「馬(感受性としての自己)」しかいない「馬車(人)」にはそのことがわからない。

それは、「パブロフの犬」が鈴の音(ね)を聴いただけで、ヨダレを垂らしているようなものなのだ。

しかし、「鈴の音(ね)=エサ(食べ物)」ではないのだ。

 

「連想」とは「心模様(想像)」でしかなく「現実ではない」のだ。

 

それゆえ、どれだけ「引き寄せ」を学んだところで、どれだけ高額の「自己啓発セミナー」に通ったところで、依然として「混沌とした自己」のままの彼ら彼女らの人生には「失望による涙」がつきまとうこととなる

 

このようにして、今日も世界には「馬の悲鳴」が鳴り響き、「馬の涙」が降り注いでいる・・・

 

馬が悪いわけではないのに・・・

 

「『心模様(主観)』と『現実(客観)』との区別」をしっかりとつけるためには、「馬(感受性としての自己)」の声に耳を傾けるだけではなく、「御者(知性としての自己)」の声にも耳を傾けなければならない。(「御者を鍛えておくこと」は前提であるのだが・・・)

 

「自分を愛する」ということ

「躾(しつけ)」とは、読んで字の如く「身体が美しい」と書くように、それは馬車(人)としての美しさにも表れる。

そして、親が子供を躾(しつ)けることは「子供のためでもある」ように、御者(知性としての自己)が馬(感受性としての自己)を躾けるのは「馬のためでもある」のではなかろうか・・・

「有能な社長のもとでは、社員みんなが一丸となってみんなが幸せになることができる」ものだが、「無能な社長のもとでは、社員それぞれがバラバラになってみんなが不幸にならざるを得ない」。

この違いこそが「まとまりのある馬車(『自己意識としての自己』)」と「バラバラで使い物にならない馬車(『混沌としての自己』)」との違いなのである。

 

ゆえに私は、(私が課した課題においては)子供の頃から「御者」や「馬」をとても厳しく躾けてきた。

なにも「悟りたい」などと思っていたからではない・・・

愛すべき馬(感受性としての私)を不必要に悲しませたくはなかったからだ・・・・

傷つきやすい馬(感受性としての私)を精神の混沌の中で苦しませたくはなかったからだ・・・・

 

だから、探求を終えるまでの僕は(私が課した課題においては)馬にとても厳しかった。

「僕が守ってあげるからね・・・」

その約束だけは、必ず果たさなければならなかったから・・・

 

しかし、昨今の悟り系スピリチュアル教師たちとは哀れなものである。

自分の馬でさえも救うことのできない指導者、自分の馬にさえも躾ができていないような指導者、そんな彼ら彼女らが「生徒の馬車を導くこと」などできるはずがない・・・

 

僕は、繊細で傷つきやすい「感受性としてのあなた」のことを本当の意味で守ってあげるために、つまり、僕がいなくなってもあなたがあなたのことをきちんと守ってあげられるようにするために、今のあなたにとっては厳しく聞こえるようなことも言っているのだ。

しかし、そのような僕の想いを信じて欲しいとまでは思わない。

言葉がなくとも心は伝わる。

伝わらない人に対して、そのことを説得する気は、これっぽっちもない。

それは「あなたが判断すること」だし、「童心(ハート)を失って、感受性の根っこが腐ったひねくれ者」には、何を言ってもひねくれた受け止め方しかできないということも知っているからだ。

 

それに、誰がこんな「憎まれ役」を好き好んでやるというのか・・・

しかも、こんなインターネットという公の場で、本名から顔まで晒して・・・

 

『個人セッションのご感想』を読めばおわかりのように、私は本質的にはシニカルな男ではない。

むしろ私は、ロマンティックでトラボルティックな男なのだ・・・

 

馬とのお別れ

僕は、今生において四十数年間も馬には苦労をかけてきた。

「僕が守ってあげるからね・・・」

馬との約束を果たすこともできた。

 

そして「馬(感受性としての自己)」は「魂」へと成長した。

 

それゆえ、あなた方からはどのように見えようとも、

「絶対意識の悟り」を実現した私は、もう馬車には乗っていないのだ。

 

言い換えるなら、

「『絶対意識としての私』は、もともと馬車になど乗ってなどいなかった!」という「(子供の頃から薄々は感じていた)究極の真実」を直接的に自覚している不動の境地に常にある。

 

なので、

「『絶対意識としての私』から見れば、(知覚はこれまでよりも鋭くなるが)自身の心や身体でさえもが「地平線の彼方」にあるような境地なのだ。

 

禅で言うところの「桶(おけ)の底が抜ける」

道元が言うところの「身心脱落(しんじん・だつらく)」だ。

 

魂にとって、これほど快適な自由はない・・・

 

しかし、そのためには「絶対意識としての自己」を悟っていなければならない。

 

それゆえ、現在の私の境地からすれば、(決して否定的な意味ではないが、)悟りに至るまでの探求とは壮大なるフィクションだったのだ。

もともと馬車になど乗っていなかったのだから・・・

「探求のための乗り物」である「馬車としてのあなた」でさえもがフィクションなのだ。

 

それゆえ、

「悟り」とは「『人間としての私』というフィクションからの脱却」である。

と言い換えることができる。

 

しかし、それを知的にではなく直接的に自覚した状態であり続けるということは、(ノンデュアリティの輩どもが考えているほど)簡単なことではない。

 

ブッダでさえも、それなりに壮絶な修行をし続けてきたのだ。

なぜなら、「フィクションとしてのあなた」から卒業するためには、「フィクションとしてのあなた」のテストをクリアーしなければならないからだ・・・

 

「絶対意識としての私」は、もともと馬車になど乗ってなどいなかった・・・

 

禅の公案にもあるように、「壺(つぼ)の中に閉じ込められていたはずのガチョウは、実は外にいた!」という究極の真実己の目で確かめた者にとっては、「ガチョウ(あなた)を救出するためにわざわざ壺を壊す必要などない」ということになるのだが、その真実を己の目で確かめるためには、あなたなりのやり方で壺を割ってみるしかないではないか・・・

たとえ、このことを知識としては知ってはいても、揺るぎなき確かな感覚を伴った境地として「あなたが救出されたこと」を実感することができなければ、あなたそのものは何も変わらないではないか・・・

(このような観点からするなら、)あなたなりの「壺の割り方」「ガチョウ(あなた)の救出の仕方」、それこそが「自己探求」とされるものなのである。

 

「父なる愛」と「母なる愛」

だから、「絶対意識の悟り」によって「定年」を迎えた馬には、今は感謝の気持しかなく、できるだけ休ませてやりたいのだ。

今となっては、できるだけムチは打ちたくないのだ。

私が仕事であまり忙しくならないようにしているのも、そんな馬への感謝や敬意の現れなのだ。

 

優しくなければ、悟れない。

 

賢くなければ、悟れない。

 

なぜなら、優しさには「厳しさという父性的な愛に由来するもの」もあれば「寛容さという母性的な愛に由来するもの」もあるからだ。

そして、今、この瞬間のあなたにとって「どちらの愛が必要なのか」は、その時々においてあなたが決めなければならない。

 

真の愛には「選択」がつきまとう

なぜなら、

真の愛とは、あなたの「今の幸せ」を願うだけではなく、あなたの「未来永劫の幸せ」をも担保しなければならないからだ

 

「母なる愛」によって、あなたの「今の幸せ」を願うだけではなく、「父なる愛」によって、あなたの「未来永劫の幸せ」をも叶えなければならないのだ

 

我が子を愛するためには「父」なる厳しさ「母」なる寛容さとが共に必要であるように・・・

 

つまり、そのような意味において、

悟りとは、「内なる『父』と『母』との愛」によって健全に育まれた「あなた」の成長の証なのである。

 

だから、

 

「愛」と「悟り」とは異なるものではない。

 

私は、そう言い続けているのだ。

 

しかし、

 

「真の愛」には「厳しさ」がつきまとう。

 

それも、付け加えておかねばならないのだ。

 

あなたの「悟り(未来永劫の幸せ)」をも実現させなければならないがゆえに・・・

 

女性は男性のマスター(師)なしに、悟ることはできない。

 

そう言われていることの真意とは、このような意味なのだ・・・

 

すでにおわかりのように、

 

「感受性としての自己(馬)」は女性的であり、「知性としての自己(御者)」は男性的である。

 

「I’m just a woman〜〜〜 fall in love〜〜〜 ♪」

「内なる男性」とでもいうべき御者による制御がなければ、「内なる女性」とでもいうべき馬は『恋に落ちて』制御がきかなくなってしまう・・・

たとえ、その恋の対象が「悟り」や「幸せ」であったとしても・・・

 

ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジ

ラマナ・マハルシが山にこもって一人になりたがっていたのも、死(馬車の解体)という「永遠なる馬の休息」のための準備だったのかもしれない・・・

それは馬にとっては「完全なる解放」に近いものであったことだろう・・・

彼の馬からは「すでに手綱が外されていた」ため、彼は学校にも行かなかった。

 

ニサルガダッタ・マハラジは、山にこそ籠もりはしなかったが、彼がとても怒りっぽかったということも「彼の馬からも手綱が外されていた」ことの現れなのだと私には思えてしょうがない。

(怒りっぽいのが「他者にとって良いのか否か」はさておき、)それもマハラジなりの、その時の「馬への愛情」だったのだと私は思う

 

「絶対意識の悟り」という同じ境地にありながらも、

穏やかであったラマナ・マハルシ。

怒りっぽかったニサルガダッタ・マハラジ。

生まれ持った馬の気質の違いもあるとはいえ、ラマナの住んでいた山よりも、マハラジの住んでいたスラム街の方が、心優しき繊細な馬にとってはストレスの多い環境だったのかもしれない・・・

 

しかし、それでも彼らの馬は、「真の愛」というものをいつも感じ続けていたことだろう・・・

 

「この記事の内容」についての理解をもっと深めたい・・・

 

「悟り」についての理解をもっと深めたい・・・

 

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  1. F. R. / 40代 / 女性

    木幡先生

    「悟りとは、結局のところ何なのだろう?」とフラフラ考えだした矢先に、タイムリーな先生の新着記事が出たので、まさに食い付かんばかりに読み耽ってしまいました。

    「悟りとは何か」のみならず「自分という馬車の扱い方」から「悟った位置からの視点」や「悟りと愛との関係」までと、私が求める答えよりも広く深い内容に感涙いたしました。

    記事からうかがえる先生の日常や人となりにも、思わず笑みがこぼれてしまいます。

    今回も素晴らしい記事をありがとうございました。