1. HOME
  2. 基礎知識
  3. ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)
基礎知識

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)

基礎知識, 意識

1669

この記事は2021.3.12、18:55に更新しました。

更新内容:ささやかな推敲をいたしました。

この記事をお読みになられるにあたって

この記事は、先日掲載いたしました『瞑想のコツ〜思考や感情に巻き込まれないために最も効果的な方法〜』のコメント欄にいただいたコメントでのやりとりを基に記事とさせていただいたものであります。

そのやりとりが長文となりましたため、読みやすくなりますよう、あらためて単体の当記事として掲載させていただくこととしました。

それゆえ、せっかくお読みになられるのであれば、当記事の内容をより深くご理解していただきたいと思いますがゆえ、以下の記事をお読みになられてから当記事をお読みになられることをおすすめいたします。

 

I. H. 様からいただいたコメント

師匠

ここ最近は、頻繁に記事の更新をしていただき、一読者として嬉しい限りです。

<人間とは「多次元的存在」である。>は、まさに木幡先生の教えの根幹ですね。

色々と木幡先生の直接伝達を受けさせて頂いたおかげで、自己意識を含め「多次元的存在である私」を、深く実感できるようになりました。

ありがとうございます。

 

さて、ここ10年くらいの流行で、ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)というものがあり、ここの読者様もご存じのことと思います。

以下のようなやり取りを見たことのある方も多いのではないでしょうか。

 

弟子 「先生、私はまだ悟れません。それにまだ些細なことで悩んでいて心が辛いのです。」

先生 「私はいないんです。私たちはすでにそれなんです。」

 

そんなやり取りを見ると、私が聞き手ならば、まずはそいつの顔面を、デコピンしてやりますね、バシッと!

で、こう言う。

「痛みはないんです。私たちはすでにそれなんです。」

 

ノンデュアリティ系の書籍はたくさん出ていて、それなりに知識として有益な部分もあるのですが、結局のところ、「個人は幻想で、私たちはすでにそれなんです。自由意志なんて存在しません。問題なんて最初からなかったんです。悟りなんてないんです。(もしくは)すでに悟っているんです。」

と言います。

もちろん、高次の智慧としては、何の異存もありません。

しかし、そう言われても、私たちが心の底から求める、霊的な成長には全く繋がらないと思っています。

むしろ彼らは「霊的な成長なんてないんです」と言うでしょうね。

そして、そんなことをいうのは、何もわかっていない証拠だとばかりにマウンティングしてくるでしょう。

 

だから、ノンデュアリティに毒されている人にとっては、「人間とは『多次元的存在』といっても、私たちはすでに『それ』なわけですし、そんなもの幻想だ」と言うでしょうね。

 

もしかしたら、これを読んでいるかもしれない、ノンデュアリティ信奉者諸君!

けどね、そうじゃないんだ。

 

「ある/なし」は、どの次元で語るかによる問題です。

言葉遊びではなんにもならないのです。

 

悟りとは、より高次元の自己を目覚めさせ、霊的な自己同一性を階梯していくこと

ここに真髄があります。

 

たとえるならば、

 

・ノンデュアリティ教師の場合

とても悲しくて涙する小説を読み、それを伝えたくて話したら、相手に「そんなのは全部、紙とインクですよ。物語なんてありません。」と言われるような、冷たく無機質なもの。

(小説が低次の次元世界、それを読むのが高次の認識としてのたとえ、です。)

 

・木幡先生の直接伝達の場合

自分が小説の主人公でもあり、また、それを手にしている読者でもある、という実感的な身体認識がエネルギー的(ここが大事!)にも生じます。

そして、そうなってはじめて瞑想が起こります。

 

ところで、他の生徒さんたちはこのあたり、どんな感想を持っていますでしょうか?

気になります。

 

言葉による伝達 2021.03.09

>弟子 「先生、私はまだ悟れません。それにまだ些細なことで悩んでいて心が辛いのです。」

>先生 「私はいないんです。わたしたちはすでにそれなんです。」

>そんなやり取りを見ると、私が聞き手ならば、まずはそいつの顔面をデコピンしてやりますね、バシッと!

>で、こう言う。

>「痛みはないんです。わたしたちはすでにそれなんです。」

 

臨済禅の公案がらみの提唱なんかでも、師と弟子との、これに似たやりとりが頻繁に出てくるよね。

まだ彼らが生きていたその頃には、(その悟りのレベルに関係なく、師にふさわしいレベルでの)健全な知性を有した師たちがいくらかいたので、当然のことながら師の方が弟子の方にピシャリと的確にやるわけだが、先にあなたが紹介してくれた例ではその関係が逆転しているというのが、なんとも皮肉なものである。

それは、「生徒(弟子)と比べて、相対的に教師(師)の質が下がってきている」という現実を映し出しているように思えてならない。

その上、ネオ・アドヴァイタの拠点である西洋においては、悟りについての理解も歴史も浅いがゆえに、西洋人の方が東洋人へのコンプレックスを抱えているという現実も知らず・・・

とはいえ、西洋人の覚者モドキはビジネス的な売り込みがうまいし、腐った出版社どももそれに便乗しているからであろう。

困ったもんだぜ万次郎・・・

テニスのことならマッケンロー・・・

尾崎豊はロッケンロール・・・(歌い方や終盤においてのアレンジが体癖6種的な意味での暑苦しい曲なのでおすすめするわけではありませんが、ヒマな人はYouTube等で「街路樹」という曲を聴けば、ロッケンロールの意味がわかります。)

 

>「個人は幻想で、私たちはすでにそれなんです。自由意志なんて存在しません。問題なんて最初からなかったんです。悟りなんてないんです。(もしくは)すでに悟っているんです。」

探求時代の僕はネオ・アドヴァイタの人たちの本にはピンと来なかったので、いまだに読んだことはないし、これからも読むことはないだろうけれど、彼ら彼女らは悟りと眠り(悟りではないもの)とをどのように定義しているんだろうね・・・

また、どのような次元での悟りのことを語っているんだろう・・・

実践的な探求においては、クソの役にも立たないどころか有害でさえあるとも言えるラメッシ・バルセカールの教えの延長線上にあるような気もするんだけど、そこのところについてはどうなのかな?

探求においても実生活においても救われない自分というものを受け入れがたい人や、悪いことや失敗をしても人のせいにしまうような人、つまり準備のできていない未成熟な探求者には、うってつけの教えなんだろうけども。

(ラメッシ・バルセカールの教えについては、インテリ特有の馬鹿の一つ覚えのような、その視点においての柔軟性のなさにも辟易する。)

 

>とても悲しくて涙する小説を読み、それを伝えたくて話したら相手に、

>「そんなのは全部、紙とインクですよ。物語なんてありません。」と言われるような、冷たく無機質もの。

 

うまいこと言うもんだね。

 

「そんなのは全部、紙とインクですよ。物語なんてありません。」

たしかに、それは(きわめて稀な)《絶対意識の悟りの境地》、すなわち禅で言うところの〈大智(だいち)〉の境地を実現した人間から出てくる言葉であってね。

それは、理屈の上では間違ってはいないが、そこにはまだ〈大悲(だいひ)〉の境地というものが開けていない。

しかし、〈(高次の慈悲という意味での)大いなる慈悲〉とでもいうべき〈大悲〉というものがなければ、指導者(マスター)にはなれないし、なるべきではないと私は思う。

 

それに〈大智〉のみの状態に留まっている者は、決して表には出てこない。(その意識状態ゆえに「出てこれない」と言うべきか・・・)

〈大智〉へと至った者は、禅の十牛図のラストシーンである第十図にも描かれているように〈大悲〉によって表に出てくるのだ。

究極的な本質においては人間ではないということを悟った者(厳密には意識)が、大悲と大智を携えた人間として戻ってくるということだ。

東洋の教えにおいては、そこをも重要視する。

もちろん、それは〈ただ教えること〉を重視しているということではなく、〈(絶対意識の境地から)愛によって再び立ち上がること〉を重視しているということなのだと思う。

つまり、その動機となるべく「心がこもっているか」「そこに愛があるのか否か」が重要視されているということだと私は思う。

 

(究極的には)いくらインクでできた物語であるとわかっているとはいえ、辛く悲しい物語の中で苦しんでいる目の前の人たちを黙って見過ごすことのできない「良心」までもは捨て去っていない。

だから、自らの物語を抜け出した覚者であるのに、目の前で苦しむ相手の物語の中にまで入っていって語りかけてあげたりもする。

私は、そこに日本的な心の美しさというものを感じる。

〈(悟りがどうのこうのという)見てくれ〉よりも〈(慈悲の)心〉を大切にする本物の師(マスター)としての美しさを感じる。

 

 

ゆえに「そんなのは全部、紙とインクですよ。物語なんてありません」式のスローガンに陥っている彼ら彼女らは〈自己意識の悟りの一瞥を伝えるだけの布教者(メッセンジャー)〉もしくは〈(又聞きによる)絶対の境地を伝えるだけの布教者(メッセンジャー)〉でしかないように思えるのだ。

言い換えるなら、ノンデュアリティをスローガンとするネオ・アドヴァイタの輩たちの活動とは、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジ亡き後、アドヴァイタのボスとして君臨していたプンジャジによる負の遺産の継承、すなわちプンジャジを取り巻く金魚のフンたちや、ラメッシ。バルセカールなどから始まったネズミ講ビジネスのようなものだ。

それゆえ、その実体は〈(真理を論理で理解しただけで悟ったつもりになっている)脳内がお花畑的な人〉や〈(悟りにも様々な次元があるということさえもわかっていないにも関わらず、脳内がお花畑的な人々を食い物にしようとしている)覚者を装っただけの詐欺師(ビジネスマン)〉たちの集まりのように思えてならない・・・

もちろん例外もいるのかもしれないが・・・

以上のことは、わたくし、木幡等の意見ではございませんが、ペヤンガーナンダ先生がそのように申しておりました。(笑)

 

>・ノンデュアリティ教師の場合

>とても悲しくて涙する小説を読み、それを伝えたくて話したら、相手に「そんなのは全部、紙とインクですよ。物語なんてありません。」と言われるような、冷たく無機質なもの。

>(小説が低次の次元世界、それを読むのが高次の認識としてのたとえ、です。)

 

>・木幡先生の直接伝達の場合

>自分が小説の主人公であり、また、それを手にしている読者でもある、という実感的な身体認識がエネルギー的(ここが大事!)にも生じます。

>そして、そうなってはじめて瞑想が起こります。

 

うまいこと言うね。

(自己意識の悟りにおいては、)やはり君の方が教師に向いているんじゃないか?((笑)というよりは(本気))

 

私たちは物語の主人公(行為者)であり、同時に、その物語を鑑賞している読者(観照者)でもある。※

小説の主人公、すなわちフィクションの中の主人公〈(低次の次元にいる)行為者としての私〉であり、その読み手である「禅でいうところの主人公」、すなわちフィクションの外の主人公〈(高次の次元にいる)観照者としての私〉である、ということだよね。

このような観点からするなら、《自己意識の悟り》とは〈フィクションとしての私(いわゆるエゴ)〉にまつわる夢物語から覚めること、すなわち〈ノンフィクションの私(自己)〉が目覚めることとも言えるよね。

そのためには、まずは夢の中から語りかけねばならないではないか・・・

日本語しかわからないものに英語で語りかけてはならない。

 

〈フィクションとしての私(いわゆるエゴ)〉にまつわる夢物語から覚ますこと

それゆえ、あらゆる宗教的戒律はフィクション(世俗的な物事)に執着しないよう注意しているという側面もあるのかもしれない。

 

「そんなのは全部、紙とインクですよ。物語なんてありません。」とは、すでにフィクションの外側にいる者たち同士でこそ意味を成す言葉だ。

人間としての生を受けた私たちは、まずは物語の中で目覚め始めるのである。

それゆえ、教師たる者、それぞれの物語の中で生きている探求者のためには、それは紙に書かれたものに過ぎないとはいえ、まずは物語の中で語らなければならないのではなかろうか・・・

それができないということは、(知的な理解のみでしか)わかっていない、ただのメッセンジャー(布教者)でしかないということだ。

 

脚注

※. もっと詳細に言うなら、

私たちは小説の主人公(行為者)であり、同時に、その物語を鑑賞している読者《観照者:アートマン》でもあり、その小説の媒体である紙《純粋意識》でもあり、その本の製造元《絶対意識:ブラフマン》でもあるのだ。

もちろん、その自覚の有無は別としてだけどね。

このような分類だけにおいても、私たち人間は多次元的なのである。

しかし、私たちは〈既知のものについてしか語ること〉ができないのだ。

 

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)関連の記事

 

もっと理解を深めたい!

 

関連記事

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。