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自己意識

アドヴァイタ/非二元

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この記事は2020.11.2、18:46に更新たしました。

更新内容:記事に加筆をいたしました。

アドヴァイタとは

アドヴァイタとは、「アド(非、不)+ ヴァイタ(2)= 非二、不二 = 二つでない = ひとつ」という意味です。

この言葉がスピリチュアルな世界において使われるようになったのは、ヒンドゥー教ヴェーダンタ学派において、8世紀にインドのシャンカラによって唱えられてからと言われています。

 

このような非二元論とは、

「この世界における全てのものは、その根源において一つである。

根源である(狭義における)真我=神(ブラフマン)だけが、唯一の実在(リアルなもの)である。

それ以外のものは、現れては消えゆく幻のようなものに過ぎない。」

といった考え方のことです。

 

このような考え方は、20世紀最大の聖者であるラマナ・マハルシによって再び世間の注目を浴びました。

ラマナ・マハルシは、心理学者のユングや、ガンジー、パラマハンサ・ヨガナンダたちからも敬慕されていたほどの覚者(悟った人)であったからです。

ヨガ・マスターであったスワミ・ラーマが「ラマナ・マハルシはシャンカラの生まれ変わりだ」と語っているのも、さもありなんという感じがします。

 

アドヴァイタにおける「悟りの継承」

アドヴァイタにおける伝統的な悟りの伝授(イニシエーション)方法は「直接伝達」である。

このことは、ラマナ・マハルシもたびたび語っている「(言葉による教えよりも)沈黙による教えが最上である」という言葉にも表れています。

 

有名なブッダの拈華微笑(ねんげみしょう)も、実は直接伝達のことであったと解釈すれば、いとも簡単に腑(ふ)に落ちてきます。

そんなブッダの教え、すなわち仏教から始まった禅における不立文字も、本来は「直接伝達」ありきの伝統であったのでしょう。

なぜなら、「直接伝達なしの不立文字(沈黙)」なんぞは、カツ抜きのカツ丼どころか、もはや「食べるもの」さえ入っていないただのドンブリ器でしかないからです。

 

「ブッダの拈華微笑(ねんげみしょう)」も「禅における不立文字」も、その秘密は「直接伝達」にあった。

 

このような観点からいたしますと、「直接伝達こそが、仏教の本流であった」とも言えるわけです。

 

ですが、仏教としての組織の拡大により、現代ではそのような伝統が途絶えてしまいました。

創業者の作るラーメンは絶品だったが、レジピを真似ただけの大規模展開(フランチャイズ化)によって、肝心なものが抜け落ちた「ただの劣化版コピー」になってしまうようなものです。

ですから、創業者の作りだした味とでも言える「真の直接伝達」というものは、現代人にとりましては「考えただけでは理解できないもの」「未知の信じがたいもの」である、ということは当然のことなのであります。

 

ですが、近年でも、ラマナ・マハルシからプンジャジへ、ニサルガダッタ・マハラジからラメッシ・バルセカールへといったように、ごく一部のクローズド(閉鎖的)な環境においては、「アドヴァイタの秘儀」として師から弟子へと受け継がれてもいたのです。

 

そんな直接伝達という「沈黙の教え」ゆえに、プンジャジの教えなどからもわかるように、アドヴァイタは「直接伝達による悟りの伝授」が神髄であるので、理論的な部分はとても大雑把なのであります。

おそらく彼らは、悟りに至るまでの過程というものを、目覚め(悟りの始まり)と悟り(目覚めの完結)くらいの大きな区分でしかしていないのだろうね。

なぜなら、プロスポーツの場において、コーチのアドバイスを、その身体感覚だけで身につけることができる優れた選手たちばかりがいるのなら、言葉での説明は最低限のもので済む、というわけです。

「帰依(きえ)の道」としてのアドヴァイタ

マントラや聖音(ナーダ音、オーム音)や呼吸法などを用いたりしながら、順次にチャクラを覚醒させていくなどといった理論に基づく瞑想を基盤とした修練を重要視するヨガなどといった「知識の道」とは違い、アドヴァイタは「直接伝達による悟りの伝授」を基盤とする「帰依(きえ)の道」であると言えます。

 

アドヴァイタ ヨガ
帰依の道 知識の道
直接伝達 瞑想による修練

 

ですが、ヨガや現在の仏教などのような「知識の道」「瞑想の道」においては、知識の受け手である生徒たちが、師の教えを自身の理解レベルに引き下げてしまう危険性もあります

その結果、仏教における悟りの教えと同様、「劣化版コピーの継承」となってしまったのではないでしょうか。

 

一方、アドヴァイタにおいては、そのような「生徒側による誤解の余地」を排除するために「沈黙の教え」すなわち「直接伝達」を最上の教えとして位置付けている、という側面もあったのでしょう。

つまり、師が弟子たちに、最高級のメロンの味についてを言葉で説明するよりも、実際に食べてもらう方がわかりやすい。

そのような意味において、「直接伝達による体験に基づく理解」には、誤解の余地がありません。

直接伝達とは、母親が赤ん坊に食べさせてあげるようなものです。

ですから、アドヴァイタの伝統においては、理論的な教えの部分はとても大雑把で時に幼稚ですらありながらも、「悟りというメロンの手渡し」のように、直接伝達という最も強力な秘儀によって悟りの継承が(少数ながらも)確実になされてきた、というわけなのであります。

 

「瞑想」と「直接伝達」

もし、あなたが長年に渡って探求を続けてきたのなら、もう身に染みてわかっていることでしょう。

理論に基づく実践だけでは、どうにもならないという厳しい現実。

何事におきましても「百聞(ひゃくぶん)は一見に如(し)かず」、要は「自分で食べてみれば間違いはない」のであります。

 

みなさまもご存知のように、一口に瞑想と言いましても、「大乗仏教」「小乗仏教」「禅」「ヨガ」などといった様々な流派の中に、さらに様々な瞑想の種類があります。

ですから、それら全てを試しながら、目的に見合った確実な効果が出てくるような「正しい瞑想」を見つけるまでには膨大(ぼうだい)な時間がかかってしまいます。

また、独学で行うことでやり方を間違えていたり、間違った指導者についてしまったりして、逆効果になってしまうことも少なくありません。

ですから、そのような「従来型の瞑想」によって、短期間で劇的な効果をあげてきた人というのは、ほんの一握りの天才たちだけであります。

大多数の人々は、何十年にもわたって瞑想をし続けても、そこそこの効果しかあげることができない、というのが現状なのです。(そんなに簡単なら、僧侶がお寺で何十年も修行をする必要などないですよね。)

 

ですから「従来型の瞑想に限界を感じている!」「瞑想を確実かつ迅速に深めていくためのショートカット(近道)を探している!」という方は、本物の直接伝達ができる師を見つけると良いでしょう。

 

もっと理解を深めたい!

 

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