ニサルガダッタ・マハラジ

この記事は、2019年4月24日、20:05に更新しました。

更新内容:記事全般の随所に加筆修正をいたしました。

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話

 

 

ニサルガダッタ・マハラジについて

ニサルガダッタ・マハラジは、その教えを乞う人々に対し、瞑想によって「私は在る(I AM)」という感覚を自覚させ、そこに留まり続けることを生涯に渡って提唱し続けてたアドヴァイタ系のスピリチュアル・マスターです。

 

マハラジの言うところの、この「私は在る(I AM)」についてでありますが、現在の私の考えからしますと、それは主に自己意識のことだと考えた方が探究においては実践的に取り組みやすいかと思います。

より広く捉えれば、内なる静寂聖なるものをも含めて良いと思いますし、さらに高次な「私は在る(I AM)」として自己意識聖なるものとが融合された真なる自己のことをも含めても良いかと思います。

マハラジの言うところの「私は在る(I AM)」、すなわち「それに留まっていれば悟りに至る」とされるものとは、自己意識内なる静寂聖なるもの真なる自己以外にはありません。

それらの中で最も最初に必要なのが、「想念(マインド)に汚染されていない純粋なあなた」、つまり自己意識(の目覚め)であることは言うまでもないからであります。

さらに高次の真なる自己へと目覚めていくのは、あなた(自己意識)なのですから・・・

意識として進化していくのは、あなた(自己意識)なのですから・・・

そしてマハラジが言うところの、意識に先立って在る「実在/絶対/至高/パラブラフマン」とは、一なるもののことに他なりません。

 

彼は伝統的な表現、つまり他者に由来する表現にすがるだけの平凡な教師ではなく、「自身の体験に基づいた自分の言葉」で伝えることのできた本物の師(マスター)です。

そして彼は、ラメッシ・バルセカールやセイラーボブアダムソンの師でもあります。

 

 

私がラマナ・マハルシの対話集の次に読んだのが、マハラジの本『アイ・アム・ザット 私は在る』です。

ラマナ・マハルシの『あるがままに』と並んで、私の修行時代の初めから終わりの頃まで、お世話になり続けたとても思い出深い本です。

本とはいえ、もはや私の身体の一部のようなものです。

 

スピリチュアリティ/霊性の知識においてまっさらな状態でラマナ・マハルシやマハラジの本を読んだことで、私のスピリチュアル/霊的な知識の土台が出来上がったことも、今にして思えばとても幸運なことでありました。

もちろん、その他にも数えきれないくらいの幸運が重なっているのですが・・・

 

対話集『アイ・アム・ザット 私は在る』について

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話

これもラマナ・マハルシの対話集「あるがままに」と並んで、私が探求時代の最初から最後の方まで、道に迷うたびに何度も何度も読み返した私のにとっての道標(みちしるべ)となってくれた本です。

「スピリチュアリティ/霊性の目覚めや進化における本質的なこと」から外れるんじゃないぞと、教え続けてくれた本であります。

本物の師の言葉というものは、理屈抜きに入ってきますから・・・

もちろんある程度の直感的かつ知的な理解力が必要なのは、言うまでもないことですが・・・

 

マハラジの最晩年の対話集である『意識に先立って』の厳しい語り口に比べると、かなり表現が柔らかです。

覚者というよりは、学校の先生が小学生に優しく教えているような・・・

マハラジの母性的な優しさの部分がうかがえます。

このことは当時インド国内では無名であったマハラジが、モーリス・フリードマンという西洋人によって西洋で広く紹介されたことにより、マハラジのもとに西洋人が訪れてくるようになったことが関係しているのでしょう。

つまり本当に悟りを求めてマハラジのもとにやってきた人は極めてわずかであり、スピリチュアル/霊的な知的好奇心を満たすためだけにやってくる人が多かったからなのだと思います。

ですからその教えは来訪者の成熟度によって異なりますので、初心者向けのものから成熟しつつある探求者向けのものまで、幅広く掲載してあります。

言い換えるなら、これはこの対話集に限ったことではありませんが、自分が今どこのステージにいるのかがわからなければ、どのページの教えを取り入れていけば良いのかが迷う方もいらっしゃるかと思います。

 

 

対話集『意識に先立って』について

意識に先立って ― ニサルガダッタ・マハラジとの対話

 

本日、私のもとにも届きます。

 

マハラジの最晩年の教えの対話集ですから、成熟した人のみを対象としたもののようです。

マハラジ流に言うなら、「私は在る」の感覚を自覚している人が対象となるということでしょうかね。

肉体の死を意識した晩年には、教えのレベルを上げて、ほとんど生徒が来なかったと言いますから。

私の教師としての体験からも、教えのレベルを上げると、誰もついてこれなくなるということは、とてもよくわかります。

 

探求時代の私だったら、待ちに待った出版だと喜んでいたことでしょう。

私は、指導の参考に注文しました。

人間としての私においては、「本物の男」「本物の人間」に触れることのできる喜びもあります。

 

さて、

タイトルとなっている「意識以前」。

個人的には、マハラジが何をもって意識と定義していたのか、

すなわち「意識以前」というものを、聖なるもの聖なる次元のこととして語っているのか、それとも理解されないことを承知で究極的な非二元の次元のこととして語っているのかが、見どころです。

言い換えるなら、目覚めの状態を語っているのか、悟りの状態を語っているのか・・・

ま、どうせマハラジの話すインドの言語から英語、そして日本語という順序での二重翻訳、しかも当然、悟っていない二人が通訳として介在しているわけから、私が読んでも「なんのこっちゃ?」と、わからない表現にたくさん出くわすこととなるとは思いますが・・・

つまり、また聞きや噂話レベルの精度の情報になる恐れはあります。

 

しかしその底流に流れているエッセンスには間違いがありません。

成熟した読者なら、そのエッセンスを飲み干すことができるでしょう。

 

私からの解説は、この本を読んでから、書いていこうと思います

とは言いましても、私はもう探求者ではありませんので、一日で読むようなことはありません。

今となっては、気が向いた時にのんびり読みますので、読み終えるのはいつのことやらですが・・・

 

半分くらい読みました。

先の『アイ・アム・ザット 私は在る』と異なり、こちらはいわゆる悟りを求めている探求者を対象としたものです。

ですから当然のことながら、その語り口は先の『アイ・アム・ザット 私は在る』と比べてかなり厳しいです。

なぜなら、ある観点からすれば悟りへの道は、ゴールに近づけば近づくほど厳しくなってくるからです。

それまでの自力(エゴ)の在り方から、それまで全く馴染みのなかった他力(聖なるものへの明け渡し)の在り方へと移行させなければならないからです。

悟りというゴールに近づいても厳しくなってこないなら、目覚めが起きた人はみんな悟れるということになりますが、それなら世界は悟った人で満ち溢れていることになりますし、そうはなっていない厳しい現実があることくらいはご想像がつくことでしょう。

私も目覚めが起きた生徒やお客様を見てきて、そのことは痛感しています。

なぜそのようにはならないのかは、以下のグルジェフの本の観点からの説明も腑に落ちるところです。

悟りを阻む強力な諸力についての言及があります。

 

話を戻しますが、そのようなわけで、この本でのマハラジは厳しく見えます。

マハラジが厳しいのではないのです。

最終ゴールである悟りの実現がとても厳しいものだから、その教えが厳しくなるのは当たり前のことです。

厳しいのは、マハラジのせいではありません。

私たちの住むこの地球という星には、その必要性もあり、悟りを阻む強力な諸力が存在しているからです。

 

私の教えが厳しく聞こえるのも、何よりもまず早く悟りたいと言っている方を相手にしている時だけです。

お悩み相談的な通常のカウンセリングでは、母性的な在り方で接しているわけです。

 

今日はこのへんで・・・

続く

 

 

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