瞑想
この記事は2021.1.29、18:06に更新しました。
更新内容:記事下に『この記事のまとめ』を掲載いたしました。
瞑想における真の目的
「本来の瞑想の目的」言い換えるなら「瞑想の真の目的」とは、高次の自己、すなわち通常の行為者としての自己や思考者としての自己よりも高次の自己である観照者としての自己や純粋意識としての自己などを目覚めさせていくことです。
そして、そのような瞑想の際の妨げとなるのが「絶え間なき思考に基づく心のおしゃべり」や「恐怖や欲望に由来する白昼夢」に巻き込まれてしまうことです。※1(記事下の脚注を参照)
しかし、毎日数時間の瞑想を続けている程度で、自らの意志によって心のおしゃべりや白昼夢を止めることなど簡単にできることではありません。
なぜなら、自然発生的な思考や白昼夢は、自らの直接的なコントロールが届かない領域である潜在意識から湧(わ)き起こってくるからです。
そんな心のおしゃべりや白昼夢を止めるためには、ヘッドセンターというエネルギーセンターを機能させておくことが役に立ちます。
充分に活性化されたヘッドセンターから放射される高次のエネルギーは、低次のエネルギーである潜在意識レベルでの思考や白昼夢を無力化することができるからです。
それこそが真の錬金術、すなわちエネルギー的変容による自己の錬金術であります。
そのためには、ヘッドセンターの活性化、可能であるならばヘッドセンターの結晶化というプロセスが必須となります。
つまり、結果的にヘッドセンターの活性化または結晶化へと至る瞑想こそが必要である、と言い換えることができます。
集中の瞑想とくつろぎの瞑想
瞑想とは、その性質において集中の瞑想とくつろぎの瞑想とに大きく分けることができます。
スピリチュアルな用語を使って言い換えるなら、集中の瞑想とは気づきに重点をおくものであり、くつろぎの瞑想とは明け渡しに重点をおくものです。
このような観点からいたしますと、マインドフルネスや臨済宗の座禅などは、集中/気づきに特化した瞑想であるといえます。
一方、曹洞宗の座禅である只管打座(しかんたざ)などは、くつろぎ/明け渡しに特化した瞑想であるといえます。
集中の瞑想 | くつろぎの瞑想 |
気づき | 明け渡し |
臨済宗の座禅
マインドフルネス |
曹洞宗の座禅(只管打座) |
参照記事
集中の瞑想:気づきの瞑想
そして、先に紹介したヘッドセンターこそが、まさに集中のセンターであり、気づきのセンターなのであります。
充分に活性化されたヘッドセンターから放射される高次のエネルギーは、低次のエネルギーである潜在意識レベルでの思考や白昼夢を無力化することができるわけですから、つまり「ヘッドセンターを目覚めさせること」こそが「集中/気づきの瞑想のコツ」であると言えます。
なぜなら、ヘッドセンターが目覚めれば、もう瞑想中に集中を「する」必要がなくなるからです。
集中/気づきのセンターであるヘッドセンターが機能していれば、瞑想時に必要な「高次の集中/気づき」は自ずとなされる、からなのです。
また、高次のエネルギーを放射するヘッドセンターが充分に機能するようになれば、毎日の瞑想の質にムラが生じるようなこともなくなります。
これでようやく「後戻りのない進化」が始まり、「進化が加速していく」こととなるのです。
高次の自己を目覚めさせるためには、いかに集中/気づきが大切であるかがわかっていただけたかと思います。
ですから初心者レベルでは、まずはマインドフルネスなどといった集中/気づきを主とした瞑想が推奨されているというわけであります。
くつろぎの瞑想:明け渡しの瞑想
しかし、絶対意識としての自己/他己を目覚めさせていくプロセスにおいては、もはや行為としての瞑想は必要ありません。
なぜなら、そのプロセスにおいては、絶対意識(意識の根源)からの絶え間なき引き込みによって、何をしていようとも、最高次の内なる瞑想、すなわち意識状態としての最高次の瞑想が、自ずと絶え間なくなされているからです。
また、絶対意識としての自己/他己を目覚めさせていくプロセスにおいては、もはや集中としての瞑想も必要ありません。
なぜなら、このステージに至った人の意識内には、ヘッドセンターという強力な集中の自動装置が搭載されているからであります。
この最高次の内なる瞑想、すなわち意識状態としての最高次の瞑想においては、自己意識としての自己もあらゆる思考や白昼夢も、意識の根源である絶対意識という意識のブラックホールに吸い込まれていくのです。※2
そして、その絶対意識(意識の根源)からの絶え間なき引き込みというプロセスが妨げられることなく一定期間を経過することができれば、自己意識としてのあなた(魂)と絶対意識(神)とが一つとなること(魂と神との再会)ができるのです。
つまり、このステージにおいては、絶対意識からの絶え間なき引き込みに、ただくつろいで明け渡していればよいわけです。
それが高次のくつろぎということであり、「神(絶対意識)に明け渡す」ということの本当の意味なのであります。
気づきにおける主体と客体(対象)
ちなみに、ヘッドセンターも自己意識も目覚めていない人が、瞑想中に(高次の何かに)明け渡そうとしても、思考や白昼夢やまどろみに明け渡すこととなってしまいます。
しかしそれは、思考や白昼夢やまどろみに乗っ取られて支配されている、つまりあなたの全てが潜在意識に乗っ取られた状態になっているということなのです。
そして(何らかの有益な情報が含まれているにしても)神秘体験などといったものも、日常体験より高次の体験である、とはいえ白昼夢の一種であります。
だから神秘体験さえも禅では魔境として、バッサリ切り捨ててしまうわけです。
なぜなら、体験とは移りゆくものだからです。
しかし、悟りの道、瞑想の道において大切なものは、より高次の自己を目覚めさせていくこと、すなわち、変わることなき自己の本質を実現することだからであります。
行為者としてのあなたや思考者としてのあなたは、時の移ろいの中で変化や成長もあることでしょう。
しかし、観照者としてのあなたそのものは永遠に変わることがないのです。
それに体験とは、気づきの客体(対象)なのです。
しかし、自己意識とは、観照者とも呼ばれているように、気づきの主体なのであります。
気づきの主体は変わらないからこそ、私たちは気づきの対象の変化を正しく認識することができるのです。
参照記事
脚注
※1
その自覚さえもないという方は、自己観察すらできていない意識状態にあるということです。
そして、「絶え間なき思考に基づく心のおしゃべり」や「恐怖や欲望に由来する白昼夢」に巻き込まれてしまうことによって、自己そのものを見失ってしまうということが、観照者としての自己の眠りの本質です。
ちなみに毎晩の熟睡時には眠っているという自覚さえもないように、狂気に取り憑かれている人には自分が狂っているという自覚もないように、観照者としての自己が眠っている人、すなわち自己喪失している人というのは、自己喪失しているという自覚はありません。
自己喪失を認識するための「自己そのもの」がいないのですから。
ですから、その自覚を即時的に行うためには、ある種のメタ認知、すなわち、より高次の自分(観照者としての自己)から、より低次の自分(行為者や思考者としての自己)を観察することが必要となってきます。
しかし、そのような高次の自己観察とでも言えるものができているのなら、観照者としてのあなた(自己意識)はすでに目覚め始めていると言えます。
なので、それができない人は、事後的に自身の内的なあり方を振り返ってみることで、自己が眠っていた状態にあったのか否かを、正しい知識と正しい思考を用いて検証してみると良いでしょう。
※2
だから、ヘッドセンターが機能していなければ、この引き込みの際に眠ってしまうか朦朧(もうろう)となってしまい、明晰(めいせき)な気づきが失われてしまう。
しかし、それでは睡眠時や泥酔時と何ら変わらないこととなる。
気づきなき明け渡しや集中なきくつろぎは、ただのまどろみや睡眠のような意識状態、すなわち自己の眠りの反映であり、突き詰めていけば、それは自己の死のようなものである。
すなわち、自己喪失(じこ・そうしつ)しているときの私たちは、その意識のあり方において、心のおしゃべりと白昼夢とによって潜在意識に乗っ取られたゾンビなような存在となり、生きる屍(しかばね)のような存在にまで成り下がってしまうのである。
自己観察さえもできない人間(ゾンビ)は愚かだ。
やつらは、大量のポテトチップス(心のおしゃべりや白昼夢)をひっきりなしに食らいながら、ダイエット本(スピリチュアル本)を読んでいるんだぜ。
「今度こそは、ヤセれる(悟れる)はずだ!」と。
そう信じ込みながら・・・
終わりなき夢、
果てしなし・・・
自分が仕掛け人であり被害者でもあるという、なんとも哀れなマッチポンプ・・・
※. 自らマッチで火をつけておいて、自らポンプで消すという自作自演。
ヤクザや政財界のフィクサーなどが、ターゲットとなる人物を型に嵌(は)める時などによく使う手だ。
しかし、これは当人(行為者)にとっては悲劇であるが、観察者(観照者)にとっては喜劇と映る。
悲劇か喜劇か?
それは視点の違いなのだ。
観照者としてのあなた、すなわち、自己意識を目覚めさせることによって、あなたの人生を悲劇から喜劇へと変えるのだ。
演者があなた(行為者としてのあなた)であり、その観客もあなた(観照者としてのあなた)であるならば、全体的な人生においては哀愁のある喜劇のようなものとなる。
喜劇ならば耐えられる。
喜劇ならば楽しめる。
観照者なしに、ユーモアは生まれてこない。
観照者なしには、愛や慈悲も生まれてこない。
親(高次の自己:観照者としてのあなた)と違って、子供(低次の自己:行為者や思考者としてのあなた)は「愛されること」や「愛させること」に夢中なのだから・・・
この記事のまとめ
- 瞑想の真の目的とは、「高次の自己」すなわち「観照者としての自己」や「純粋意識としての自己」などを目覚めさせていくことである。
- 「『絶え間なき思考に基づく心のおしゃべり』や『恐怖や欲望に由来する白昼夢』に巻き込まれてしまうこと」が瞑想を行う上での障害となる。
- 瞑想を続けているからといって、「自らの意志によって心のおしゃべりや白昼夢を止めること」など簡単にはできない。なぜなら、自然発生的な思考や白昼夢は、自らの直接的なコントロールが届かない領域である潜在意識から湧(わ)き起こってくるからである。
- 心のおしゃべりや白昼夢を止めるためには、「ヘッドセンターを機能させておくこと」が重要となる。なぜなら、ヘッドセンターから放射される高次のエネルギーは、潜在意識レベルでの思考や白昼夢を無力化することができるからである。
- 瞑想には「集中/気づきの瞑想」と「くつろぎ/明け渡しの瞑想」とがある。
- マインドフルネスは「集中/気づきの瞑想」である。
- ヘッドセンターは「集中/気づきのセンター」でもあるので、ヘッドセンターを目覚めさせることによって、マインドフルネスなどといった集中/気づきの瞑想を格段に深めていくことができるようになる。
- 最も高次の瞑想とは、「集中/気づきの瞑想」と「くつろぎ/明け渡しの瞑想」とが、バランスのとれた状態で内的に共存している、そのような瞑想のことである。
- ヘッドセンターが機能していれば「行為としての集中や気づき」は必要なくなる。なぜなら、ヘッドセンターの機能によって、瞑想時に必要な「高次の集中/気づき」が自ずとなされるようになるからである。
- ヘッドセンターが目覚めてくると、「努力なき『内なる瞑想』」「絶え間なき『内なる瞑想』」が本格的に始まる。
「もっと瞑想を深めたい!」というあなたのために・・・
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