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瞑想

すべては視点の問題だ。

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この記事は、2020.12.9、20:00に更新しました。

更新内容:記事に加筆をいたしました。

「高次のハートの直接伝達 2020.10.25」後のコメント

I. H. 様 / 40代 / 男性 / 栃木県 / 2020年2月より連続参加

師匠

ありがとうございました。

 

その日は一日中、純粋意識が濃く、すぐに瞑想状態に引き込まれてしまう感じでした。

そして、夕方からゆったりとした時間が取れたので静かに座っていました。

 

夜になって「高次のハートの直接伝達」が始まると、今、この瞬間にただ在るという思いが強くなり、その後で「その思い」も手放して、サマーディの中に深く深く入っていきました。

 

また、伝達時間中、今回はとくに身体が熱くなりました。(もちろん心地よい熱です。)

 

いまだ伝達後の事後効果によるエネルギー調整が続いています。

 

引き続き、よろしくお願いいたします。

 

木幡 等 Hitoshi Kowataの言葉による伝達

>夜になって「高次のハートの直接伝達」が始まると、今、この瞬間にただ在るという思いが強くなり、その後で「その思い」も手放して、サマーディの中に深く深く入っていきました。

 

それで良いのです。

 

そのような自己の次元においては、あなたが「できること」や「すべきこと」など何もないのです。

そこでは、ただ自然発生的な気づきがなされているだけです。

言い換えるなら、自然発生的な気づきとしてのあなたが在るだけです。

 

裏を返せば、(「努力を伴う気づき」という行為をも含め、)そこであなたが「何かをしている」「何かをしようとしている」のならば、依然としてあなたは、行為や思考の次元すなわち肉体精神の次元に留まったままである、ということになります。

たとえ、その時のあなたの瞑想体験が、どれだけ”崇高(すうこう)なもの”や”神秘的なもの”に感じられようとも・・・

 

”崇高(すうこう)なもの”

”神秘的なもの”

どんな器(サマーディ)に入れようとも水は水であり、水そのものは変わらない。

 

”崇高(すうこう)なもの”

”神秘的なもの”

何を照らそうとも光は光であり、光そのものは変わらない。

 

それは自己としての成熟度の違いに由来する根元的な気づきの視点の問題だ。

 

器にとらわれてはいけない。

形にとらわれてもいけない。

 

心も身体も形を備えた器でしかない。

そして高次の微細なエネルギーでさえも、(より高次のものであるとはいえ)ある種の心や身体のようなものなのだ。

最も深いサマーディでさえも、エネルギーの器にしか過ぎないのだ。

 

不幸なこと

崇高なこと

神秘的なこと

たとえ何が起きようとも「自己意識」という「気づきの源泉としてのあなた」そのものは変わらない。

 

真の悟りの世界とは、「変化なき私」だけの世界なのである。

 

変化がないということは、そこには時間というものがないということであり、時間というものがないということは、空間というものもないということだ。

だから、それそのものを言葉にすることはできない。

それそのものを指し示すことさえもできない。

 

だからこそ美しい・・・

 

もっと理解を深めたい・・・

 

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