1. HOME
  2. 過ぎゆく景色はそのままに・・・〜「思考と感情」を眺める「私」〜

過ぎゆく景色はそのままに・・・〜「思考と感情」を眺める「私」〜

, 瞑想, 自己意識

890

この記事は2021.12.26、14:30に更新しました。

更新内容:『「過ぎゆく景色」を眺める「私」』に加筆をいたしました。

「思考と感情」と「私」

汗や涙なんてものは《身体的な排泄物(はいせつぶつ)》でしょ?

だから、自分が流した汗や涙を舐(な)めている奴は変態だよね?

ましてや、自分が流した汗や涙を他人にまで舐めさせようとしている奴はド変態でしょ?

もちろん、あなたはそんなことはしてないよね?

ならば、

自然発生的な思考や感情なんてものは《精神的な排泄物》でしょ?

中でも特に、強い感情なんてものは《エネルギー的な排泄物》と言ってもよい。

だから、そのような思考や感情をいつまでも味わっている奴も変態だよね?(快楽主義から転じたドM。)

ましてや、自分が味わっている排泄物(思考や感情)を他人にまで味わってもらおうとしている奴はド変態でしょ?(ドS?、いや、こういうことをする人は、いずれは人から嫌われるのだから、やはり本質的にはドMなのだ!)

あなたは、どうかな?

だから、汗も涙も思考も感情も、

(基本的には)流れるままにしておいた方が良いんじゃないのかね。

すでにお気づきのように、これは瞑想やマインドフルネスの基本的な取り組み方と同じでしょ・・・

心なんてトイレみたいなもんでね。

きれいなトイレの持ち主もいれば、汚いトイレの持ち主もいる。

しかし、いずれにせよ、トイレは使えば流すべきだよね・・・

ましてや、トイレなんてのは人を招き入れる場所ではない。

どんなにピカピカであろうとも・・・

それに、そもそも《排泄物というもの》は《外に排出されなければならないもの》でしょ?

だから、どんなに素晴らしく思える思考であろうと、どんなに崇高に感じられる感情であろうとも、所詮は目くそ鼻くそ、私から見れば排泄物なのである。(それらは「カレーを装ったウンコ」なので、「ただのウンコ(無料のウンコという意味ではない!)」よりもむしろタチが悪いとも言える。)

しかし、人間というものは(他人の思考や感情にはそこまでの興味がないくせに)「自身の思考や感情にだけは絶対的な価値がある」と信じ込んでしまう悲しい生き物である。(エソテリックなスピリチュアル用語で言うならば、人間とは《絶対的ウンコマン》なのだ!)

ゆえに、《絶対的ウンコマン》である人類は、自身の《内なるウンコマン(思考や感情)》にそそのかされて戦争などといった馬鹿げた行為をもやってのける。

とはいえ、自然発生的な思考や感情などといった《ウンコみたいなもん》ばっか食ってると《心》も《体》も壊しちまうし、ウンコ臭くてかなわない。

いずれは《人間関係》も《自分との関係》をも台無しにしてしまう・・・

よって、

思考も感情もウンコマン(排泄物)であるがゆえに、それらは《あなたが適切に処理するもの》であって、むやみに《食うもの》でも《食わせるもの》でもないのである。

「過ぎゆく景色」を眺める「私」

思考や感情を抱え込んだり、美しい風景を見るたびにわざわざスマホで写真をとって保存なんかしておかなくとも、本当に大切なものというのは心に残っているんじゃないのかね。

残っていないのならば、「本当はそこまでのものではなかった・・・」と思えないのかね。

それに、大切なのは《外の景色の美しさ》ではなく、《美しい景色を見て感動できるあなた》なのではなかろうか・・・

しかし、

私たち人間は思考や感情ばかりを食っているから、そこには《思考》や《感情》があるばかりで《あなた》がいない。

だから、何をしていても、何に取り組んでみても、そこには思考と感情とがあるだけで、《あなたそのもの》を知ることは永遠にない。

このような意味において、《あなたそのもの》として在ることができないでいる。

それが《自身の根源的な不安や孤独というもの》の本質なんじゃないのかね・・・

同様に、

私たち人間は、人と接している時でも、自分の思考や感情みたいな排泄物を相手にまで食わそうとしているから、二人の間に《思考》や《感情》はあっても《あなた》も《私》もいやしない。

だから、どれだけ沢山の人と出会っても、どれだけ素敵な人と出会ってみても、互いの思考と思考、互いの感情と感情とが向き合うだけで、《あなた》と《私》とが向き合うことは永遠にない。

このような意味において、《人》は《人》と向き合うことができないでいる。

それが《人間関係において生じる孤独というもの》の本質なんじゃないのかね・・・

あなたが思考や感情を重要だと思い込んでいるのは、それらがあなたの思考あなたの感情であると思い込んでいるからだ。

自己意識が目覚めていない人に至っては、「思考や感情こそが《自分=私》である」となってしまう。

それは「魂としての自己の不在」という「魂の病」だ。(ここでは「魂=自己意識」とする。)

大切なのは思考や感情ではなく《あなた》だ

思考や感情とは関係のない《あなたそのもの》だ。

思考や感情に汚(けが)されていない《純粋なあなた》だ。

人との出会いにおいて私たちが触れ合いたいと願っているのは、思考や感情が生じる以前の《純粋なあなた》なのだ。

愛:「あなた」と「私」

思考や感情が生じる以前の《純粋なあなた》。

《純粋なあなた》がいなければ《愛》はない。

愛とは思考や感情を介すことなく、《あなた》と《私》との直接的なふれあいによって自ずと生じるものだからだ。

だから、愛とは静かなものなのだ。

ゆえに、

《おしゃべりな思考》や《これ見よがしの感情》は《愛の流れ》を妨げる。

利他的な思考や感情は《愛の代用品》にしかならない。

愛を装った《おためごかしの思考や感情》ほど醜いものはない。

愛は静かなものなのだ。

直接伝達は静かなものなのだ。

《あなたそのもの》は静かなものだからだ。

大切なのは思考や感情ではなく《あなた》と《私》なのだ

そのような時の純粋な《あなた》と《私》は《ひとつ》なのだ

それが《愛》だろ?

「思考と感情」以前の「私」

どれだけ汗や涙を集めたところで《身体を作ること》などできないように、どれだけ思考や感情を集めたところで《あなたであること》などできやしない

むしろ、《あなたそのもの》からは遠ざかっていく。

過ぎゆく景色はそのままに・・・

あなたがそこにいればいい・・・

たまには静かに過ごしてみよう・・・

瞑想やマインドフルネスにおいては、思考や感情は流れるままにしておくのが良い。

日常においても同様だ。

そして、

流れ行く思考や感情を手放すためには「言葉を手放すこと」から始めればいい。

ウンコマンより愛(?)を込めて・・・(笑)

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。