「進化の瞑想」と「退化の瞑想」
この記事は2021.10.、11:55に更新しました。
更新内容:記事を推敲いたしました。
イルカのショーにて
「先生、あのイルカたちもなかなか泳ぎがお上手ですわね。けど私の泳ぎの方がもっとお上手ですわ。ですから、私もイルカのショーに出させてくださいな!」
「そりゃあ、君の方が泳ぎはうまいよ!」
「お褒めいただき、ありがとうございます!」
「いやいや、褒めてるわけじゃないんだよ・・・ だって君はナマズだから魚類だろ!? そりゃぁ哺乳類であるイルカよりも泳ぎはうまいだろうさ。しかし、逆に使いづらいというか、そもそもイルカのショーには出ちゃ駄目だよね・・・」
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「君はイルカじゃないんだよ。」
「ちゃんと鏡を見てごらん。」
「ヒゲの生えたイルカなんていないだろ?」
自己の内的環境と内的機能
イルカのショーにおいては「泳げりゃいい」というもんじゃない。
瞑想においては「座ればいい」というもんじゃない。
瞑想という名の自身へのプレゼントにおいては「パッケージ」よりも「中身」の方が大切なのだ。
そうでなければ、怠け者のナマズほど瞑想(座っていること)の上級者ということになってしまう。
「ナマズ」と「イルカ」は根本的に異なる種であるように、「ナマズの瞑想」と「イルカの瞑想」とではその内容が圧倒的に異なってくる。
自己の内的環境
ナマズ(魚類) | イルカ(哺乳類) |
本能 |
思考 感情 本能 |
自己の内的機能
ナマズ(魚類) | イルカ(哺乳類) |
知覚 |
知性 感受性 知覚 |
瞑想歴30年以上と称するベテラン瞑想指導者のほとんどが、どうしようもないほどの間抜け面であることからもおわかりのように、皮肉なことに、
「ナマズの瞑想」では「退化の瞑想」となり、「イルカの瞑想」だけが「進化の瞑想」となりうるのである。
しかし、直接伝達なしに「ナマズの瞑想」から「イルカの瞑想」へのシフトはほぼ不可能だ。
(このような厳しい現実を理解するまでには莫大な瞑想体験と多大な年月とを要する。それゆえ瞑想歴が短い人にはわからないだろうが、瞑想歴が何十年にも及ぶ人は身に沁みている。だから私の生徒は40〜50代が多いのだ。)
それに、そもそも「イルカの瞑想」を体験したことがなければ、自身の瞑想が「ナマズの瞑想」でしかないということにも気がつけない。
だから私はノーコンタクトセッションで直接伝達をしているのだ。
「イルカの瞑想」というものを、まずは体験して、さらには身につけてもらうために・・・
あなたが今までに行ってきた瞑想とは「ナマズの瞑想」でしかなかったという厳しい現実を理解して成長してもらうために・・・
だって、真に賢い人ほど「自分がバカであること」を認識しているからこそ、積極的に学び続けていくことで、バカには決して超えることのできない高みへと登っていくわけでしょう?
真に強い人ほど「自分が弱いこと」を認識しているからこそ、積極的に鍛え続けていくことで、弱虫には決して超えることのできない高みへと登っていくわけでしょう?
つまり、
真の賢さとは「己の無知を”切実に”自覚できること」
であり、
真の強さとは「己の弱さを”切実に”自覚できること」
である。
そこをスタート地点とするからこそ、健全に育まれていくのではなかろうか・・・
そしてそのためには、あなたが魚類へと退化してしまいたくないのであるならば、
厳しい眼差しによる絶え間なき自己観察によって、自らの手で「(お花畑的ナルチシズムによって無自覚的に作り上げられてきた)主観的幻想としての自己」を破壊し、「(愚かで救いようのない)客観的現実としての自己」を容赦なく見つめ続けなければならないのだ。
さらには、あなたが知性なきナマズではないならば、そのような自己観察においても知性というものも動員して、
人間には無自覚的な自己奉仕バイアスによって、自身の弱点ですらも高く見積もってしまう平均以上効果というものが生じてしまうものである
という理解を前提とした上で、それを差し引いて見つめなければならない。(だから真のバカであればあるほど、自分では賢いと思っているか、そんなにバカではないと思っているのだ。)
しかし逆に、言い換えるなら平均以上効果にまんまとやられてしまって、「自分にヒゲがあること」だけには気がつかず、己をイルカと思ってイルカら、ナマズはナマズなのである。
(それに、ナマズは自身との比較対象がドジョウだからなのだ。)
もっと理解を深めたい・・・
もっと瞑想体験を深めたい・・・
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