私が愛した映画

この記事は、2018年8月10日、00:01に更新しました。

更新内容:

映画「グロリア」に文章を掲載しました。

 

映画は文学とはまた違った意味で、色んな見方で楽しむことができます。

小説とは違って、映像や音が具体的に提示されているので、どんなにシナリオが優れていても、キャスティングや演出や芝居いかんによって作品の出来が大きく影響されてしまいます。

 

一例としては、「大は小を兼ねるの」で、上品な俳優が下品な人物を演じることはできても、下品な俳優が上品な人物を演じることはできません。

たとえば、真なる自己目覚めはおろか、自己意識すら目覚めていない俳優が、仏陀やキリストの役を演じていようものなら、目を当てることさえできなくなりますからね・・・

これなどは、演出や演技以前のキャスティングの段階で間違っているということになります。

 

そのような意味におきまして、映画においては、その作品が「命の通ったシーン」の連続で具現化されているかどうかが、私にとっては何よりも重要なこととなります。

 

登場人物が、派手なストーリーを動かすためだけの駒(道具)になっているような作り物の映画ではなく、まるで生身の人間がそこにいて、それぞれの人たちが関わっていくことによって物語が織りなされていく、そんな作品が好きです。

そして、いわゆる悪役などとして登場してくるような人物に対してさえも、それなりの理解や慈しみの眼差しが向けられたものが好きです。

 

スピリチュアルワークと称して、高額のお金を払ってまでして「ハートのためのワーク」なんかに取り組まさせられることよりも、こういう映画を観て「目には見えない何かを感じ取ること」の方が自然であるがゆえに本当であるし、大切なことであるのだと思います。

レンタルならば数百円程度で済みます。

下手な教師のセッションやセミナーを受けるよりは、はるかに有意義な時間となることでしょう。

 

私が愛した映画

チャールズ・チャップリン

 

小津安二郎

 

エリア・カザン

欲望という名の電車

若き日のマーロン・ブランドが出演しています。

先の冒頭文でも言いましたように、「大は小を兼ねる」ので、彼はゲスな人間を見事に演じることも可能です。

それでも、この映画が下品な作品とならないのは・・・

そういうことでしょう・・・

 

この映画の上映当時、本来はYシャツの下に着る下着でしかなかったTシャツというものを、人々が普段着として着るようになったのは、この映画でマーロン・ブランドがTシャツを普段着として着用していたことに影響された人たちが真似をし始めたことがその起源であるとも言われています。

 

アンドレイ・タルコフスキー

ストーカー

「ストーカー」といっても、昨今マスコミを賑わしている意味でのストーカーのことではありません。

 

ジョン・カサヴェテス

なにしろ、この映画の脚本や監督をしているジョン・カサヴェテスの面構えが好きなのである。

 

私などは、ジョンのその顔を見ただけで、「こいつは信用できる本物の男だ。」ということがはっきりとわかる。

真の知性やハートを備えた誠実な人間であるということが・・・

もちろん、私がここでいうところの「知性」や「ハート」や「誠実」とは、一般的に使われているような表面的な意味とは異なるのだが・・・

 

こわれゆく女

このクラスの作品となると、もうパッケージの写真を見ただけで、その質の違いが分かるでしょ?

いい映画はいいシーンの集積であり、いいシーンはいい瞬間(写真)の集積によって成り立っている。

いい映画というものは、いい瞬間の連続に彩られているわけだからね。

一事が万事であって、当然、その一部であるパッケージの写真も素晴らしいわけである。

グロリア

この映画の子役の方を見てごらん。

その肉体の中にいるのは、ただの幼い魂じゃないことがわかるから。

女優の芦田愛菜さんの子役の頃を見ててもそう思いました。

性別における男性というものは、「男の子」として生まれてから「男にならなければならない」が、彼はすでに男になっている。

「男になれない人たち」ばかりで溢(あふ)れている、この世界において・・・

 

やはり、この映画の子役の方は後に俳優にはなられなかったようです。

この子役の方を選んだキャスティングの方や、監督であるカサヴェテスの見る目もさすがです。

 

フランシス・コッポラ

ゴッドファーザー

この映画は何と言ってもやはり、初代ゴッドファーザー役であるマーロン・ブランドの存在感が光ります。

この原作である小説の主人公であるアル・パチーノや脇を固めるロバート・デュバルなどといった名優たちでさえも、彼の存在感とはその質が異なるように思います。

 

この映画の撮影時のマーロンは47歳でしょ・・・

私の同級生はもう45歳(2018年7月現在)になっているから、今の私の2歳上でしょ。

昔の人の47歳と今の人の47歳は違うと言っても、そんなに昔の人じゃないからね。

口の中や腹回りなどに詰め物を入れてたり、枯れたよう声で発生したりして、老けた感じが出るように工夫してるんだよね。

そんな工夫がわかっていても、嘘には見えないんだよ。

いくら外面的に真似ができても、内面的な部分がついて来なければ、安っぽいコントみたいになっちゃうでしょ?

 

肉体年齢と精神年齢は別だからね。

いわゆる「若い魂」と「古い魂」との違いもあるだろうし・・・

 

彼が画面に現れると、その場面に命が吹き込まれます。

つまり、彼の「内なるもの」が放射されるのです。

それはもはや、演出や演技の技術以前の次元の話です。

分からない人は、何度観てもこの意味がわからないかもしれません。

彼が持っているものと同じ「内なるもの」がないのであれば・・・

人間が本来持っていたはずの、極めて繊細な感受性や思いやりの心・・・

すなわち、心(ハート)・・・

 

マーロンの出演していないパートⅢは駄作です。

マーロンがいないこと以外の要因もありますが・・・

 

パートⅡにおいて、マーロン演じるゴッドファーザーの若き頃を演じているのが、ロバート・デ・ニーロです。

マーロンの体癖が10種。

デ・ニーロが6種。

 

6種は根暗だからね。

10種は、いわゆる素直な自然体であり、6種のような絶望的な暗さというようなものがないんですよ。

名優デ・ニーロがどれだけマーロン演じるゴッドファーザーのしぐさや雰囲気を模倣していても、体癖が違えばその根本的な違和感は技術では埋められません。

監督であるコッポラが、体癖や生まれながらの心身におけるタイプのことなどを知らないにしても、直感的に気づくべきです。

こういうところの見る目のなさが、コッポラらしいというか残念なところです。

 

私はこの映画を観ているというよりは、マーロンに会いたくて、つまり真の人間に会いたくて、この映画を観ているようなものです。

ですから基本的にパートⅢは観ません。

 

ストーリー自体は、とても血なまぐさい話なんですが、

心には次元の異なるいくつもの層があり、それぞれの層においてそれぞれ異なる印象が生じているわけであります。

 

そんなマーロンが、特殊メイクではなく実際に年老いた姿は、

10種の人というは、骨盤が広がりやすいから、太りやすいんだよね。

日本人のお相撲さんがどれだけ頑張って食べても、小錦や曙みたいにまで太れないのは、ボディータイプの違いがあるからだろうね・・・

日本人に10種の人は少ないでしょ。

ハワイとかブラジルとかには多そうだよね。

 

それでも、顔がそんなに太らいないのは、

役者魂?

それとも、

ボディータイプに由来するもの?(笑)

 

カメラに映らない実際の現場ではこんな感じです。

マーロン用の台詞(せりふ)のカンニング・ペーパーを持たされて、相手役も大変だ。

もはや、演技におけるそれまでの情熱は失せていたのだろうね。

それでもカンニング・ペーパーを読みながらの演技であそこまでできるのは、さすがだと思うが・・・

しかも、この映画で授与されたアカデミー主演男優賞も辞退してるしね・・・

年齢不相応の老け役を演じてまでして、やっとの想いで表舞台に返り咲いたばかりだというのに。

そのへんがまた、なんとも彼らしいというか。

中高年にさしかかった彼にとって、ショービジネスとしての映画とは、もはや生活の糧(かて)を得るための手段でしかなかったのだろうね・・・

 

晩年は朝夕2回の瞑想が何よりも大切なことであったみたいだし。

いわゆる「悟りの一瞥(いちべつ)の体験」もあったみたいだよ。

やはり、それなりの目覚めの領域に入ってしまうと、世俗的な物事ヘの関心が失くなっていくことも、また仕方ないことだよね・・・

彼にとっての幸せの価値観が大きく変わってしまったわけだから・・・

 

そんな彼だから、来世では熱心な探究者にでもなるのかな・・・

あなたなら大丈夫だ。

神様だって、あなたのようなチャーミングで愛すべき人のことは、ほっておけないよ。

 

ジョン・シュレンジャー

真夜中のカーボーイ

ジョン・ボイドが演じる間の抜けたお人好しの役。

ダスティン・ホフマンが演じる汚れ役。

二人の名優の絡(から)みが素晴らしいことは言うまでもない。

そんなシーンの数々が観れるだけでも、観る価値がある。

 

都会で生きる人間の哀しさが描かれているが、そこには監督の優しい眼差しやそれに由来するユーモアなどもあって、素敵な作品となっています。

 

ヴィム・ヴェンダース

この映画の世界の雰囲気や時間の流れみたいなものが良いんだな。

僕なんかは、この映画を観ている時は、映画を観ているというよりは、音楽を聴いている時の感覚に近い。

音楽も映画も、共に時間の芸術ではあるからね。

 

エミール・クストリッツァ

アンダーグラウンド

この映画については、私がとやかく言うことじゃない。

とにかく観てごらんなさい。

この映画では、映画という形式でしか表現できない世界を体験することができる。

 

この映画のストーリーについてなら語れますが、私は「ストーリーというただの観念」には興味がないのであります。

ですから、ストーリーだけについて語ることには意味が見出せません。

 

クリント・イーストウッド

パーフェクト・ワールド

大ヒット映画であった「ボディーガード」のようなスターとしてのケビン・コスナーではなく、大人の男としてのケビン・コスナーの魅力がこの映画の質を高めています。

腹も出てきて、額も禿げあがってきているのですが、この映画でのケビン・コスナーは素敵です。

大人の男としての魅力に溢れています。

ただのスターではないということです。

 

彼は脚本を見る目もある。

優秀なブレーンがいるのかも知れないが・・・

監督としての才能もある人だからね。

だから彼が中高年までに主演している映画は、いわゆるハズレがないんじゃないかな。

それ以降の作品はあまり観る気がしなかったので、その後はどうだか知らないが・・・

 

ゲイリー・シニーズ

二十日鼠と人間

ジョン・マルコビッチの名演が光る。

彼が演じるレニーが、とにかく愛おしいのである。

できることなら、映画の世界に入り込んで、私が守ってあげたくなるのである。

 

共演において、それを支えるゲイリー・シニーズは、この映画の監督でもある。

スポットライトを浴びるのは、ジョン・マルコビッチの優れた演技かもしれないが、それを引き出すゲイリー・シニーズの才能をも感じさせられた作品である。

 

若松孝二

寝盗られ宗介

役者としての原田芳雄の頂点は、ここにあるように思える。

 

ウォーレン・ベイティ

 

フランソワ・オゾン

まぼろし

この映画なんかも、下のパッケージ写真を見ただけで、それなりの感受性を持っている人間が撮ったものであるということくらいはわかるでしょ?

つまり、そこまでの大ハズレはないということが、そのパッケージの写真によって保証されているわけですよ。

 

私はパッケージを見ただけで、その映画の大体の出来は分かる。

宣伝部の人間のセンスが酷ければ、稀に例外もあるが・・・

 

このパッケージの顔写真からだけでも、主人公である彼女の内面における物語を垣間見ることができるよね。

 

マイク・リー

ヴェラ・ドレイク

これなんかもパッケージ写真を観ただけで、カッコだけの薄っぺらい映画でないことだけはわかるよね。

この瞬間に込められた「何か切実な痛みのようなもの」が、この写真から放射されてるよね。

だから、この写真を見てるだけでも泣けてくるよね・・・

辛くなっちゃうよね・・・

 

その感覚がわかる人は、自己探究やスピリチュアル・ワークにおいて、わざわざ「ハートのワーク」なんかに取り組む必要はありません。

しかし、このパッケージ写真が「巷に溢れている普通の映画のパッケージ写真と、どう違うのかわからない。」という風にお感じの方は、「上記のように感じることを共有することができる、いわゆる普遍的な感覚を持った人たちというものが、この世界には存在している。」ということを知っておくとよいでしょう。

 

10年以上も前に一度か二度観たきりなので、語るべき具体的な記憶はないが、この映画を観た後、この監督がそれまでに撮った作品を全て観たくらいに強く感じるものがあった作品である。

この写真から感じる痛み、そして10年以上、観ていないということは、私にとってそれなりの痛みを伴う映画だったのだと思います。

 

DVDを持っているので、晩酌時にでも改めて観てみるとしよう。

 

ロベルト・ベニーニ

ライフ・イズ・ビューティフル

この映画は何度観ても感動する。

この映画の世界には、いわゆる厳密なリアリティーといったものはないんだけれど、「人間の内に宿る魂の声」としてのハートが描かれている。

あえて、そのような厳密なリアリティーを排したことによって、それを浮き彫りにしているわけです。

 

ニック・カサヴェテス

先に紹介したジョン・カサヴェテスの息子が監督をしている。

ジョン・カサヴェテスの映画のヒロインであるジーナ・ローランズの息子でもある。

そんな肩書きを持つ人間は、往々にして才能に恵まれない者が多いのだが、そんな予想に反してとてもいい映画なのである。

 

ポール・ハギス

二回目までは見る気はしないけど、悪くない映画だったよ。

 

是枝裕和

この映画においては、私はいわゆるストーリーを重要視しておりません。

ですからストーリーは記憶に残っておりません。

 

ですが、一つ一つのシーンは、それぞれ強い印象で残っています。

息の合ったオーケストラのアンサンブルを聴いているかのようです。

そこには、まるで他人の日常をのぞき見しているかのようなリアリティーがあります。

内面の動きのリアリティーに裏打ちされた、嘘のない真のリアリティーのことです。

ですから、作り物としての嘘が感じられないのです。

登場人物の心が動いたことによって、それが言葉や行動となって現れる。

それが観ていてわかるので、この映画のシーンの一つ一つには、そのような強い説得力があるのです。

 

脚本の段階でシーンのディテールにまで、きちんと目が行き届いているからなのでしょう。

演出においては、俳優陣の即興芝居ができるゆとりも残されているのかもしれません。

 

このような「内面の変化の丁寧な描写」は、繊細な日本人監督が得意とするところです。

小津安二郎の映画においても同様です。

登場人物の何気ない眼差しや、登場人物の口から漏れる他愛もない言葉の裏にある「何か」に心を打たれます。

 

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