悟り
この記事は2021.11.12、9:25に更新しました。
更新内容:冒頭に「悟りとは」を掲載いたしました。
悟りとは
悟りとは、森羅万象の根源的基盤である絶対意識が、その末端的機能である個人的な人間意識を通じて、それ自身に気づくことである。
人間意識
(自我、自己意識)
↑ ↓
意識/無意識
↑ ↓
純粋意識
↑ ↓
絶対意識
目覚めと悟り
「肉体としての私」「思考としての私」「感情としての私」「知性としての私」「自己としての私」などといったように、意識としてのあなたは多次元的に存在することができるのです。
それゆえ、自己意識としてのあなたが目覚めているのなら、たとえ行為者としてのあなた(自分)が激怒していても、自己意識としてのあなた(個人的意識の主体としての私)は激怒している自分というものをいたって冷静に眺めていることができます。
つまり、自己意識としてのあなた(自己)が目覚めているのなら、たとえ行為者としてのあなた(自分)が激怒していても、感情に巻き込まれないでいることができるのです。
外的には、すなわちその場にいる相手からすれば「あなたは怒っている」と言われてしまうことでしょうが、内的には、すなわち自己意識としてのあなたからすれば「私は(怒っている自分と怒られている相手とを)ただ眺めているだけだ」ということになります。
もちろん怒りのエネルギーやその場の空気などの影響は受けざるを得ませんが・・・
つまり、あなたが観ている映画の主人公(自分)が怒っていようと泣いて(行為)いようと、客席のあなた(自己意識)は見ている(観照)だけなのと同じことです。
それが自己意識の目覚めの境地です。
そしてヘッドセンターとは、客席の中でも周りの騒音を気にせず静かに観照することのできるVIPルームのようなものです。
純粋意識の目覚めの境地においては、テレビやユーチューブ(あるがままの現実)を観ている時に頻繁に紛れ込んでくるCMや広告(想念)の影響を受けなくなります。
ですから、ユーチューブ(あるがままの現実)を観ている時に流れてくる広告(想念)を、ついついクリックしてしまうようなこと(巻き込まれること)はありません。
結果として、自己意識としてのあなたにおいてはもちろん、思考者や行為者としてのあなたにおいても、CMや広告(想念)の影響を受けなくなるということです。
絶対意識の悟りの境地においては、テレビやユーチューブ(あるがままの現実)を観ている時に頻繁に紛れ込んでくるCMや広告(想念)が完全に消滅します。
それでも「思考活動や会話をする際に必要な想念」だけは現れては消えていきます。
なぜなら「思考活動や会話をする際に必要な想念」というものは、より広い意味での「あるがままの現実の一部」であるからです。
「思考活動や会話をする際に必要な想念」さえもなくなると、人として生きていく上で必要とされる思考活動や会話などが不可能になってしまいますので、そんなことになってしまえば、それはもはや進化ではなく退化となってしまいますからね。
このように一口に目覚めや悟りなどといっても、自己意識の目覚めと純粋意識の目覚めと絶対意識の悟りとでは、エネルギー状態のみならず、その境地や内的環境においても異なるのです。
自己意識の目覚め
「個としての自己(アートマン)」の目覚め
純粋意識の目覚め
「純粋意識としての自己」の目覚め
ちなみに、自己意識が目覚めていなくても、純粋意識との接触は可能であるが、そのような場合は「自己意識(観照者としての自己)と純粋意識との接触」ではなく、「肉体/精神(行為者や思考者としての自己)を介しての純粋意識との接触」となるため、心身における「癒やし」や「浄化」などといったヒーリング効果が顕著となる。
よって、そのような場合、肉体的および心理的な「安らぎ」が獲得されることとなる。
そして、このような心身における「癒やし」や「浄化」などといったヒーリング効果や肉体的および心理的な「安らぎ」は、自己意識の悟りのための準備としても、大いに役立つこととなる。
絶対意識の悟り
自己意識や純粋意識の源である「絶対意識としての自己/他己(ブラフマン)」の悟り
絶対意識の悟りは「自己意識としての私」と「絶対意識」との融合によってもたらさせるため、絶対意識の悟りは「自己意識の目覚め」なしにはあり得ない。
自己意識とは絶対意識の島へと渡るために必要な船なのだ。
よって、絶対意識の悟りへと至るプロセスは、大きく分けて以下のようになる。
1.自己意識の目覚め
↓
2.純粋意識の目覚め
:純粋意識との接触
↓
3.純粋意識の目覚め
:自己意識と純粋意識との統合
↓
4.意識の根源からの引き込み※
※.ヘッドセンターが結晶化していなければ、この過程で眠ってしまうこととなる。
↓
5.絶対意識の悟り
:自己意識と絶対意識との融合
絶対意識の悟りについては、多くの探求者には理解されえないため、公に語られることはない。
純粋意識の目覚め
純粋意識の目覚めとは、自己意識としての「私」と純粋意識とが一つに統合した意識状態のことである。
それゆえ、純粋意識の悟りを実現するためには、それに先立つ以下のすべてのプロセスを経なければならないこととなる。
- 自己意識としての「私」の実現
- 純粋意識との接触
- 純粋意識との統合
悟りとはなんぞや?
という問いかけの時に覚者らによって、必ずと言っていい程に引き合いに出されるのがエゴの消滅などに関することです。
一般的に使われている意味でのエゴとは、肉体/精神と自己同一化している意識状態のことを指して言う場合が多いようです。
つまりそのような意味でのエゴとは、実体ではなく、ある特定の意識状態のことであります。
ゆえにそのような意味からすれば「エゴという実体が存在しているわけではない」ので、「エゴとは幻想である」とされるわけであります。
そのような肉体/精神との自己同一化ゆえに、真実においては、意識の根源の一部として非顕現の次元に存在している自己意識としてのあなたは、肉体/精神という檻(おり)の中に閉じ込められていると勘違いし続けているわけであります。
そのような大いなる誤解のことが、意識の眠りや、無知、無明と称されてきたのであります。
つまり実際のあなたは、これまでもこれからも永遠に意識(気づき)の根源にい続けているわけです。
意識(気づき)の根源、それが私たちの本性なのです。
しかし、あなたの意識(気づき)の焦点が己の肉体/精神に注がれているために、あなたは肉体/精神の中に住んでいる(閉じ込められている)という重大な勘違いをしてしまっているわけなのです。
つまり通常人間は意識(気づき)の根源(出所)を直接的に認識することができないために、意識(気づき)の焦点を根源(自分のいる場所)だと勘違いしているということになります。
そして純粋意識としての「私」の自己の目覚めにおける一連の全過程とは、あなたの意識(気づき)の焦点を根源へと引き戻していくプロセスとなります。
そしてあなたの意識(気づき)の焦点とその根源(出所)がピタッと一致した時に、あなたが本当にいた場所、すなわち本当のあなたを自覚します。
その自覚は、ただの知的理解ではない直接的理解、直接的自覚、すなわち直覚でありますので、その時のあなたは、この世に意識(気づき)の焦点を向けていながらも、この世にいないことを知っているし、そのように感じているのです。
それが悟りの実現によって生じる決定的な特徴なのだと思います。
であるからして、
純粋意識としての「私」の目覚めの過程、すなわち悟りに至るまでの過程とは、意識(気づき)の焦点を、その根源までへと引き戻していくプロセスである。
あなたがどのように勘違いしていようとも、意識(気づき)の根源こそがあなたであるという事実は変わらないわけだからね。
ゆえに、
悟りの境地とは、気づきの焦点と気づきの根源である本当のあなたとの分別がついている正常な意識状態のことである。
と言うことができます。
わかりにくい方のために、言い換えてみましょう。
純粋意識としての「私」」の目覚めの過程、すなわち悟りに至るまでの過程とは、意識(気づき)の焦点を、その根源までへと引き戻していくプロセスである。
ゆえに悟りに至るには、意識の根源からの絶え間ない引き込みという過程が絶対的に不可欠なのであります。
その時、引き込まれるのは、あなたと一体化している意識(気づき)の焦点なのであります。
なので、いわゆる「無心の体験」やいわゆる「空の体験」、いわゆる「悟りの体験」いわゆる「悟りの一瞥(いちべつ)」、その人がどう呼ぼうと勝手だが、そんなものを何度繰り返したところで、悟りにおいては何の意味もないというわけであります。
なぜなら依然として、あなたという意識(気づき)の焦点は、その根源ではなく外へと向かっているからであります。
その対象が、無や空であろうとも・・・
だから、依然として意識(気づき)の焦点と自己同一化しているあなたには、本質的な変容が起きないわけであります。
そのような体験をどれだけ重ねてみても、従来のあなたは変容せず、意識(気づき)の焦点としてのあなたが観ている景色が変わっただけのことに過ぎないのであります。
一定期間における、意識の根源からの絶え間ない引き込みにより、自己意識としての「私」と純粋意識とが融合(一つに溶け合う)した意識状態。
ゆえに、
悟りとは出来事ではない。
真なる自己の目覚めという一連のプロセス(出来事)の完結(終わり)のことなのである。
その時、自己意識としてのあなたは、本当はどこにいるのかを自覚している意識状態となる。
この意識状態にある悟った人というものは、通常の生活においては自分が悟りの意識状態にあることすら意識していない。
通常、現代に生きる人たちの現在のあるがままの意識状態においては、「私は内的には何の問題もない」とは言い切れない。
問題だらけであるとさえいえる。
時には想念に対して感情的にも強く巻き込まれてしまい、「深刻な問題が生じている!」と思いこんでしまう。
しかし悟りの意識状態においては、そのようなことはない。
ゆえに、
悟りとは、絶対的な静寂の意識状態が基盤としてあること
と言うことができます。
そのような深刻になれない意識状態が基盤としてあるということは、なにも悟った人は深刻になることがないというわけではなく、時にネガティブな想念に巻き込まれて、深刻な意識状態になることはあっても、そのことへの気づきと意志によって、基盤としてある悟りの意識状態にすぐに引き戻すことができるということです。
悟りに直結している二つのプロセス
悟りに直結している二つの過程とは、日本酒(または味噌、ワインなど)の発酵(はっこう)と、その後の熟成と言う二つの観点から説明できるように思う。
1.発酵 | 2.完全発酵 | 3.熟成 |
純粋意識との接触〜統合 | 純粋意識との融合 | 純粋意識としての「私」と肉体/精神との再統合 |
悟りへと至るまでに必須となる純粋意識としての「私」の目覚めにおける一連の進展過程 | 純粋意識の目覚め |
手間暇かけて出来上がった自然発酵の本物の日本酒でなく、大量生産用に安く売られているような、人為的な工業的発酵技術などによって似せて作った偽物のことは、当然のことながら除外する。
本来の日本酒というものは、お米と水という原料が、その蔵に常在している乳酸菌などといった微生物たちの促す発酵という一連のプロセスを経て、完全発酵することで完成するのであります。
お米と水に一定量の火力というエネルギーを加えれば、美味しいご飯が炊かれることと同様に、お米と水に一定量の微生物の働きというエネルギーが加えれば、美味しい日本酒となるわけである。
原理は、このサイトの読者にはお馴染みのものである。
つまり、
異なる二つの物質に、一定量のエネルギーを一定時間に渡り継続的に与えることで、二つの物質が後戻りすることのない新たな一つの物質へと変容するわけである。
その新たな物質は、以前の状態とは異なる質的な変化、つまりエネルギー的な変化があり、従来の状態に後戻りすることはないので、それは変容であり、ただの変化とは区別する。
発酵前のワインなら、ただのブドウの果汁、発酵前の日本酒なら果汁ならぬ米汁に過ぎないわけだ。
そこに発酵というエネルギー作用、発酵という恩寵の働き?が加わって、程よい甘みや酸味などが増していく。
しかしある程度の発酵が行われるまでは、日本酒というよりは、誰が飲んでも甘酸っぱめの米汁としか思えないわけである。
そして更に発酵が進んでいくと、日本酒と呼ばれるものとなる。
つまり誰が飲んでも、もうただの米汁とは言えない新たな飲み物に変容しているわけである。
過熱によって、それ以上の発酵を終了させても、もう米汁に後戻りすることはない。
ひやおろしとしてなら、すぐに出荷することができるわけである。
いうならば、そこまでの仕上がりが悟りに相当する。
日本酒ができるまでの過程において必須である一連の発酵のプロセスを全て経て、一人前の日本酒となる。
悟りへの全過程において必須である一連の目覚めのプロセスを全て経て、純粋意識としての「私」」が完成する。
完全発酵とは出来事ではない。
発酵という一連のプロセス(出来事)の完結(終わり)のことなのである。
悟りという出来事があるわけではない。
悟りとは、純粋意識としての「私」」の目覚めという一連のプロセス(出来事)の完結(終わり)のことなのである。
それゆえ、悟りという何か劇的な出来事が突発的に生じて、「俺は悟った!」という風に即時に認識されるものではないということである。
純粋意識としての「私」」目覚めが完結していたことにある時、ふと気づくわけである。
「あれ? いつの間にか何の問題もなくなっていた・・・」と。
そのように悟り(純粋意識としての「私」」目覚めの完結)を知るのである。
それゆえ、
あなたは悟りのことなど気にしなくていいのである。
なぜなら、悟りという出来事などは存在しないのだから。
このような観点からすれば、悟りには意味はない。
大切なのは純粋意識としての「私」」の目覚めだけである。
あなたは純粋意識としての「私」」の目覚めの完結に至るその一連のプロセスを全うすることだけに専心すればよいのである。
純粋意識としての「私」」の目覚めとは即時的に自覚され得る出来事であるが、悟りとはそのような出来事ではない。
純粋意識によってなされた完全発酵によって、純粋意識としての「私」」目覚めの全過程が終了して、悟りという24時間、問題なしという意識状態となったわけである。
この悟りという完全発酵状態ということにおいては、ラマナ・マハルシもグルジェフもニサルガダッタ・マハラジにおいても同じなのである。
原料であるお米や水や、その発酵がなされた土地の気温や湿度や、素材となったお米や水などが違うから、その味に違いがあるだけなのである。
しかし出来上がったばかりで少しも寝かせていない出来立ての新酒である「ひやおろし」と、そのまま何年も寝かせて熟成を経てきた「熟成酒」や「古酒」とでは、素材は同じでもその味わいに格段の違いがある。
ひやおろしの悟りと古酒の悟りは同じものだ。
しかしその後の熟成期間が違うことによって、その味わいの奥深さなどにおいては全くの別物のようにも思えてしまう。
これは発酵(悟り)とは関係なく、発酵(悟り)の後の熟成(浄化も含めた変容)に由来するものなのである。
1.酵母の添加
:ヘッド・センターの生起
↓
2.発酵の開始
:純粋意識の流入期
↓
3.本格的な発酵期間
:意識の根源からの引き込み期
↓
4.発酵の完了
:目覚めのプロセスの完結/悟り
↓
5.発酵後の熟成
:熟成による変容
そこを理解しておけば、誰の悟りが本物で、誰の悟りが偽物なのかなどといった単純なことだけではなくなってくる。
「誰々は、完全発酵しているが熟成がそこまでだな。」
とか、
「誰々は、それなりに発酵は進んでいるように見受けられるが、まだ完全発酵には至っていないな。」
などといったようにね。
やはり、自分で一連の発酵のプロセスを経て、完全発酵して、さらに熟成による変容の期間を経てくると、そういうものがはっきりとわかるようになってくるわけですよ。
皆さんだって、人を見れば、わかるでしょ?
「この子は、まだ生まれたばかりの赤ん坊だな。」
とか、
「この子は、おそらく小学校低学年で、学級委員を任されるような感じだな。しかしまだ感情を抑制したりすることはできないだろうな。」
とか、
「この人の年齢は60代で、おそらくなんかの会社の社長さんだな。さすが、それなりに自己抑制ができている人だな。」
みたいにさ・・・
そういう感じでね、覚者と呼ばれてる人たちや有名な宗教的指導者、スピリチュアル教師なんかでも、まずその瞳孔や顔つきを見たり、その人が真なる自己の目覚めや悟りの本質的な部分について語っていることをある程度聞けば、わかるわけですよ。
「この人は、悟りどころか目覚めてすらいない確信犯的な詐欺師だな。」
とか、
「この人は、悪い人ではないけど、ただの勘違いをしている偽物だな。」
とか、
「このスピリチュアル教師は、この顔つきからすれば目覚めの初期段階にはいるようだけど、それを悟りだと勘違いしているだけだから悟りの本質についての理解は全然生じていないな。だから歴代の覚者たちからの借り物の言葉を無理やりあて語っているので、言っていることに矛盾が生じたり歯切れが悪くなるわけだよな。」
「この人は悟っている悟っていないと賛否両論されているが、その発言から見るに、それなりに目覚めが深まった状態にはあったようだけど、まだ悟りまでには至っていないな。目覚めが完結して悟っていたら、このような発言にはならないはずだから・・・。この発言は、深い目覚めの状態の渦中にある人の典型的な精神状態からでてくる言葉だな。」
みたいにね。
ですからそのような風に、悟った人、そしてさらにはその後の変容というものをそれなりに経てきている人というのは、「真我の目覚め」に始まり「悟り(真我実現)」において完結し、そこからの更なる「熟成による変容」という一連の大きなプロセスにおけるすべてを熟知しているわけです。
もちろん完全発酵の後の熟成に終わりはないわけですが。
そのようなことを知的にだけでも理解しておけば、ラマナ・マハルシやその他の有名な悟った人たちにおいても、その悟り自体は同じものであるが、熟成による変容ということにおいてはラマナ・マハルシの方が格別に進んでいるであろうと推測できるわけであります。
つまり探究者たちの議論にありがちな「どっちの悟りがすごいのか?」などといったようなことではないということです。
そのようなわけで、熟成度合いはともかくも、悟っている真のスピリチュアル・マスターや師というものは、直接伝達によって真なる自己の目覚めが始まった生徒に対して、いちいち訊かなくても
「今はこのような感じですね。」
「どうしてわかるんですか!?」
といったように、生徒の目覚めのその時々における意識状態や肉体/精神の状態などに関して、手に取るように全てお見通しというわけなのです。
決して超能力ではありません。
ただ単に、自身が過去に通ってきたプロセスなわけですから。
だから「その感じなら、これまでの流入期から次の段階である引き込み期に移行しているので、このような過ごし方に変更してください。」などといったように適切なアドバイスができるというわけであります。
そのような適切なアドバイスができる人というのが、本当の意味でのスピリチュアル・マスターであり、直接伝達能力の有無も含めて、いわゆるスピリチュル教師や自称スピリチュアル・マスターなどとは決定的に違うところであります。
それにしても、この『言葉による伝達』をリニューアルしたばかりの3月頃に私が書いた記事と最近の記事とでは、わかりやすさが全然違うでしょ?
古い記事は、間違ったことは書いてはいないが、説明がわかりにくいよね?
まだ熟成期間が短いから、理解が今ほど明晰でないのでね。
だからこの記事にしてもそうだけど、こうして改めて書き直しているわけでさ・・・
なので、読んでいてもわかりにくい記事は、おそらく古い記事でまだ書き直していないものだから、あまり読まなくていいと思いますよ。
新しめの記事を何度も読み返される方がためになるかと思います。
それらをあらためて読み直してみて、依然に読んだ時にはわからなかったことが、他の記事なども読んできたことによって理解できるようになっているかもしれないからね。
そういった新たな理解が生じていれば、ゆっくりではあってもそれなりに自分が成長していることを確認することができるからね。
悟後の修行とは
一般的に言われているところの悟後の修行とは、観照者としての悟り、すなわち小悟の後の修行ということだよね。
しかし、観照者としての自己を実現したあなたは、いまだに気づきと自己同一化したままだ。
しかし、真のあなたである魂そのものは、気づきに先立つものだ。
熟睡時などにおいても、気づきはなくとも、魂としてのあなたは存在しているのだから。
だからを気づきも超えていかねばならない。
しかし、いったい、どうやって?
気づきを保ちながら、気づきの根源、すなわち魂の故郷である意識の根源へと至ることによってだ。
その後には
しかし、私が今ここで述べている悟後の修行とは、これまでに述べてきたことからおわかりのように、純粋意識との接触状態が生じてからの発酵過程のことだからね。
1.発酵 | 2.完全発酵 | 3.熟成 |
真なる自己の目覚め | 悟り | 熟成による変容 |
悟りへと至るまでに必須となる真なる自己の目覚めにおける一連の進展過程 | 悟り | 悟りの後に生じる変容や、それに伴う理解の深化や肉体/精神の浄化など |
つまり、悟後の修行とは上の表における1から2までの過程のことだよね。
要するに、
悟後の修行とは、真なる自己の目覚めが始まってから、その目覚めを途絶えさせないようにするための具体的な工夫や取り組みなどのことだよ。
真なる自己の目覚めを小さな悟りと称して、その後の目覚めの進展過程を途絶えさせることなく経過させていくための具体的な工夫や取り組みなどのことを修行と称しているわけだよ。
だから悟後の修行とは、悟りの後の熟成による変容のことではないからね。
熟成による変容というものは、完全に放置しておいた状態で自動的に進んでいく完全他力的な自然現象だから、それを修業と称するには、さすがに無理があることくらいはわかるよね。
悟(真なる自己の目覚め)後の修行(目覚めの進展過程)ということだよ。
絶対無としての悟り※
※. 私は「境地」という言葉を、「常在化された永続的な意識状態」という意味において使っております。
ふと最近、気がついたのですが、知らぬうちに私の意識状態がさらに大きく変容していたようです。
少しずつの変化でしたので、これまで気がつきませんでした。
自己の変容そのものについての理解は、いつも後からやってくるものですから・・・
また、肉体レベルでの疲れなどによる影響だと思っておりました。
ですが、サイレンス・セッションやノーコンタクトでの直接伝達において、最近の私の直接伝達がさらに強力になっているという指摘を、何人かの生徒様からいただいておりました。
この度の9月期のノーコンタクトでの直接伝達におきましては、「白い光が輝いていた」というコメントをされる参加者が多かったというのも不思議に思っておりました。
昨年からサイレンス・セッションを定期的に続けてこられた生徒たちは口をそろえて、「去年の先生とは別人みたいです」と仰っていたこと等々・・・
現在の私は、絶対無の境地にあります。
それは、純粋意識の次元をも超えております。
参照記事:
そこには、底なしのような絶対的な静けさだけが常在しています。
それ以外には、何もありません。
その静寂そのものは、永続的に不変かつ不動であるという意味において、私は絶対無の境地と呼んでいるのです。
ですから、いかなる者、いかなる事といえども、この絶対的静寂を壊すことや乱すことはできません。
たとえ私が肉体レベルでは激怒していたり、深い悲しみに打ちひしがれている時でさえも・・・
それは、従来の純粋意識との接触時における感覚とは、根本的に異なります。
もちろん、その場所から、必要に応じて直接伝達をしたり、肉体/精神の次元や外的な世界にも気づいているわけですが・・・
特別セッションなどでの、手かざしによる直接伝達等によって、一時的にならば体験された方も数名いらっしゃいます。
(絶対無の意識状態を一時的な体験としてではなく、常在化された永続的な意識状態、すなわち境地にまで深めていくためには、個人差もありますが、それなりの時間がかかります。)
このようにして私は、この絶対無の場所から、思考の世界、感情の世界、感覚の世界、物質的な外的世界などといった多次元的な世界にも同時に参加しているわけであります。
もっと理解を深めたい・・・
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。