恩寵
更新情報:2025.12.15 1:32
8年ぶりに更新し、再公開いたしました。
現在も加筆修正を繰り返しております。
今日も頑張って書いたぞ〜!
宝箱のように色んなものを詰め込んでおいたよ。
疲れたぜ〜・・・
「自我の目覚め」と「真我の目覚め」
顕現/自我の次元
↑ ↓
知性
↑ ↓
感受性
↑ ↓
存在性
↑ ↓
非顕現/真我の次元
恩寵について
恩寵、それは「存在性の根源という意味での真我(これを狭義の真我とする)」から放射され続けている原初のエネルギー。※1
そのような意味から、エネルギーという観点においては第一エネルギーと名付けている。※2
ラマナ・マハルシの真我探求のプロセスにおける理論からすると存在の感覚という言葉に相当する。
私はこれこそを愛と呼びたい。
なぜなら、それなしに魂としての充足はありえないのだから・・・※3
それに、これがなければ魂は窒息し、やがては心や身体までもが蝕まれていく。
話を戻して、なぜ恩寵という言葉をこのように定義したのかというと、「真我探求の段階にある探求者においては、この第一エネルギーである存在の感覚こそが恩寵と呼ぶにふさわしく感じる」からである。※4
そして「真我実現/悟りのため、すなわち、あなたという意識が顕現の次元から非顕現の次元へと移行していくためには、この恩寵が絶対不可欠なのである。」
それゆえ、「ラマナ・マハルシの教え」においては、恩寵やラマナの臨在、存在の感覚などが重要視されているわけである。※5
つまるところ、探求者目線からすると、ある段階において自力から(高次の)他力へのバトンタッチが必要な時期が必ずくるということである。
裏を返せば、この時期においては必ず探求が行き詰まるということだ。
それゆえ「恩寵を導いてくれるマスターと出会える」ということは広い意味での恩寵であるとも言える。
今回は恩寵についてを書いてみた。
個人的には、「あれはあれ」「これはこれ」であり、名称や定義なんかはどうでも良いのだが、真摯な探求者のお役に立てればと思って書いた次第でごじゃる。
以上。
注釈
※1.
>恩寵、それは「存在性の根源という意味での真我(これを狭義の真我とする)」から放射され続けている原初のエネルギー。
狭義での真我、すなわち究極的な意味における真我そのものは意識でもなくエネルギーでさえもない。
それらに先立つ絶対的基盤なのである。
※2.
>原初のエネルギーであるという意味から、エネルギーという観点においては第一エネルギーと名付けている。
・第一エネルギー:存在の感覚が意識そのものによって直接的に感じとられた際のエネルギー。
そのリンクポイントとなるセンターは頭部にあるヘッドセンターである。
このような第一エネルギーとの接触は真我実現/悟りへと至るプロセスにおいて必須のものである。
そのような意味からも、ここからが真我実現/悟りへと至る過程の本当の始まりだと言えよう。
・第二エネルギー:存在の感覚が肉体や精神によって間接的に感じとられた際のエネルギー。
その時々において、頭部や胸や腹で感じたり、全身に広がったりとまちまちである。
もちろん、これは第一エネルギーとの接触に付随して生じる場合もあるので、第二エネルギーとの接触自体は良いことである。
要は、「注意の焦点」となる「留意のポイント」がどちらにあるかということなのだ。
このようなエネルギー的な質におけるこの圧倒的な違いにおいて、気がついていない探求者がなんと多いことか・・・
それゆえ、このような定義までした次第でござる。
※3.
>そして、私はこれを愛と呼びたい。
>なぜなら、それなしに魂としての充足はありえないのだから・・・
サイレンスセッションで私が「沈黙による直接伝達」を始めた途端、その受け手において「なぜか涙が流れてくる・・・」といった現象が多発するということは、そういうことなんじゃないのかな・・・
頭(知性)よりも心(感受性)の方が敏感なんだよ。
※4.
>なぜ、このように定義したかというと、「真我探求の段階にある探求者においては、この第一エネルギーである存在の感覚こそが恩寵と呼ぶにふさわしく感じる」からである。
「すでに真我を実現した者」すなわち「悟った者」には、もはや真我実現/悟りのための理論や定義は必要ない。
それが必要なのは探求者においてのみである。
それゆえ、私は探求者目線で定義しているのである。
これはある種の翻訳作業のようなものゆえ、とても疲れるので、ここ数年ばかり記事上では控えている。
※5.
>それゆえ、「ラマナ・マハルシの教え」においては、恩寵やラマナの臨在、存在の感覚などが重要視されているわけである。
「私は誰か?」という問いかけは、そのための準備の一つにしか過ぎない。
しかし、ヘッドセンターが活性化してくれば、そのような問いかけなどをしなくても想念との距離が保ちやすくなるので、正しい指導のもとにヘッドセンターの活性化に取り組むことの方が近道だと思う。
たとえるなら、「私は誰か?」と問いかけることによって生じる「あなたと想念との間の仕切り」が襖(ふすま)1枚のような感覚だとするならば、ヘッドセンターへの留意によって生じる「あなたと想念との間の仕切り」は壁1枚分くらいには相当するだろう。
ゆえに、想念のやかましさも減少する。
・恩寵とつながるためのセッション
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