一流の証は「抜け感」にあり!
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一流の証は「抜け感」にあり!
悟りや目覚めなどにおける「境地と抜け感との関係」についてを話そうと思う。
しかし、こんなことについて語っている人などいないので、みなさんは「なんのこっちゃ?」と思われたことだろう。
だからまずは、抜け感というファッション用語を理解してもらうために、ファッションにおいての抜け感というものについてを語っておこうと思う。
ファッションにおいての抜け感
昨日は、行きつけの洋服屋さんで取り置きしてもらっていた靴とトラウザーズ(パンツ)を買いに行った。
すると、マルジェラの長袖Tシャツが入荷していた。
ぱっと見は、少しくすんだ黒の、普通のペラペラの長袖Tシャツである。
しかし、私は長袖Tシャツというものには、安っぽいアメカジスタイルといった印象しかないので、自分が着ることはないのである。
しかも、お値段は税込みにすると4万円を超えてしまう。
だから当然、買う気はない。
しかし、いくらマルジェラがハイブランドであるとはいえ、ありきたりの普通のものをそんな値段で売ることなどは絶対にしないはずだ。※1
「ならば、何か違いがあるのだろう・・・」
「超一流の仕事を見てみたい!」※2
私の好奇心に火がついたのである。
私:「(長袖Tシャツ嫌いだから、)買うことはないだろうけど、どれだけの違いがあるのか確かめたいから着てみてもいい?」(洋服屋さんは、まずは着てもらってナンボだからね。)
店長:「ぜひ!」
着てみて、度肝を抜かれたね~。
さすがジョン・ガリアーノ(マルジェラのデザイナー)だね。
「(こんなオーソドックスなスタイルの長袖Tシャツを着ているのに)なんでチープに見えないんだ?!」と・・・
さっそく私は師に質問攻めしながら、ジョン・ガリアーノという超一流のその仕事の「分析」をし始めた(笑)
私の場合、洋服の「買い物」とは、そのような「分析」のための手段であるとも言える。
(以下の写真をご覧いただければおわかりだと思うが、)丸みを帯びた美しい肩のラインが構築されている。
そして、ほど良いネックのゆるさが柔らかさやリラックスムードをさらに高めてくれている。
つまり、私の男性的な身体のラインの身体(この時の体脂肪は12%くらい)に、女性的な柔らかさをも演出してくれるのだ。
さらに、薄手の生地を横に広くとることによって、自然に入るひだが生じるようにドレープ感を作り出すことで、平面的に見えがちなTシャツが立体的かつドレッシーに見えてくる。
男性は女性のように胸がないため、上半身が平面的になりがちなのだ。
だから、男性の正装においてはシャツのカラーやネクタイやなどといった立体的なものを入れていくことで、立体感を生み出すという側面もあるのである。
しかし、いわゆるTシャツにはカラーやネクタイなど、あるわけがない。
そこで、わざとゆったりめに生地をとり、ドレープ(ひだ)が生じるようなパターンで作っているのである。(しかし、そこそこのブランドのTシャツだと、ドレープがあっても、ただのオーバーサイズのように見えてしまったり、たんなる横広のシルエットになりがちなのである。以下の写真のように、まっすぐにスッと落ちてこなかったり、スソが広がったりするのである。)
これらを全て計算し尽して作っているのだ。
それだけの手間がかかっていれば、それだけの値段になるのも当然だ。
むしろ私からすれば、コスパ的には安いものなのだ。
私は本物には、お金を惜しまない。
「安物買いの銭失い」になど、なる気はない。
今の私レベルでは気づけていない部分においても、ディテール(細部)へのこだわりは、まだ他にもたくさんあることだろう。
私はジョン・ガリアーノという天才による、その圧倒的にハイクオリティーな仕事の成果にあらためて感動していた。
「(たかが長袖Tシャツと言えども、)天才の手にかかると、こんなにも歴然とした違いが生じるのか・・・」と。
そこから店長さんは、その感動の上に新たな感動の盛り付けをしてくれる。
実は、それこそが彼の才能においての真骨頂なのだ。
店長:「木幡さん、ついでにこの短パンと一緒に合わせてもらえませんか?」
私:「短パン!?」
私は長袖Tシャツ嫌いの上に、短パン嫌いでもあることも彼は知っている。
想像してみて欲しい。
いい歳したオッサンが長袖Tシャツと短パンで外を出歩いている姿を・・・
顔の彫りが深く長身のアメリカ人が、そのような少年っぽい着こなしをするのならまだしも、童顔で小柄な日本人がそのまま真似してしまうと、確実に火傷をしてしまう(周りから見ると「痛い」感じになってしまう)。
つまり、どう見ても「老けた子供」にしか見えなくなるのだ(笑)
その結果、オッサンの汚さというものが余計に目立ってしまい、主観的な本人の気持ちはどうあれ、客観的には「少年ぶった汚いオッサン」の出来上がりなのである。
それなのに、それを承知の上で、店長さんは「ぜひ、その長袖Tシャツとドリス(ドリス・ヴァン・ノッテン)の短パンとを合わせて欲しい」と仰る。
短パン嫌いの私に対して、ファッションにおいての「私の師」である彼があえてそう仰るからには、彼の頭の中では私を納得または感動させるだけの絵ができているのだろう。
ならば、その絵を見てみたい。
さらに欲(執着ではない)を言うなら、そこから、また新たな何かを学びたい。
そこで「師匠の想い」と「自身の好奇心の虫の声」に従うこととして、ドリス・ヴァン・ノッテンのつややかにコーティングされた黒の短パンを履いてみた。
私:「いいね~。しかも俺、意外と短パンも似合うね~」(この発言はうぬぼれからくるものではなく、私は自身の身体をただの物体のように見ているだけなのである。)
店長:「ハイっ、絶対にお似合いになると思ってました。」※3
それは私が「師の凄さ」を再確認した瞬間でもあった。
店長:「せっかくなので、このサンダルも一緒に合わせて履かれてみてください。」
これも全体が黒で、前に二本の太いベルトがあり、表面全体に牛のハラコの黒い毛があしらわれたリックオウエンスのサンダルである。
そのサンダルを履けば「師のかけた魔法」の完成である。※4
素材も色合いも異なるそれぞれの黒が、柔らかで控えめなコントラストを生み出している。
師がお得意とするワントーン・コーデ(単一の系統色でまとめたコーディネート)のスタイルだ。※5
「ジョン・ガリアーノが長袖Tシャツにかけた魔法」と「ドリス・ヴァン・ノッテンが短パンにかけた魔法」と「リックオウエンスが靴にかけた魔法」とを巧みに組み合わせることによって完成する「師のかけた魔法」なのである。
実は私は、この「師のかけた魔法」すなわち「師が描いたコーディネートや着こなし」にお金を払っているのだ。
なぜなら、先の長袖Tシャツや短パンやサンダルを、各ブランドが提案しているようなコーディネートと着こなしにしてしまうと、それはもはや日常的な「普段着」ではなく、非日常的な「パリコレ・ファッション」そのままになってしまうからなのだ(笑)
だから、「ランウェイでカメラを前にしたモデル」でない私たちは、パリコレのようにキメ過ぎにならないよう、こちらの側であえて「抜け感」を作りださなければならないのだ。
その抜け感づくりにおいては、ドレス寄りのアイテムの中にカジュアル寄りのアイテムを差し込んでいくという、基本的なコーディネートの技のみでなく、袖を少したくし上げる、パンツをロールアップしたり、パンツのウエストラインを少し下げて履く、靴のかかとを踏んで履く、あえてワンサイズ上のものを着る、などといった着こなしの技の組み合わせも駆使するのだ。(このような着こなしの技のことを、ファッション用語ではこなれ感と言うのかな。)
そして今回のコーディネートこそ、今回、師が私に提案してくれた抜け感においての一つの極みの表現なのである。
想像してみて欲しい。
「(長袖とはいえ)Tシャツ」に「短パン」に「サンダル」。
それはまるで、おっさんが近所のコンビニに行く時のような格好だ。
すべてが完全にドレス寄りのスーツスタイルとは真逆のスタイルなのである。
つまり、ドレッシーなアイテムが一つもなく、すべてが完全にカジュアル寄りのものばかりなのだ。
だから通常ならば、そこにエレガンスな要素を見出すことなどできないだろう。
先の話のように、「少年ぶった汚いオッサン」になってしまうのが必至なわけだ。
ところが、それがそうならない。
これほど「抜け過ぎ」すなわち「カジュアルすぎ」のアイテムぞろいなのに、子供っぽくはならない。
ならば師は、どのような魔法をかけているのか?
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注釈
※1.
マルジェラのような洋服は誰でも手軽に買えるような金額ではないため、大きく分けるとビジネスモデル的には客数重視型ではなく客単価重視型に分類されるだろう。
それゆえマルジェラのようなビジネスモデルは、私のビジネスモデルにも共通する部分が多いため、私の事業経営的な観点からも「勉強のための材料」にしているのである。
※2.
「超一流の仕事を見てみたい!」
私の同業者には、私から見て「この人は私よりも高い次元からものを観ている」「それゆえ、この人からは学ぶべきものがたくさんある」と思えるような人が一人もいないから、他の業種の超一流と思える人から学びつづけていくのが私のやり方なのである。
同業者は、私よりも低い次元での小手先の技なら、たくさん知っているようだが、そのようなちょっとしたコツを掴めば誰にでもできるようなものは、本質的にあまり役に立たない。
※3.
店長:「ハイっ、絶対にお似合いになると思ってました。」
私にはお世辞が通用しないし、彼はそのことを知っているのみならず、彼は販売促進のためだけにそのようなつまらないお世辞を言うような人ではない。
※4.
元来写真を撮られることが嫌いであるがゆえ、被写体としての能力が極めて低い私は、師匠に写真を撮っていただくために少しの間、立ったままじっとしていただけなのですが、そのことにより一気に内側の次元に引っ張られたことで、目つきがとろんとして、結果的に不愛想な表情となった結果、ガラの悪い感じで写ってしまいました。
※5.
ちなみに、短パンスタイルでヒゲをきれいに剃ってしまうと少年っぽくなってしまうので、このスタイルの時は、あえて無精ヒゲのままにしている。
また、さらなる「抜け感」を作り出すため、自分なりのバランス感で、短足に見えるくらいに、わざと短パンをかなり下げてはいている。
ドリス・ヴァン・ノッテンの公式サイトで20SS(2020年スプリング・サマー・コレクション)のランウェイでのルックを見ていただけると、私の方はものすごく下げてはいているということがわかっていただけると思う。
比較のために、その画像をこの記事に載せてあげたいのだが、著作権の問題があるだろうから、あえて載せることは避けています。
すみません、ごめんなちゃい。
とはいえ、コーディネート次第では、あえて下げてはくという技も、もちろん師匠から教えていただいたものだ。
どの辺まで下げてはくのかは、上着の丈などにもよってくる。
たかがパンツ。
しかし、ほんの少しのはく位置次第で格段に変わってくる、その表情。
つまり、言い換えるなら、物が良ければ、1本のパンツでも、はく高さや角度などを変えることで、別のパンツのように見せることもできる。
ということは、1本8万円のパンツでも、4種類のはき方ができるなら、世界最高レベルのパンツを(その寿命は別としても)2万円で手に入れている、ということになる。
「安物買いの銭失い」ほど、(防寒着としての役割以外に、何も得るものがないという意味において、)高くつくものはない。
また、このスタイルにサンダルを合わせるのではなく、艶(つや)やかな黒のブーツを合わせると、さらに遊びが効いて、よりモード的になって面白いのだが、周りから見るといわゆるゲイファッションのように映りがちなので、そのような意味において、ゲイに見られたくない方においては、このスタイルにブーツを合わせることは現実的には難しい。
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コメント ( 4 )
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続きが気になります!
悟りだけでなく、ファッションや音楽も学べるとは…。
こだわりを持って深く探求するという妙味が人生を豊かにするのですね。
これは悟りの道にも通じるのでしょうか。
木幡先生のレベルではできませんが、自分にも取り入れられたらと思います。
とはいえ、ファッションの師匠の技がすごいですね。
細部にまで手を加えていながらも、それを感じさせないさり気なさとは…。
一流の技の極みを感じます。
それが分かる先生の感性もすごいですが。
なので、木幡先生の大人スタイルのTシャツ短パン姿…どんな感じなのかもすごく気になります!
木幡 様
いつも興味深く読んでおります。
今回のコーディネートとは別になりますが、ベレー帽、素敵ですね。
ベレー帽って本当に難しい。
日本人ではなかなかこうはキマらないです。
ベレー帽のイメージ。
① ベレー帽の硬派でワイルドなイメージ → 軍隊、特殊部隊、傭兵、革命家
② ベレー帽の知的で内省的なイメージ → 芸術家、画家、哲学者
師は、① 無骨さ、豪快さ、を持ちつつも、かつ、② 知的な繊細さ を演出しています。
①、②のイメージを両立させていますね。
これはきっと帽子だけに、ヘッドセンターの均衡理論を象徴的に示しているのでしょうか。
考えすぎでしょうか…笑
いや本気でそう思ったりもします。
例えば、ゴツイだけの人が付けると①のイメージで、ミリタリーベレー、軍人ぽくなりますし、
線の細い人が被ると、②のイメージが拡大され、なよなよした繊細な感じになります。
童顔な日本人ですと場合によっては幼稚園児のようにもなります。
(もちろんベレーの種類にもよりますけど。)
たぶん私が被ると、もうコントのようになってしまいます。
大昔、ベレーを被ってたら手塚(治虫)先生かよ!と言われました笑
また、師が「スピリチュアル教師的キメキメファッション」じゃなくて本当に良かったです。
「抜け感」の続き、楽しみにしています。
奥深い内容の記事をありがとうございます!
ファッションについての軽快な話から、人としてのあり方まで考えさせられるものでした。
大事な所は「真締め」にしておきながら、それ以外は「抜け感」「遊び」を出す…。
技を極めていたり、人間として成熟しているからこそ出せる余裕なのでしょうね。
怒られているのに愛を感じるとか、皮肉なんだけど愛を感じるなども芯に愛があるからこそなんですね。
それは決め過ぎている時より、真の心がフワッと香るくらいが上品というところでしょうか。
前の記事の「転調と転生の法則」にも通じるものがあるように思います。
素晴らしい記事をありがとうございました!
追申: 私はこの記事の写真もコーディネートの素晴らしさだけでなく、先生の熟成された人となりを感じられて良いと思いました。
「抜け感」のご説明ありがとうございます。
「均衡理論」の理解も深まりました。
凡人には、<本当の意味>で、キメるのもなかなかむつかしく。
私なんか、キメてないのに、ゆるく抜けてばかりの毎日です笑
天才たちの仕事は、本物の集中あってこその、(恩寵によって訪れる)、本物のくつろぎ、そのバランスなのでしょうね。
たぶん、晩年のピカソが子供のような線画に回帰(抜け感)したのも、天才的に精巧なデッサン力(キメ)が基礎にあり、時代とともに様々なスタイルの変遷があったからでしょうし。
キヨシロー(忌野清志郎さん)も、おふざけをやっているように(抜け感)見せかけて、実は物凄いピッチが正確な(キメ)日本有数のボーカリストですものね。
>キリストだって神殿で怒って大暴れしているんだ。
イエス様、結構ハチャメチャにやりますよね笑
怒りも哀しみもシンプルに作為なく自然に表現されていました。
妥協なき態度、当時のユダヤ教の形骸化した部分に対してNO!と言う態度において、例えば音楽の方法論に置き換えると、もうほとんどパンクに近いです。
けれども、時代に、個人に、霊的な揺さぶりをかけるって、時にそういうことですよね。
師の霊的な目的は、「行為者、思考者としての」相手が、必ずしも予定調和で満足することではないですし。
次の書き物も楽しみにしております。