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吾輩は○○である~野性と神性とのバランス~

この記事は2020.08.05、20:00に更新しました。

更新内容:下のコメント欄にコメントをいただきました。

吾輩は○○である

以下は夏目漱石の「吾輩は猫である」の有名な書き出しである。

吾輩は猫である。

名前はまだない。

どこで生まれたか、とんと見当がつかぬ。

 

擬人化された猫が語るというユーモアがあり、なおかつそのリズムも良い。

 

しかし今の私はと言えば、どうだ?

 

吾輩はダイエット中である。

脂肪がまだある。

どこかと言うと腹回りである。

 

なんと間抜けなことだろう・・・

 

最近は忙し過ぎて、買い物に行って、なおかつ料理をする、そのような時間や労力さえもなかったので、毎日のように外食をしていたからね。

もちろん身体のことにも気遣い、それなりに丁寧で良心的な仕込みをしているお店を選んで行ってはいたのだが・・・

 

しかし脂肪があるとは言っても、私はいわゆる肥満体型ではない。

見た目においてもBMI(体重と身長から算出される肥満度)的にも、スリムな部類に入るだろう。

 

体重も20代の頃から、ほとんど変わっていない。

なのに、腹回りの皮下脂肪だけが増えてきたので、腹筋の割れが見えなくなってきた。

つまり、仮面ライダーのような腹筋のラインが消えてしまったのである。

 

歳だから当然?

バカなことを言っちゃいけない。

私はそんな食品業界の御用学者たちが流布したプロパガンダに騙されるほどウブではない。(思い出してみなさい。プロパガンダの代表的存在である、テレビのスポンサーにどれだけの割合で食品業界の企業が名を連ねているのかを・・・)

私は騙すことも嫌いだが、騙されることは大嫌いなのだ(笑)

 

何はともあれ、私は、腹回りだけの余分な肉などいらない。

邪魔なだけだ。

そのような食品業界のカモの称号などいらない。

 

なぜ、それが嫌なのかと言うと、もちろんモテたいからとか、そんなくだらない理由からではない。

かりに「あなたの腹筋が好き」だと言われてモテても嬉しくなどないし、私がモテるかどうかはさておき、腹筋が割れていようとなかろうと、モテる人はモテるし、モテない人はモテないのだから・・・

それにいくらモテたところで、自分が本当に好きな人からモテなければ意味がないではないか・・・

見た目を売りにしているタレントでもあるまいし。

 

それに、もともと私は太りにくい9種5種体癖であるのみならず、私のような(男性ホルモンを代表する)テストステロンが過剰であったような人間は、筋肉はつきやすいが、なかなか脂肪がつきにくく体質なのだ。

にもかかわらず、「なんで、ここだけに余分な脂肪があるのだ?」ということなのだ。

 

私にとって、腹回りの余分な肉の何がよろしくないのかと言うと、野性的な身体が失わつつあることが嫌なのだ。

言い換えるなら、私の身体が、メタボなどに代表されるような、悪い意味での文明人的な身体になりつつあるということだ。

 

心と身体とは一つのものの異なる表現であるように私には思える。

つまり野性的な身体の喪失は、野性的な心、つまり野性的な勘などの喪失にも直結していると私は思うである。

 

現在の私の記憶力の低下なども、ただの加齢によるものではないように感じる。

疲れが残りやすいことも問題だ。

つまり文明病による野性の衰えとして感じられるのだ。

 

直接伝達においては何の影響もないとはいえ、そのようなことで個人セッションや言葉による伝達のパフォーマンスを下げたくはない。

いや、これからもっともっと上げていかなければならないのだ。

私の実力はこんなものじゃない。

私のことは、私が一番よく知っている。

 

しかし、私の心や身体から、従来ほどの野性が失われてしまった。

大人になった私は、子供の頃よりはいくぶん賢くはなったかもしれないが、子供の頃のように元気にはしゃぐことが少なくなった。

はしゃいでいないことが問題なのではない。

はしゃぎたくなるくらいの元気が失われつつあるということが問題なのだ。

 

充実した体力なくして、健全な心は育たない。

当然のことながら、充実した体力なくして、知性は健全に機能しない。

 

「(充実した体力を伴う)野性に基づく洞察なき知性」すなわち「ただ言葉(概念)だけをこねくり回しているだけの思考」から生まれてきたものなどは、決して智恵にはなり得ず、ただの干からびた知識にしかならない。

 

人間とは、動物と神との間にかかる橋のような存在である。

その橋のことを自己意識(広義における真我と呼んでも良いだろう。

 

そして、霊的に高い進化を遂げた人間とは、人間と神との間にかかる橋のような存在である。

その橋のことを魂(狭義における真我と呼んでも良いだろう。

 

そして、魂(狭義における真我)との融合、すなわち大悟を実現した人は、その人間性においては野性と神性とが同居している。(キリストだって神殿で大暴れをしている。)

 

これは私の持論である。

これも一つの均衡理論だ。(このことについては、いつか記事にしようと思う。)

そして心も身体も魂の反映なのだ。

 

ラマナ・マハルシニサルガダッタ・マハラジの目を見よ。

彼らの目には野性と神性とが同居している。

若い頃のラマナなどは、まさに獣(けもの)のような目をしている。

 

「彼は、山に潜伏し続けている地下組織の頭領です。」と言っても通じそうじゃないか(笑)

この頃のラマナに、フランシス・コッポラ監督の「地獄の黙示録」に登場するカーツ大佐をぜひ演じて欲しかったね。

 

話を戻すとして、それほど凄みのある野性の瞳。

しかし、その瞳には神性をも見てとることができる。

ただの獣のような目や顔つきとは違うよね。

ただの獣との違いは、生来の野性を保ちながらも、そこに神性に由来する気品があるということだ。

ただの獣だけでは下品だし、神性を装っただけの偽グルにも、それ特有の下品さというものが漂っている。※1

すなわち、野性はある野獣ではないのである。

だから、この頃でさえ、ラマナ・マハルシには学(がく)はなくとも、何とも言えない気品というものがある。(わかる人には、わかるだろうが・・・)

 

しかし、こちらが悪意を持って挑発でもしようものなら、今にも飛びかかってきそうだ。

変種の人間として、動物園で檻に入れられて展示されていても不思議ではない(笑)

ラマナに勝手にエサを与えないでください!」

ラマナはすぐに暴れますので、大声を出すなどして、あまり刺激をしないでください!」

みたいな注意書きがあったりしてね・・・(笑)

 

フンドシ一丁という、このファッション・コーディネートなんぞは、伝統やモードさえをも超えて(笑)、まさに野性そのものだ。

できれば、素っ裸でいたかったのだろう。(それでは、もはやファッションではなく、ただのヌードである(笑))

もちろんバカにしているわけではないよ。

私の野性も相当なものだからね。

これは僕なりの最大級の誉め言葉なんだから・・・

今でも私はラマナが好きなんだ。

 

古くは宮本武蔵、近年では植芝盛平氏など、一流の武術家にも覚者のような資質が備わっていたことも興味深い。

合気術の名人であられた佐川幸義氏も、とても自己意識が明晰な目をしておられた。

 

魂(狭義における真我)との融合、すなわち大悟を実現した人は、その人間性においては野性と神性とが同居している。

しかし、本を出版している著名なスピリチュアル教師たちでさえ、その99.99・・・%は、大きく分けると、以下の二タイプとなる。

 

  1. 小悟だけを実現した人。

すなわち、観照者としての自己、すなわち自己意識(広義における真我)を実現しただけの人

観照者としての視点は持ち合わせているので、それなりの知性は感じられるが、神性は感じられず、野性味にも欠けている人。

エックハルト・トールガンガジムージ、などなど・・・

 

2. 小悟さえをも実現していない人。

すなわち、観照者としての自己さえも目覚めていないのに、神性を醸し出そうとしている偽グル(偽の覚者)。※2

つまり、粗削りな野性味はあるが、神性はまったく感じられない。

観照者としての視点さえもないため、そこそこの知性しか感じられず、ただ曖昧に覚者の言葉を受け売りしているだけの人。

わざわざ話題にするのもバカらしいので、あえて名指しはいたしません。

 

そのどちらかだ・・・

つまり、どちらも普通の人だ。

ただ世間にはの方が比較的に数が少なく、の方の数が圧倒的に多いというだけのことである。

 

野性と神性との同居

このことを目安にすれば、覚者を装った偽グル(偽の覚者)に引っかかることはないだろう。

きちんと、その顔、その目を見てみなさい。

あなたが成熟すれば、いつかその違いが明確にわかるようになることだろう・・・

 

魂(狭義における真我)との融合、すなわち大悟を実現した人は、その人間性においては野性と神性とが同居している。

もちろんその本質は内的な境地に由来するものであり、あくまでも心や身体のことなどは、この次元においての話でしかない。

しかし、その境地から適切に表現し続けていくためには、それなりに表現のための道具(心と身体)をメンテナンスしておかねばならないと実感している今日この頃なのである。

 

なぜ、このようなことを考えているのか?

私のもとに訪れる探求者たちを観察していると、探求のための入り口や道具でもある「心と身体」の機能が十分に発揮されていないと感じ続けていたからである。

その問題解決のためである。

 

それゆえ科学的なデータに基づく仮説に従って、自身の身体を実験対象として検証しようとしているのだ。

つまり、これも私の仕事の一部なのである。

 

ここ一週間でのささやかなる努力によって、まだ仮面ライダー時代には及ばないとはいえ、腹筋の割れが見え始めてきている。

下の6年前の写真の頃の野性には、まだ全然及ばないが・・・

 

そして以下の写真が最近のものだ。

 

良く言えば、今現在の方が、男性エネルギーと女性エネルギーのバランスはとても良くなってきているように思える。

魂には性別などはないため、魂が体現されてくるようになると、それが反映されてくるからなのだろう。

 

ここ6年で、その境地の変容により、良い意味で神性と野性のバランスが変わったという側面はあるにしても、野性の喪失ということにおいてはこれだけ変わってしまったのだ。

見た目的にはどうであれ、私の体感的にはよろしくない。

それがわかるくらいの野生は、まだ残っている。

 

なので吾輩は猫になる。

心においても身体においても、野性の猫のようなしなやかさを取り戻すのである。

私は人としても指導者としても、そのパフォーマンスを高め続けていかねばならないのだ。

 

それゆえ吾輩はダイエット中なのである。

何も難しいことではない。

基本的には「過度に文明的な食べ物」は控えているだけなのである。

 

注釈

※1. ニサルガダッタ・マハラジはyoutubeの動画などで観ると一見乱暴そうにも見えるが、それは彼の性根が下品だからなどといったことではなく、くつろぎのエネルギーに比べて集中エネルギーがとても強いこととと、ラマナ・マハルシと比較すると、社会的階級が低かったことなどに由来するように思える。

また、ラマナ・マハルシの顔はコーカソイド(白人)系の骨格をしているが、ニサルガダッタ・マハラジの顔はニグロイド(黒人)系の骨格であることも、二人の印象を大きく変えている要因の一つように思える。

しかしニサルガダッタ・マハラジにおいても、神性と野性とが共存しているので、もちろん彼はただの野獣ではないのである。

 

※2. 彼ら(彼女ら)の存在は、探求者にとっては有害でしかない。

彼らはバカであるため、自身の個人的な意見と客観的事実(悟りの境地)との違いさえもがわからないのである。小悟の境地にさえもいないのだから)

簡単に言うなら、(客観的事実のつもりで)自分の感想だけを述べている人のことである。

そのような人は、客観的事実を述べているだけの人に対しても、「それは違う!」とか言い出すので、世間的にはバカと形容されるのである。

つまりバカほど傲慢で対処に困るのだ

 

極端な言い方をすると「自身の体験や境地によって検証されていないこと」を「誰々がこう書いているから」と印籠的に権威を振りかざして、上から目線で言っちゃうような人たちのことなのである(苦笑)

 

いくらスピリチュアル業界の人たちが玉石混淆であるとはいえ、玉と石とでは交わることができないのだ・・・

 

さらに理解を深めたい!

 

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  • コメント ( 1 )

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  1. I. H.

    お世話になります。

    「ヘッドセンターの直接伝達」を受ける前、想念や思考と完全に同一化していた頃の私は、
    仕事等で頭脳を使い過ぎると、その後で、頭の中の熱が引かず、深夜まで様々な考えが高速で飛び交う、
    といった、とても苦しい思いをしていました。

    過去そういった際は、ランニングや水泳で、つまり肉体を強く酷使することで、
    精神と肉体のバランスを取ってきました。

    身体を疲れさせると、想念や思考も収まるからです。

    ごく最近は、「ヘッドセンターの直接伝達」の経験もあり、ヘッドセンターに留意することで、
    観照者として、(未だ不完全ではあるものの)想念や思考との距離を保ってきておりますので、
    頭の疲労も格段に少なく、前述したような、「肉体を強く酷使することで、精神とのバランスを取る」
    ことも不要となってきました。

    ただ、運動不足になってしまい、私も少々、腹周りが気になってきました。(笑)

    私もワイルドさを取り戻さなくては、と思っております。

    師の言われるとおり、異性にアピール云々ではなく、
    男として、肉体がきびきび動作しないのは嫌なのであります。

    神性と野性というテーマは私も共感するところであり、大変学びになりました。

    ありがとうございました!