心よりも内なるもの〜自己意識とヘッドセンター〜
この記事は2021.10.15、19:10に更新しました。
更新内容:記事を推敲いたしました。
至福としての自己の伝達 2021.09より
F. R. 様 / 40代 / 女性 / 神奈川県在住 / 2020年6月より参加
木幡先生
9月期の「至福としての自己の伝達」をありがとうございました。
今月は親の問題に振り回されていますが、なんとか自分の中心軸に戻しております。
自分だけであれば、平穏を深めることに邁進すれば良いのですが、外野に引っ張られると途端にそれが難しくなりますね。
(ノーコンタクトセッションでの)直接伝達があって、やっと思考や感情から自分に戻れているようなマッチポンプ状態が続いています。
外野に影響されるようでは、まだまだですよね。
これもまた修行でしょうか。
10月もまたよろしくお願いいたします。
言葉による伝達 2021.09.25
冷静に自己観察ができているから、そのような意味でとてもいい状態だね。
エネルギー的にも充実しているように感じられます。
なお、この記事は一般向けの記事でありますので、以下の私からのアドバイスはあなたへの個別アドバイスであると同時に、一般読者にも役立つように「個別アドバイスを装った一般論」としても語られているということを踏まえてお読みになられてください。
たとえるなら、探求における大学生であるあなたへの個人的アドバイスでもあるが、同時に、一緒に参加している小学生や中学生方にも理解でき、かつ役立つようにも語られているということであります。
それゆえ「そんなこと、言われなくてもわかっているわよ!」みたいな部分もございますが悪しからず・・・
なお、一般読者様におきましては、
「悟り」とは「エネルギー的進化の頂点」でもあるがゆえ、悟りへと至る過程においては「理解の進化」よりも「エネルギー的進化」の方が先行する。
という事実を理解できる段階にまで至っていない方はお読みになられない方がよろしいかと思います。
心よりも内なるもの
>自分だけであれば、平穏を深めることに邁進すれば良いのですが、外野に引っ張られると途端にそれが難しくなりますね。
>(ノーコンタクトセッションでの)直接伝達があって、やっと思考や感情から自分に戻れているようなマッチポンプ状態が続いています。
>外野に影響されるようでは、まだまだですよね。
「自分の中心軸」という言葉も使われているので、もちろん「自己意識(真我)」のことを指して「自分」と言っているんだよね。
しかし、《自己意識(真我)そのもの》は《(個としての)意識の主体》であるがゆえ《対象化できないもの》であります。
それゆえ、あなたが思考や感情に強く巻き込まれた際、それらから離れてあなたそのもの(自己意識)に戻るために、自己意識を探せば探すほど迷路の深みにハマります。
なぜなら、自己意識を探している者こそ、自己意識そのものなのであるからです。
たとえるなら、それは自分の眼球を見つけようとして目の前を探しているようなものだ・・・(笑)
だから、ほぼすべての探求者が陥る大きな落とし穴でもある。
ラマナ・マハルシが”10人の愚かな男たちが自分自身を数えなかったために「9人しかいない」と嘆(なげ)いた話”にたとえていたのは、まさにこのこと。※1
[参照文献:『あるがままに~ラマナ・マハルシの教え~』デーヴィッド・ゴッドマン編 / 42ページの最後から3行目~45ページの3行目]
言い換えるなら、それは《行為者としてのあなた》が《観照者としてのあなた》を探そうとしているようなものです。
探している者 | 探されている者 |
行為者としてのあなた | 観照者としてのあなた |
肉体/精神としてのあなた | 自己意識=真我としてのあなた |
しかし、
《観照者としてのあなた》は《行為者としてのあなた》に先立つものであるがゆえ、《観照者としてのあなた》が《行為者としてのあなた》を対象化すること(見つけること)はできるが、《行為者としてのあなた》が《観照者としてのあなた》を対象化すること(見つけること)はできないのです。
《対象化のための気づき》が可能な方向
外的世界 ← 行為者 ← 観照者
外的世界 ← 肉体/精神 ← 意識※2
だから、「ただ《それ(真我)》として在ることしかできない」と言われているのです。
つまり、「《意識の中心としてのあなた》が《そこ※3(真我)》へとシフトしなければならない」ということなのです。
だからこそ難しい・・・(そのための直接伝達であるわけですが。)
しかし、それはなんの神秘でもありません。
それは「意識空間における物理的な問題」にしか過ぎません。
よって、裏を返せば「慣れればとても簡単」です。
しかし、それゆえ「そのやり方を(物理的な目に見える形で)見せてあげることができない」という難しさがある。
困ったもんだぜ万次郎・・・
しかし、方法がないわけではない。
そこで、今回はその方法の一つを紹介しましょう。
たとえば(あなたのヘッドセンターが充分に目覚めているという大前提での上での話とはなりますが、)《自己意識そのもの》ではなく《ヘッドセンター》ならば、それは「間違いの余地なく、エネルギー的に明確に対象化すること」ができます。
《ヘッドセンターそのもの》は《自己意識》ではありませんが、《ヘッドセンター》は《自己意識の中枢》でもあるので、心(思考や感情)よりも自己意識に近いものです。
心(思考や感情) → ヘッドセンター → 自己意識
ですから《ヘッドセンター》を「(現在のあなたにとっての)自分の中心軸」と呼ぶことにすれば良いのではないでしょうか。
ならば、自己意識という目的地そのものを探さなくとも、《ヘッドセンターという灯台》を目印にして《あなたの注意という船》を進めていけば《自己意識という目的地》に確実に近づいていくので、間違いなく目的地にたどり着く確率は劇的に高くなる。※4
そのための具体的な方法としては、現時点でのあなたにおいては、思考や感情に完全に巻き込まれてしまわないように、いつも「意識的な注意の分割」によって、《ヘッドセンター》に対して少なくとも20〜30%くらいの注意を常に配分しておけばよいのです。
それが習慣化されてくると、そのような「注意の分割」が自動化されてくるでしょう。
それは「どこにいても常に灯台を見失うことがない状態」です。
言い換えるなら、遊園地で乗り物探しに夢中になりながらも、同時に親の居場所を常に冷静に意識している子供ならば、親から離れてしまって迷子になることはありません。
何事においても言えることだが、《(思考や感情などといった)心》が熱くなるのは良いが、《(それらの観照者である)あなた》までもが熱くなってしまうと大切なものが見えなくなってしまうので判断を見誤る。
心や身体や意識を有するあなたという人間存在を一台の馬車にたとえるならば、感情的で気まぐれな馬に支配されないよう、冷静な御者に手綱を握らせて、主人としてのあなたは適切な指示を与えなければならない。
それこそが「人間らしい人間」なのではなかろうか?
だから、
常に「冷静と情熱とのバランス」をとりながら「注意を分割」しておくこと。
「冷静な自己意識」と「情熱の心」とのバランスだ。
「冷静な自己意識」と「情熱の心」との分割だ。
それが「人間としての懐の深さや厚み」というものの本質だ。
片手落ちでは間が抜ける。
片手落ちでは表面的で薄っぺらい存在となってしまう。
心の次元においては熱くなりながらも、意識の次元においては醒めていること。(この逆の人たちがいかに多いことか!)
これを繰り返すことによって「体で覚える」段階にまで持っていくのです。
「潜在意識にまで浸透させる」と言い換えても良いでしょう。
それは車の運転を習得することと同じです。
初心者が教習所に通っている時は頭で考えながら運転していますが、やがては考えずとも体が勝手に動きます。
はじめは頭部にある思考中枢を通して行っていた動作が、腹部にある動作中枢を通して行われるようになるわけです。
だから、やがては考えごとをしながらでも運転ができるようになるのです。
それは「体得」しているからです。
体得さえすれば、意識的な努力が必要となるのは、こまかな微調整の時などだけです。
今のあなたにとっては(ヘッドセンターのエネルギーが充分に活性化しているならば)簡単なことだ。
だから何度もやってみなさい。
そのような「注意の分割」が「あなたの第二の本能」となるまで・・・
「難しいこと」と「簡単なこと」
何事においても「難しいこと/できないこと」から始めてはいけない。
何かをものにしたいのならば、確実にできる「簡単なこと/できること」から着実に積み上げていかねばならない。
できない人にとっては「難しい技」も、ぱっと見ではわかりにくいだけで、そのほとんどは「簡単な技が無数に組み合わさること」によって「難しく見えている」に過ぎないのだからね。
このことをきちんと理解しなければいけない。
そして、このことを身に沁みて理解できれば、物事をシンプルな方向に切り分けていく深い洞察力というものも身についてくる。
F. R. 様からの返信 2021.09.28
木幡先生
アドバイスじっくり読みました。
ありがとうございます!
意識的にヘッドセンターを灯台にすると、より簡単に自己意識に戻れるのを確認しました。
「ただ自分があるという状態」に戻ると、感情や思考に振り回されて疲弊する事が避けられるので、とてもありがたいです。
練習してより速く、理想としては自動的に自己意識に戻れるようにしたいと思います。
誠にありがとうございました。
言葉による伝達 2021.09.28
>意識的にヘッドセンターを灯台にすると、より簡単に自己意識に戻れるのを確認しました。
そう。
具体的なやり方さえわかっていれば、とても簡単なことだ。
悟りとは神秘ではない。
(教える側も学ぶ側も)「わかっていない」から「神秘に見えてしまう」だけのことなのだ。
>「ただ自分があるという状態」に戻ると、感情や思考に振り回されて疲弊する事が避けられるので、とてもありがたいです。
そうだね。
それに、思考や感情に巻き込まれていたら「(真の意味で)人と関わること」なんてできないからね。
自身の思考や感情に巻き込まれていたら、結局は自身の思考や感情と関わっているだけだから、相手の思考や感情が表層的にしか見えなくなってしまうので、誰と関わっても何をしていても《独りよがりのお花畑ちゃん》になってしまうよね・・・
それはそれで”本人は”幸せなのかもしれませんが・・・(笑)
>練習してより速く、理想としては自動的に自己意識に戻れるようにしたいと思います。
その繰り返しによって、やがては「自己意識に戻る」のではなく「あなたの本質である自己意識が軸足となるようにする」のだ。
あなたなら(私が言うところの「本気」ということの意味をわかってくれるだろうから、)数ヶ月くらい本気で集中してやれば必ずできる!
(しまった! 私としたことが、最後に熱くなってしまいました・・・笑)
脚注
※1.
ラマナ・マハルシが”10人の愚かな男たちが自分自身を数えなかったために「9人しかいない」と嘆(なげ)いた話”にたとえていたのは、まさにこのこと。
このような意味においても、
瞑想や探求において自己意識(真我)へと向かうためには、たとえそれが《気づきや内的視覚とでもいうべきものの源泉》である《内なる目》によるものであろうとも「見る/観るという行為」は《危険な落とし穴》となる。
なぜなら、「見る/観るという行為」においては、その気づきが自己意識(真我)から外側(非真我)へと向かわざるを得ないからである。
さらに言うなら、
自己意識(真我)としての「私とは誰か?」を問いかける自己探求においては《外向きの気づき》を自己意識(真我)の側である《内向きの気づき》へと反転させなければならない。
裏を返せば、その方法を見つけることができるか否かが、その探求の成功における唯一の鍵となる。
このような観点からすれば、《只管打座の真髄》である《無為の境地》へと至るためには「《(精神活動としての)見る/観ること》さえも手放した在り方ができていなければならない」ということなのだ。
それが「(悟りの境地として、内的な意味においても)ただ在る」ということである。
ならば、《見る/観ること》は探求における病だ。
いかにして「見る/観るということ」を手放すのか?
裏を返せば、いかにして「見ない/観ない状態」を作り出せるのか?
そのための具体的な方法はすでに様々な記事においてそれとなく示唆して書いているし、ここで改めて誤解のないように丁寧に説明するには時間がかかりすぎるので、ここでは割愛する。
※2.
ここで言うところの「意識」とは、(個人的に体験されるものではあるが)非個人的な普遍的意識である「純粋意識」のことではなく、個人的意識の主体である「観照意識」のことを指す。
※3.
ここで私は、「(あなたとは異なる何かを示唆する)それ」ではなく、「(意識空間内の特定の場所を示唆する)そこ」という表現をあえて使用している。
なぜなら、
真我実現とは、意識の主体としてのあなたが「真我になること」ではなく、意識の主体としてのあなたが「真我の場所へと帰ること」である
からだ。
しかし、そもそも「真我」とは「意識の主体としてのあなた」のことなのでトートロジー(同義語反復)に陥ってしまう。
真我が真我になる必要はない。
このような観点から言うなら、
「真我実現」とも称される「自己意識の悟り」とは、「あなたが《他の何か(ここでは自己意識)》になろうとする」のではなく、「自己意識としての自己を見失うことのない場所へとあなたが帰ること」によって実現されるものである。
※4.
ならば、自己意識という目的地そのものを探さなくとも、《ヘッドセンターという灯台》を目印にして《あなたの注意という船》を進めていけば《自己意識という目的地》に確実に近づいていくので、間違いなく目的地にたどり着く確率は劇的に高くなる。
ほぼすべての探求者が目的地にたどり着くまでに座礁していることに比べると、この差は圧倒的に大きいものとなる。
もっと理解を深めたい
「ヘッドセンターを生み出す」ために一番効果的なセッション
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