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絶対意識

行為者から観照者へ〜カモなく付加もなし〜

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この記事は2021.10.25、13:07に更新しました。

更新内容:記事に加筆をいたしました。

 

可もなく不可もなし

はい、皆さんこんばんは。

頭皮においては「毛もなくフケもなし」の木幡でございます。

それは「卑下(ひげ)でもなく自慢でもなし」でございます。

髪(かみ)は髭(ひげ)ではございませぬゆえ・・・

 

まぁ、そんなくだらない戯言(ざれごと)はさておき、私は昨日まで続いた特別セッション明けで疲れております。

それゆえ、いつもより更にくだらない記事となることをご容赦願いたい。

「一事が万事」、私のような《くだらない人間がすること》は、何においても《くだらないこと》なのである。

意識の進化レベルは行為の動機の質に反映する

それは法則なのである。

 

それでは、さっそく本題へ・・・

 

その自覚の有無に関わらず、

《主体的自己の本質》という意味でのあなたとは《行為者》でも《思考者》でもなく《観照者》でしかない。

 

ゆえに、もしもあなたが自分のことを《行為者》や《思考者》として認識しているのなら、あなたは「無意識によって作り出された幻想に操られたカモである」ということだ。

しかし、本人の気持ちとは裏腹に、現実においては、「カモは私ではない!」と無条件に信じている者たちこそが〈カモ〉となってしまうのだ。

言うなれば《主人のつもりの奴隷》なのだ。

《奴隷のつもりの奴隷》も苦かろうが、《主人のつもりの奴隷》はその現実との落差が激しいがゆえに、より苦しく感じられるはずであるし、何かが違うという混乱も生じることだろう。

その混乱による苦しみもただならぬ。

〈本命のつもりの愛人〉も然り・・・

だから「あなたは苦しい」のだ。

内なる権力者である無意識の奴隷、そのようなカモとして搾取され続けながら生きることは「苦しいこと」なのだから。

いかなるゲームにおいてであれ、カモは勝てないようにできているのだ。

胴元である無意識が必ず勝利者となり、カモであるあなたは「最後には貧乏くじを引くようにできている」のだ。

カモにとっての「当たりクジとは撒き餌にしか過ぎない」のだ。

それではパチンコ依存症と変わるまい。

ワクワク出かけて、ヘコんで帰る。

おんなじことの繰り返し、いつになったら気がつくのやら・・・

夢、恋愛、仕事・・・

あなたの人生はいかがかな?

 

「自己観察の次元が浅い」からなのだ。

それを「魂の眠り」ともいう。

 

胴元である無意識の動きを観察するのだ。

胴元側の立場で考えよ。

このステージにおいては、それが瞑想であり自己観察だ。

 

あなたは《行為者》や《思考者》のつもりでいる。

悟りとは(知識による知的理解によってではなく、自身の揺るぎなき境地による直接的理解によって、)そのような幻想から醒めることである。

このようなもっとも厄介な幻想から醒めることが真の自由/開放なのである。

物心がついてからの私たちは、(他者からすれば、あなたは《行為者》や《思考者》として見えるため、その結果として)あなたは《行為者》や《思考者》であると洗脳され続け、さらにはそのように振る舞いはじめ、そのことに夢中になり過ぎてしまったために、「実際のところのあなたは《行為者》や《思考者》ではなく《観照者》でしかないこと」を忘れてしまったのである。(義務教育とは行為者や思考者へのものである。)

つまり、《行為者》や《思考者》としてのあなたとは、物心がついてから《観照者》としてのあなたに付加された《洗脳による幻想としての重荷》のようなものなのだ。(あなたはそのような洗脳の被害者であると同時に、今となっては自他に対してそのような洗脳の加害者にもなってしまったのだが・・・)

 

しかし、《自己意識や純粋意識の目覚め》が生じれば、(知識による知的理解によってではなく、自身の揺るぎなき境地によって、)以下のような直接的理解が生じるはずだ。

「私は《行為者》や《思考者》でもあるが、本質的には《観照者》である。」

 

そして、《真の悟り》すなわち《絶対意識の悟り》にまで至れば、(知識による知的理解によってではなく、自身の揺るぎなき境地によって、)以下のような直接的理解が生じるはずだ。

「私とは《行為者》や《思考者》でもなく《観照者》でもない。」

「睡眠時以外は《観照者としての私という機能》は生じているが、私とはその基盤である絶対意識であるがゆえ、《観照者である私》さえもが幻想であったのだ。」

つまり「《観照者としての私》でさえも〈主体的実在〉ではなく〈絶対意識という究極の主体に属する機能〉でしかない」という究極の真実に目覚めるのである。

 

絶対意識の境地においては、《自己意識》や《純粋意識》でさえも、意識のスクリーンに現れては消えていく対象物にしか過ぎない。

 

絶対意識の境地においては、《観照者としての私》である《自己意識》でさえも、主体的実在ではなく《主体を装った現象》にしか過ぎないという真実が明かされる。

 

全ては境地に基づく視点の問題だ。

ゆえに、このような境地においては、「私(観照者)はいない」「私(絶対意識)しかいない」これらは同じことを指すのである。

 

しかし、いくら究極的には自己意識(観照者)ですら幻想であるとはいえ、

《絶対意識》という島にたどり着くには、《自己意識》という船が絶対的に必要なのである。

 

《あなた》は進化をし続ける

行為者から思考者へ。

思考者から観照者(自己意識)へ。

観照者(自己意識)から純粋意識へ。

純粋意識から絶対意識へ。

《私という幻想》の全てが終わる、その時まで・・・

 

それは《私という幻想》についての洗脳を解くだけのことなのかもしれない。

とはいえ、悟りの実現によって無意識の企みがわかってしまったら、これまでに慣れ親しんできたカモ(行為者/思考者)としての人生を楽しめなくなっちゃうのカモね・・・(クワッ、クワッ、クワッ)

 

もっと理解を深めたい

 

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