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身体的アプローチによって真なる自己の目覚めを誘起・維持・再現させるということ

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この記事は20:55に更新しました。

 

現在の私は、仕事の合間の煙草休憩中に本をパラパラっと眺めはするが、そのための時間をとってわざわざ読んだりすることはない。

今日もそのような感じで本を眺めていた。

もちろん、それはスピリチュアル関連の本ではない。

私はスピリチュアル関連の本は、記事に引用する時にしか見る必要がないので眺めることすらしない。

いつものように適当に開いたある個所を眺めていたら、それまで関連のないものだと思っていたいくつかの事柄がつながり、新たな意味を帯び始めてきた。

 

人が真なる自己目覚め状態にある時の身体状態の本質的なところが明確になってきた。

しかも意図的な身体操作が可能な相互作用のあるいくつかの箇所においてのものである。

でなければ、わかったところで意味がない。

なのでそれは、頭部内の感覚に関するものではない。

 

自己の変容に伴う身体感覚の変化があることは、当サイトの記事や『お客様の声』、中でも『がっくりさんの感想』などからもおわかりのことだと思う。

 

真なる自己目覚めに伴って身体感覚が変化するということは間違いない。

 

それは意識状態の変容により、感じ方が変わったことだけに由来するものなのか?

そうではない。

実際に身体の状態も変化していたのである。

 

具体的にどのように身体状態が変化しているのか?

私はそこに気がついた。

 

ならば身体状態をそのように変化させることによって、真なる自己目覚めの状態に導くことも可能ではないのか?

 

もちろん目覚めを生じさせたりその純度を高めていくだけならば、そのような方法は使わずとも、私は直接伝達によってもっと簡単になすことができる。

ならば、なぜそのような身体的アプローチの必要性があるのか?

生徒が日常生活において、その目覚めを途絶えさせないためである。

 

生徒の日常生活においては、聖なるものへの明け渡しという直接的アプローチ(意識的アプローチ)をベースにしながら、その他の時間は身体的アプローチで補っていくということだ。

あの手この手で、神の裏をかくのである。

あらゆる方法でもって、少しでも万全に近い対策を施しておくわけだ。

 

だから聖なるものを感じ取りにくい仕事中や雑事を行っている時などには、そのような身体状態を維持していてもらうということなのだ。

つまり聖なるものへの明け渡しという直接的アプローチが難しい時には、身体的アプローチを行うということである。

または目覚めが途絶えた時に、身体的アプローチによって、生徒自身の力で目覚めの状態を取り戻すことができるようになるかもしれない。

 

私は探究時代の初期から身体についての研究も熱心にしてきたので、このような理解を得ることができたわけであるが・・・

気が向いた時にはジムなどで身体操作法などの指導もやっているくらいだからね。

今までに経験したことのない身体の使い方を教えたり、新たな身体感覚なんかを目覚めさせたりしているわけである。

そっちの指導者にでもなった方が稼ぎは良さそうなのだが・・・

なぜなら多くの方が理解できることでもあるし、需要の数が圧倒的に多いからね・・・

 

それに私は真なる自己目覚め直接伝達ができる教師なので、目覚めた生徒からデータを集めることができる。

さらに私は真なる自己目覚めに精通している教師なので、生徒のみならず、目覚め付近にいる探究者たちは、いずれ私のサイトに行きつくこととなる。

そこで「このような状態なのですが・・・」と相談を受けた時にもデータが集まってくるわけである。

するとそれらのデータベースには身体感覚において、なぜかわからないが共通項がいくつかあるのである。

そして今日、その共通項のいくつかの相互的なつながりが見えてきたので、なぜかわかったというわけであります。

 

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