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想念に由来する苦しみ~言語的なものに対する過剰な反応~

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ある観点からすればね、

あなたを苦しめるのは「他人によるあなたへの心ない言動やふるまい」なんかではなく、それによってわき起こった想念(思考も含む)なんだよ。

 

●「彼は、私をバカにしている!」

●「私に対して、最低限の思いやりすらない!」

みたいなさ・・・

 

それらの考え(想念)は、以下のような「こうあるべきだという前提としての考え想念)」によって支持されている。

●「人をバカにしてはいけない!」

●「私は彼に対して、それなりの敬意をもって接しているのだから、彼は私に対してせめて最低限の思いやりくらいは持って接するべきだ!」などといったような・・・

 

私があえて、感嘆符「」をつけたのは、それらの「論理」や「信念体系」の根底には感情が深く関わっていることをも示している。

 

いずれにせよ、

私たち人間は良くも悪くも、「論理」や「信念体系」などといった「言語的なもの」に対して過剰に反応させられている

 

そのような不快な想念(思考も含む)にあなたが巻き込まれることによって、あなたは感情的にも汚染されてしまう。

つまるところ、あなたは不快な感情に満たされていく。

たとえ、そのような不快な言動をする人物から逃れても、あなたはその記憶によって何度も何度も、その内面において同じような不快な体験を繰り返することとなる。

しかもそれは自然発生的になされるシステムなのだ・・・

記憶 → 想念 → 感情

その感情は別の記憶をまた呼び起こし、

【記憶 → 想念 → 感情】 → 【記憶2 → 想念2 → 感情2】 → 【記憶3 → 想念3 → 感情3】 ・・・ 

延々と続いていく。

たとえあなたがその一連のプロセスに無自覚的であるにしても・・・

 

あなたは不快な相手から逃れることはできても、

従来のあなたのままでは、記憶や想念、感情からは逃れられない。

要するに、

あなたは、あなたから逃れることができない。

ということである。

 

だから人々は、他の何かに夢中になることによって、それらから逃れようとしている。

たとえ無意識的であるにせよ・・・

 

今の日本では、そのためのツールには事欠かない。

テレビ、

インターネット、

恋愛、

美味しい食べ物、

お酒・・・

 

冒頭で述べたような苦しみの経験を幾度となく繰り返しても、無知な人はただただ相手の言動やふるまいだけを正そうとし続けることだろう。

そうやって忌(い)まわしき記憶や想念から目を背け続けることだろう。

それでも、逃げ切ることはできないのだが・・・

 

それなりの知性がある人間ならば、まずはそんな愚かな自分を改善しようとするはずであるのだが・・・

 

記憶 → 想念 → 感情 → 記憶 → 想念 → 感情 ・・・

私たち人間は、そのようなシステムプログラムに逆らうことができない。

しかし、そのようなシステムプログラムの影響を受けない場所へと逃れることは可能である。

 

不必要な苦しみから逃げ切れるのであるならば、時には逃げることもまた大切なことである。

馬鹿の一つ覚えみたいに、「逃げることは良くないこと。」などと言っているようではいけない。

闘争型である7種や8種体癖が多い日本人は特に、「逃げる=間違ったこと」「戦う=正しいこと」といった固定的な単純思考に陥(おちい)りやすい傾向にあるように思う。

それもまた洗脳された状態なのである。

 

○○を相手にしてまでも「戦う」などと言っているのであるから・・・

よっぽど「戦うこと」が好きなのであろう。

戦う相手がいなくなれば、自分自身と戦い始めることだろう。

「自分に負けてはいけない!」とかなんか言っちゃってさ・・・

このスローガンも大好きだよね。

 

本当は、「どの自分と戦うか」が大切なことなんだけどね・・・

突き詰めて言うならば、「戦おうとしている自分そのもの」と戦わなくてはならないのではないのだろうか?

言語的には矛盾してしまうけどね・・・

つまり、戦うという行為および精神活動と自己同一化しないということなんだけど。

閑話休題・・・

不必要な苦しみから逃げ切れるのであるならば、時には逃げることもまた大切なことである。

 

● 誰もが、夏休みの宿題から逃げることはできない。

あなたは「ママの忠告」通り、逃げずに毎日宿題に向き合うべきだ。

逃げ続けるならば、地獄のような終盤が待ち受けていることだろう・・・

 

あなたが暴漢に襲われているとして、もし逃げようとすれば暴行を加えられるかもしれないと感じているとしよう。

逃げようとしても捕まってしまうことが確実ならば、あえて逃げない方が賢明である。

しかし、確実に逃げ切ることができるような局面であるならば、あなたはすかさず逃げるべきである。

 

それは決して「臆病ということ」ではなく、それが「賢明ということ」なのである。

 

そして、

「どのように逃げるか」といったその方法もまた重要なのである。

スピリチュアルな上級者気取りで「目覚め悟りなどといった想念」と戯(たわむ)れることによって「決局は従来のあなたのままで留まり続けること」よりも、このような切実なことに対処していくことの方があなたのためなのではないのだろうか?

一方的に押し付けられたシステムプログラムによって、あなたの人生をこれ以上、台無しにされてもよいのだろうか・・・

 

いずれにせよ、これはあなたの人生である・・・

私はもはや、悟りに関することには興味がない。

私は自身の宿題をやり終えた。

私はきちんと宿題を済ましておいてから、心おきなく遊びたい性分なのである。

 

「私にとって不必要な苦しみ」などは、もううんざりだったから・・・

 

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