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自己意識

ガイダンス

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この記事は2018.9.16、15:30に更新しました。

更新内容:ささやかな修正をしました。

 

ガイダンス?

高次の存在が語りかけて来る?

 

そういったものがあるにはあるんだろうけど、結局、それも想念の一部なんだよ。

つまり低次の次元の現象なんだよ。

 

すなわち、悟りや目覚めとは本質的に関係のないもの。

必要ですらないもの。

私は有害であると断言する。

近寄るべからずだ。

 

禅では、どんなに崇高なものであれ、あらゆる体験、意識の対象物、つまり非自己は、全て魔境として退ける。

崇高に見えるものほど、なお酷い。

なぜなら耽溺してしまうから・・・

エクスタシーのような強い至福感なんかも同じだね。

 

「仏に会えば仏を殺し・・・」

そうやって伝統的に戒められてきたわけですよ。

 

『覚醒の炎―プンジャジの教え』

この本の中にも描かれているが、悟りの手前にありながらも、神のビジョンに執着していたプンジャジを諫(いさ)めるラマナ・マハルシの姿、これこそが真の師というものなのです。

 

どんなものであれ想念はしょせん想念でしかなく、本当に悟った人は、そんなものに興味がないわけですよ。

だから悟ったわけでしょ?

 

悟りを実現したということは、想念の荒波の中を泳いで渡ってきたということでしょ?

つまり想念をはじめとした、あらゆる意識の対象物を超えてきたわけなんだよ。

 

そんなものに興味を持ったり、ガイダンスがどうのこうのと言っているスピリチュアル教師たちというものは、正気なのかね・・・

 

覚者(悟った人)とチャネラー(チャネリングする人)とでは、住んでいる次元が違うんだよ。

 

覚者なら、仮にそのような声が聴こえてきたにしても、秘しておくべきことだ。

それは「神秘的な演出」になってしまう。

ゆえに「歪(ゆが)んだ依存関係」「過剰な依存関係」を生んでしまう。

教師と生徒なら、ある程度の依存関係は前提であるにしても・・・

 

本物の師なら、そのようなことには触れない。

むしろ戒めるはずだ。

ラマナだって、シッディ(超能力)についての対話は、まともに取り合わず切り捨てていたでしょ。

 

ま、探求者にとっては、自分のレベルに見合った師だけが、魅力的に映るわけで・・・

そうやって脇道に逸らされていくのも、それまた成熟のための痛い勉強なのですかね・・・

 

そういう子供だましのようなものに引っかかっているようじゃ、先は見えないね・・・

 

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