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ひじ、外に曲がらず ~「観照者としての私」と「行為者としての私」との関係~

, 自己意識

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この記事は2018.9.16、16:04に更新しました。

更新内容:ささやかな修正をしました。

 

20世紀、禅を西洋に広めることにおいて多大な貢献をされた鈴木大拙(すずき・だいせつ)氏が、

「ひじ、外に曲がらず」という一句を見て、ふっと何かわかったような気がした。

引用:『世界の禅者 ~鈴木大拙の生涯~』秋月龍珉(あきづき・りょうみん)著 / P149 8行目~

というエピソードがある。

 

自己意識としての私(観照者としての私)が目覚めたからといっても、肉体としてのひじというものは依然として内側に曲がるものであり、外側に曲がるようになるわけではない。

 

つまり、

「悟りによって、従来の私(行為者としての私)が超人的な何かに進化するわけではないんだ・・・」

「従来の私(行為者としての私)としての私が超人的な何かに変容する必要なんてないんだ・・・」

そのような理解の象徴なわけですよ。

 

人それぞれが持っている悟りに対しての様々な先入観というものがあるからね。

「ひじ、外に曲がらず」という先のエピソードは、自己意識に目覚めた人間が、そのような幻想に対する囚(とら)われから醒(さ)めた瞬間を象徴しているわけです。

そういう種類の気づきなわけです。

 

目覚めた人間や悟った人間だって、泣いたり笑ったり怒ったり、時には激しく落ち込んだりもする。

 

あのヤキソバンサ・ペヤンガーナンダ氏でさえ、今でも麺類を食べる時は大食いである。

彼といえども、何も食べずに生きられるようになるわけではない。

 

ある観点からすれば、

悟りとは、〈観照者としての私〉と〈行為者としての私〉との距離感や関係性が変わっただけのことに過ぎない。

つまり、

悟りの本質とは、従来の〈行為者としてのあなた〉に対するあなたの観点が正常なものに戻っただけのことに過ぎない。

ということもできる。

 

だからその人の目覚めや悟りというものを、他人が外側から簡単に計り知ることはできないのである。

 

 

ペヤンガーナンダ:「君はさっきから何をやっとるんだね?」

弟子:「はい、先生。私はとても怒りっぽいので、毎日の日課であります怒らないためのトレーニングをやっております。」

ペヤンガーナンダ:「そんなことして効果はあるのかね?」

弟子:「はい先生。5年間毎日続けておりますが、残念ながら今のところ効果はないようであります。」

ペヤンガーナンダ:「君は怒りたくないのかね?」

弟子:「はい! どうすれば怒らないでいられるのでしょうか?」

ペヤンガーナンダ:「その方法なら、わしではなく死体に訊いてみたらどうかね?

不思議なことに、わしはこれまで85年の生涯で、なぜか死体が怒ったところだけは一度も見たことがない・・・

弟子:「死体は怒りませんが、答えてもくれません!」

ペヤンガーナンダ:「それが答えじゃ・・・」

弟子:「・・・」

ペヤンガーナンダ:「人として生きている以上、怒ることが必要な時もある。

怒ることが必要とされている場で怒りの感情がわき起こることは、正しいことでさえある。

一見、不必要に思える怒りの場面においてさえも、そこには自分の知性では計り知れない何か大きな意味が隠されている場合というのもある。

問題は怒りという感情があるかどうかということではなく、怒りという感情と自己とがどのような距離感で向き合っているかということじゃ。

怒りに飲み込まれなければ、それでいい。

そのような怒りは不必要に増幅されることはなく、しかも正しく使われる。

 

※ちなみに先の鈴木大拙氏は、禅(ぜん)の研究家として世界的にその名を知られているわけだが、ある時、間違われて褌(ふんどし)の研究家として紹介されたというエピソードが残っている。

たしかに禅(ぜん)と褌(ふんどし)は異なるものであり、どちらが優れているとか、そういう類(たぐい)のものではないけれど、たとえば私が好きな女の子から「私、最近、禅(ぜん)にとても興味があるの・・・」と言われたら「おっ♡」と思うけど、「私、最近、褌(ふんどし)にとても興味があるの・・・」と言われたら「おおっ!?」と思うことは間違いない・・・

 

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