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意識

初級者瞑想

意識, 瞑想

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この記事は2021.11.14、22:30に更新しました。

更新内容:記事に加筆をいたしました。

 

初級者瞑想

行為者

としての自己

思考者

としての自己

観照者

としての自己

行動するあなた 考えるあなた あなたを観察しているあなた

※.マクロな視点で捉えたならば、思考も自然発生的な行為の一部であるので、思考者も行為者の中に含めてもよいのだが、悟りのプロセスにおいて必須となる《自己の分離》をさらに高度に進めていく上では、このように分けておく方が後に役に立つ。

 

初級者瞑想の1stステージとは自己観察である。

《自己観察》とは《行為者/思考者としての自己》を対象化して観察することである。

ざっくりと言い換えるなら、

《自己観察》とは《無意識的な自己》を意識化することである。

 

初級者瞑想の2ndステージとは自己の分離である。

《自己の分離》とは、自身の意識内において《行為者/思考者としての自己》とそれを観察している《観照者としての自己》とを明確に分離することである。

ざっくりと言い換えるなら、

《自己の分離》とは《無意識的な自己》とそれを意識化している《意識的な自己》とを明確に分離することである。

 

このように《自己の分離》が絶え間なく努力なく自ずとなされているのが《自己意識の目覚め》の意識状態である。

 

さらに言うなら、

《自己の分離》とは、自身の意識内において《行為者/思考者としての自己》とそれを観察している《観照者としての自己》とを明確に分離することである。

ということは、

《自己意識/観照者としてのあなた》とは《行為とも思考とも同一化してないあなた》のことである。

 

すなわち、

初級者瞑想とは《自己意識の目覚め》を目的としたものである。

ということになる。

 

このような観点から見るなら、当然のことながら、マインドフルネスなどを含めた、現代のほぼすべての瞑想は初級者瞑想に相当することになる。

 

そこから、さらなる《自己意識の進化的変容》のための中級瞑想へと進んでいくのである。

 

悟りとは《自我という幻想からの開放》でもある。

しかし裏を返せば、自我という幻想から開放されるということは、それ以前には、その人の主観において《自我(自己意識)による囚われ》が存在しているということを暗示しているのだ。

自我(自己意識)が明晰に目覚めているからこそ、自我による囚われに気づくことができるとも言える。

自我がなければ、自我による囚われもない。

ゆえに、自我のない動物には《自我という幻想による囚われ》もないため、《自我という幻想からの開放》すなわち《悟り》など必要ないのである。

同様に、自我が健全に育ちきっていない大多数の人たちには《自我という幻想による囚われ》は感じられないため、《自我という幻想からの開放》すなわち《悟り》など必要としないのである。

 

だから、以下のようなことになる。

 

魂がある者(自我から開放された人)は幸せである。

自我からの開放(悟り)がすでに実現されているからである。

 

魂がない者(自我が未発達な人)は幸せである。

自我からの開放(悟り)の必要性など生じていないからである。

 

未熟な魂の者(自我の目覚めの段階に留まっている人)だけが不幸になりうる。

自我からの開放(悟り)がいまだ実現されていないからである。

 

とはいえ、自我が明晰に目覚めながらも、自我という幻想の世界を楽しんでいる人や自我としての自分という者を愛している人たちもいるから、彼らにも悟りなどは必要ないんだけどね・・・

 

それはある意味において、人間に宿った魂たちにとって、この地球とは《自我を育むための星》であり《自我としての幻想を楽しむための星》でもあるのだろうからね・・・

 

自我=私

 

「私は私のことが大嫌い!」

「私なんて死んでしまえばいいのに!」

「誰も私のことなんて・・・」

 

良くも悪くも、みんな《私》に夢中なのでちゅ・・・

 

チュッ💋

 

さらに理解を深めたい・・・

 

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