真我と自分~「本当のあなた」と「見せかけのあなた」~
この記事は2020.6.12に掲載し、20:28に更新いたしました。
生徒からの質問
自分は愛されるに値しない”という想いが強くあります。
どうすればよいのでしょうか?
木幡 等 Hitoshi Kowata の言葉による伝達
私は誰か?
>”自分は愛されるに値しない”という想いが強くあります。
>どうすればよいのでしょうか?
(私がイメージする)ラマナ・マハルシならば、こう答えることだろう(笑)
「”自分は愛されるに値しない”という、その想念(想い)を感じているのは誰なのですか?」と・・・
つまり「どうすればよいのでしょうか?」との質問に対して、その論点を自己へとすり替え、「その想念を観ているあなた(真我=観照者※1)は誰なのですか?」と質問で切り返すわけだ。
すると当然のことながら、その対話は以下のような流れになる。
質問者:「私です。(そう答えざるを得ない。)」
空想のラマナ・マハルシ:「ならば、そのままのあなたでいなさい。そうすれば、今後それがあなたにとっての問題となることはないでしょう。」
質問者:「・・・はい・・・(それ以上、何も言えなくなる。)」
以上!・・・みたいなね(笑)
「”自分は愛されるに値しない”という、その想念を観ていたのは誰なのですか?」
つまり、これはラマナ・マハルシの代名詞ともいえる有名なフレーズ、「私は誰か?」の応用編だよね。
この「私は誰か?」の応用編は、どのような質問をされても使うことができる万能薬だ。
質問者:「将来のことが不安で苦しいのです。助けていただけませんか?」
空想のラマナ・マハルシ:「”将来のことが不安でしょうがない”という、そのような心配をして苦しんでいるのは誰なのですか?」
質問者:「私は愛されていません。もっと愛されたいのです。どうすればよいですか?」
空想のラマナ・マハルシ:「”私は愛されていない”という、その哀しい想いを感じているのは誰なのですか?」
などなど・・・(笑)
質問に対する質問(「私は誰か?」の応用)での切り返し。
それは、成熟した探求者に対しては、非自己から自己へと常に向かわせるための手段として。
礼儀知らずの質問者に対しては、すぐに対話を打ち切って、速やかにお引き取りいただくための手段として(笑)※2
つまり、(その応用編をも含めた)「私は誰か?」という問いかけは、どのような質問(カード)に対しても切り返すことのできる万能な切り札(ジョーカー)のようなものなのだ(笑)※3
もっとも、「私は誰か?」という、このような自己についての問いかけこそが自己探求を促(うなが)す基本となるものなのですが、「”私は誰か?”と問いかけられただけでは、意味がわからない」という方もたくさんいらっしゃるかと思いますので、私なりに説明していきましょう。
「本当のあなた」と「見せかけのあなた」
>自分は愛されるに値しない”という想いが強くあります。
>どうすればよいのでしょうか?
まず、あなたは”行為者(パーソナリティー)としてのあなた”や”思考者(エゴ)としてのあなた”のことを”自分(私)”だと思い込んでいる。
しかし、そのような自分(私)とは、水たまりに映ったあなたのようなものだ。
だから「私 = 水たまりに映ったもの = 愛されるに値しない者」という考え(想念)が、もっともらしく思えてくるため現実味を帯びてくる。
そして当然のことながら、行為者や思考者に成り下がってしまったあなたは”もっともらしく思える考え(想念)”には、巻き込まれやすくなる。
だから、”もっともらしく思えるネガティブな考え(想念)”に巻き込まれては苦しむこととなる。
しかし実際の所、あなたの本質は行為者でも思考者でもなく観照者なのだ。
さらに言うなら、(ハートの次元を抜きにした観点からすれば)観照者としてのあなたの眼差(まなざ)しこそが愛の眼差しであるということもできる。
なぜなら観照者としてのあなたは、あるがままを”内的には”すべて受け容れているのだからね。
つまり行為者(パーソナリティー)としてのあなたや思考者(いわゆるエゴ)としてのあなた、すなわち低次の自己のあるがままさえをも受け入れているというわけだ。※4
だから、本当のあなた(観照者)は愛されるに値しないどころか、あなた(観照者)こそが愛の源泉なのだ。
赤ん坊の眼差しを思い起こしてみなさい。
生まれたばかりの赤ん坊は、自身が行為者であると考えることさえもできない。
思考者となることもできやしない。
そのような赤ん坊は(たとえ無自覚的ではあるにせよ)観照者として在ることしかできないのだ。※5
だから赤ん坊の愛の眼差しに、周りの者たちは癒(いや)されていく・・・
もう一度言おう。
あなたは愛の源泉である観照者なのだ。
愛の源泉である本当のあなた(観照者)は、もはや「愛されたい」と願う、愛の対象物ではない。
それゆえ本当のあなた(観照者)とっては、もはや『私は愛されるに値するとかしないとか』といった問題(想念)も生じてこない。
本当のあなた(観照者)においては、”水たまりに映った自分(見せかけの私)に対しての執着”というものが失われているのだ。※6
だから本当のあなた(観照者)においては、そのような内なる問題が生じることは、もはやないのだ。
ただシンプルに外なる問題(人間らしく生活していくための現実的な課題)に対応していく必要があるだけのことなのだ。
しかし”見せかけのあなた(自分=行為者)”にとっては、外なる問題(人間らしく生活していくための現実的な課題)のみならず内なる問題(想念)さえもが山積みなのだ。
そしてその外なる問題(人間らしく生活いくための現実的な課題)と内なる問題(想念)は、もはや解(ほど)くことができない程にまで複雑に絡(から)みあってしまっている。
見せかけのあなた | 本当のあなた |
自分 | 真我 |
行為者および思考者 | 観照者 |
気づきの対象物 | 気づきの主体 |
愛の対象物 | 愛の源泉 |
「愛されたい!」という願望や欲求の奴隷(どれい) | 「愛されたい!」という願望や欲求からの自由と解放 |
山積みとなった”外なる問題”と”内なる問題”による精神的混乱や人間関係におけるこじれ | 外なる課題への適切な現実的対応 |
見せかけのあなたと本当のあなた。
あなたは、どちらのあなたでいたいのですか?
皮肉なことに、あなたが”自分”と名付けている、その”見せかけのあなた(偽のあなた)”とは、(たとえ無意識的であったにせよ)あなたが自らの手で想念のコンクリートを塗(ぬ)り固めてこしらえた牢獄(ろうごく)のようなものなのだ。
ならば、その見せかけのあなた(偽のあなた)という牢獄(ろうごく)を、「私は誰か?」という問いかけによって揺さぶり続けなさい。
その見せかけのあなた(偽のあなた)と自己同一化している眠りの意識状態を、「私は誰か?」という問いかけによって揺さぶり続けなさい。
そして「私は誰か?」の答えである観照者としてのあなたを目覚めさせることによって、その見せかけのあなた(偽のあなた)を一瞬にして破壊しなさい。
私はそのために、観照者としてのあなたをも直接伝達しているのです。
観照者としてのあなたの目覚めを促(うなが)すヘッドセンターをも直接伝達しているのです。
それこそが、私ならではの沈黙による「私は誰か?」という問いかけなのです。
本当はそのような直接伝達こそが、「沈黙による教えこそが最上である」と言い続けていたラマナ・マハルシの奥義であり真骨頂であったのだけれどね・・・
注釈
※1. ラマナ・マハルシが真我についてを”10人の愚かな男たちが自分自身を数えなかったために「9人しかいない」と嘆(なげ)いた話”にたとえて語っていたことからもわかるように、基本的にラマナ・マハルシは観照者のことを真我として語っていたことは明白である。
[参照文献:『あるがままに~ラマナ・マハルシの教え~』デーヴィッド・ゴッドマン編 / 42ページの最後から3行目~45ページの3行目]
それは彼が”観照者こそが究極の真我である”と信じ込んでいたというわけではなく、ほぼ全ての人たちにとっては、観照者としての自己の悟りすらも極めて困難であるということを痛感していたからであろう。
それゆえ、究極の真我としての悟り、すなわち意識の根源においての悟りについては基本的に語っていないように思う。
私はスピリチュアル・フリーク(マニア)でも学者でもないので、スピリチュアル関連の本をたくさん読んできたわけではないが、私の知る限り、このことはプンジャジにしてもオショーにしても基本的なスタンスは変わらないように思える。
なおグルジェフは観照者のことを自己意識と呼び、究極の真我の悟りの意識状態のことを客観意識と呼んで、それらを明確に分けていた。
しかし、その詳細については語られていないように思う。
ニサルガダッタ・マハラジは、究極の真我としての悟りについてを絶対という言葉を使って表現しようとしていた。
しかし、観照者すら目覚めていない人たちに向かって、そのようなことを語って、いったい何になるというのだろうか・・・
私もこれまでは、自身の”言葉による伝達”を厳密かつ詳細なものにするために、あえて分けて教えていたのだが、アジズかぶれの探求者のほぼ全てが、「ステート・オブ・プレゼンス(前部ヘッドセンター)=自己意識=観照者」という誤った教えを真に受け、「自分は自己意識が目覚めている」と勘違いしている痛ましい現状に気づき、警告を発し続けてきたのだが、そのような現状は改善されなかった。
当時のアジズに悪気はなかったのであろうが、結果的に見れば、それはもはや、ある種の洗脳状態である。
当時のアジズの教えを真に受けたままの彼ら(彼女ら)がこのような洗脳状態に陥っているということは、彼ら(彼女ら)は知性の眠りに陥っているということでもあり、それは彼ら(彼女ら)がより深い自己の眠りに陥っていることとなっているというその事実に、彼ら(彼女ら)が気がつくことはないだろう。
そのため、アジズやフーマンの教えについては、このスピリチュアル業界で敵を増やすことになることを覚悟の上で、あえて過激に批判を展開してきた。
観照者には、”意識の連続性”がなければならないのだ。
だが実際のところ、彼ら(彼女ら)の意識は数分単位で途切れていくのが目に見てとれる。
しかし本人には、その自覚がない。
なぜなら、その自覚のために必要な意識そのものが途切れてしまっているのだから・・・
だから、それは”意識の連続性”などではもちろんなく、むしろ”意識の空白の断続性”であるとさえ言える。
それはまるで、意識の空白という暗やみの部屋を、意識というマッチの火で時おり明るくしようとしているようなものだ。
自己という観点においても、それは断片的な意識の継ぎ接ぎ(つぎはぎ)でしかなく、そこに”一人の自己の連続性”などは露(つゆ)ほども感じられない。
依然として彼ら(彼女ら)は、異なる衝動や欲求に引き裂かれて、”気まぐれな複数の自分”に翻弄(ほんろう)されたままなのである。
知性によって思考や感情を制御することすらできていない。
なのに「私は観照者としての自己が目覚めている」と本気で信じ込んでいる。
つまりアジズやフーマン信者である彼ら(彼女ら)は、質(たち)の悪い眠り人、すなわちスピリチュアルな泥酔者なのだ。
それならば、まじめに普通に生活している人たちの方がまだ数千倍もまともだ。
これじゃ、世間の方々から「スピリチュアル=イカレポンチ」と思われてしまうのも無理はない。
これは悲劇なのか喜劇なのか・・・
ステート・オブ・プレゼンスに意識を向ければ、それが常にあるからといって、そのことだけで彼ら(彼女ら)に”意識の連続性”や観照者としての”自己としての意識の連続性”があることの証明にはならないのだ。
彼ら(彼女ら)にとっての意識というものは、その時々の状況における必要性によって、機械的な反応として受動的に呼び覚まされただけのものであり、自ら主体的に維持されているものではないのである。
なぜなら意識の明かりを灯(とも)し続ける自己が存在していないのだから・・・
※2. もっとも私の場合は仕事としてさせていただいているので、もちろんそのようなことは許されないが・・・
※3.「あなたはすでに真我なのです!」という切り札で、どのような質問からも逃げ通しているアドヴァイタ系スピリチュアル教師は本当にたくさんいます(苦笑)
※4. ここを勘違いしないように!
悟った人だって他人の言動を否定することはある。
それは見せかけの私、すなわち行為者の次元のことなのだ。
悟った人が何事につけイエスマン(外的にも全てに肯定する人)になるのだとしたら、それは進化ではなく退化である。
それは覚者ではなく愚者である。
それは人ではなく死体である。
※5. 自らが”観照者であるとの自覚”はなく、”意識の連続性”や”一人の自己の連続性”にも欠けているので、厳密な意味においては観照者であるとは言えないが。
※6. かといって、行為者(パーソナリティー)としての見てくれや言動などを全く気にかけないということではないよ。
もっと理解を深めたい・・・
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