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ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)の教えにおける問題点について

意識

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この記事は2021.4.18、5:26に更新しました。

更新内容:ささやかな推敲をいたしました。

この記事について

【 木幡 等 Hitoshi Kowata 編集部より 

この記事は、木幡 等 Hitoshi Kowata 編集部の専属ライターによって執筆されたものであります。

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)における問題点

この記事は、ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)の教えに基づく探求において、道に迷ってしまった方へのメッセージとなります。

そこで、ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)の教えに基づく探求における問題点についてを中心に書いていきます。

● 存在するすべては「意識」です。

● どんな個人の努力も存在しません。努力する個人がいる限り、悟りはありません。

● あなたはすでにそれなのです。何かをするのではなく、それで在ってください。

上記は、よくありがちなノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)の語り口です。

知識それ自体は、ある部分では有用かもしれません。

それがいわゆる「観照者としてのあなた」すなわち「自己意識としての自己」の目覚めにつながるのなら・・・

ただし、問題点も多いので、そのことについてをここに記しておきます。

それゆえ、少々批判めいたニュアンスの記事になってしまいますが、私なりの同胞愛がゆえにということで、どうかお許しください。

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)問題1:悟りの段階の上で厳密でない

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)系の書籍においては、ただただ「私はいない、あなたもいない。」と、《絶対意識の視点》からのみの記述となっており、ここが悟りの段階の上では飛躍のし過ぎで、厳密ではないように思われます。

ですが、何らかの一瞥体験(いちべつ・たいけん)、「私はいない」と感じられるような体験を経て、《自己意識としての自己》が目覚めたとしても、その状態と、その後の悟りの段階をも経て、絶対的な〈それ〉へとゆだねきっている境地とは、また別の段階の悟りではないかと考えます。

「個人としてのあなた」「行為者としてのあなた」とは

「観照者としてのあなた」「自己意識としてのあなた」とは

「絶対意識の悟りにおける視点」とは

「悟った人の境地からの視点」とは

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)問題2:悟りの勘違いの温床

いくら本を読み漁ってその内容を理解したつもりで、それを他人に上手に語れるようになっても、それはただの知的理解に過ぎません。

知識を積み重ねて雄弁になっても、 それはどこまでいっても知識に過ぎないのです。

ですので、書籍は最低限で良いと思います。

もちろん、これは他の様々な分野の書籍でも同じではあります。

ただし、ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)の場合は特に注意が必要です

その理由は「個人や自由意思は幻想である」と言い切ってしまうためです。

これは《絶対意識の悟り》の境地にある人からすれば間違いではないでしょうが、しかし、けっして、頭だけ、思考だけでは理解できない領域です。

(その詳細は一冊書けるくらい膨大になるので省きますが、ここでは「そもそも人間の思考では相対的なことしか理解できない」とだけ書いておきます。

それから、この記事をぜひ最後まで読んでいただき、後で紹介する《思考実験》をもお試しになられてみてください。)

にもかかわらず、悟っていない読者の大部分は、《絶対意識の悟りの視点》すなわち「個人や自由意思は幻想であること」を呪文のように思考(知識の理解)で繰り返すことだけによって、なんとか決着をつけようとしています。

たとえば、これが瞑想などによって、〈極めて詳細かつ具体的に定められた、ある特定の境地〉へと至ることを奨めているようなものであれば、それが読者にとっても、知的な理解だけでは何にもならないということが直観的に理解しやすいのです。

しかし、ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)系の書籍では、観照者の視点への誘(いざな)いはあるものの、基本的には、思考だけでは解決することが不可能なことを言葉で語り過ぎます。

しかも、その語り口が丁寧であればあるほど、ただの知的な戯(たわむ)れになっています。

そして、その視点はといえば、当サイト『言葉による伝達』に掲載されている『ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)』の中にも書かれていますが、たとえるなら、悲しい小説を読んで涙しているあなたに向かって、「はい残念、主人公も死んだ恋人もいません。それは紙とインクでした!」と言い放つような、文字通り上から目線の無機質なもの他人事のような無慈悲な眼差しにしか過ぎません。

つまるところ、

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)には《悟りへ至るための方法論》がないのです。

推奨されていることといえば、今、 この瞬間に「私」を捨てて、完全に委(ゆだ)ねることだけです。

しかし、それは〈最も高次の悟りである《絶対意識の悟り》へと至るためのアプローチ〉としては間違いではありませんが、皮肉なことに「(本当の意味で)完全にそれができるのは、高いレベルで悟った人だけである」という、鶏が先か卵が先かに似た堂々巡りです。

それゆえ、「すべては意識であり、行為者としての私はいない、自由意思はない、etc・・・」と、あなたがそれを知識として理解したところで何も起きないのです。

しかし、何も起きないところで、〈個人としての感覚〉や〈何かを求める努力や期待〉が残っている以上、その時点で〈それ〉ではなくなってしまうらしいので(笑)、そしたら、ふわっとしたまま、個人がいないようなふりをして、開き直るしかないのですよね。

なので、知識としての理解だけで、

「わかったぞ。」

「私はすでに〈それ〉なんだ!」

と・・・

しかし、これが問題になるのです。

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)問題3:勘違い教師たちの増殖

このように、ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)とは、それなりの知的理解をして、その語り口を真似できれば、簡単に教師としてやっていけてしまう教えです。

それゆえ、自身の悟りにおいての《本物と偽物の区別》がつきにくい

そうなると、勘違い教師たちが増えます

〈商売のために悟りを偽造する輩〉もいますが、 圧倒的に多いのが〈悟ったと本気で勘違いして、他人に教え始めてしまう善意の人々〉です。

〈悟りをビジネスと割り切って境地を偽造する輩〉はもちろん問題ですが、〈悟ったと勘違いした善意の人々〉もまた、本人が大真面目で純粋である分、熱心なので、余計に周囲への影響が大きいのです。

これにより、事態はより面倒なことになります。

聖書にある《盲人を手引する盲人》、すなわち、目の見えない人が目の見えない人を導こうとしているような状態ですね。

そのうえ、善意の彼ら彼女らの方が、何かにつけ「個人は幻想だ!」と繰り返すような〈ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)原理主義〉に陥りやすい傾向があるようにも思います。

それに加えて、知性が未熟な探求者にとっては、悟りの指導者を見つける時においても《本物と偽物の区別》がつきにくいという問題まで生じてきます。

このようにして、そんな善意の人々の気持ちとは裏腹に、《悟りの偽造》のネズミ講のようなものが拡大し続けることになってしまうのです。

「お国のためだ!」と言わんばかりに、疑いなきまま、紙幣の偽造工場でお金を刷り続けている善意の人々は、まさかそれが偽札であるなどとは夢にも思っていないのでしょうが・・・

なので、このように我々が《自己意識としての自己》《純粋意識としての自己》《絶対意識としての自己》という悟りの段階についてを説明したところで、「私なんて、いないのだ!」と怒る方もいることでしょう。

〈形骸化した既存宗教へのアンチテーゼ〉としてのノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)

形骸化・・・誕生・成立したときの意義が失われて、中身のない形だけのものになってしまうこと。

アンチテーゼ・・・ある理論・主張を否定するために提出される反対の理論・主張のこと。

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)は〈悟りにおける神秘性を排した普通さ〉を売りにしています。

それは海外での当初、〈既存の伝統における形骸化した教えへの強いアンチテーゼ〉だったはずです。

「悟りとは、宗教だけ属するものでないのだ!」と。

「霊的進化は、宗教性や隔絶された場所のみで培われるものではなく、もっと一般生活に根差した形でも可能なのだ!」と。

その運動自体は、悟りを文化という側面で捉えたときに、その立ち位置としては意味のあるものでした。

彼らは〈ひとつの悟りの表現の方法論〉として、そのように語ったとも言えるからです。

トニー・パーソンズはそんな感じがします。

彼は、元々がキリスト教徒で、その後に、グルジェフ〜ウスペンスキーのワークに接し、またOSHOのサニヤシン(弟子)でもありました。

なので、トニー・パーソンズ本人は、いろんなアプローチでの探求や瞑想をやってきている

つまり、たとえるなら、彼自身は、ある程度の数学をこなすための算数くらいは習得していたと思われます。

その上で、「個人も探求も努力も幻想だ」という〈新しい悟りの切り口の表現者〉としてやっていたように思われます。

自らも形骸化せざるを得なかったノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)

しかし、今度は、その表面(悪い意味でのファッション性)のみが伝播して形骸化していきます。

修業も自己鍛錬も否定し、「悟りって、こんなに当たり前のことなんですよ!」みたいなノリです。

ごくごく普通の人であること、飾らないことこそが本物である証拠かのような。

平凡でサエない普通のおっさんであることが、逆に何とも本物っぽく映る、という変な状態になっています。

〈算数さえも知らないまま〉に・・・

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)の流行の根底〜最大の弊害とは〜

私は思うのですが、特に日本での、ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)の流行の根底は、とどのつまり、個人としての《心の癒し》だったのではないでしょうか?

「どんな個人も、自由意思も努力も幻想である」とズバリ言い切ってもらえること。

「〈それ〉がもし起こるなら、起こるままにせよ」と。

それは〈探求に行き詰まっている人〉や〈辛い現実と格闘している悩み深い人〉たちにとっては〈ある種の慰(なぐさ)め〉であり〈究極の肯定〉です。

自分という小さな視点を投げ捨てることによる〈癒し〉です。

読者の霊的な変容の有無はさておき、それはそれで〈大切なこと〉ではあります。

ラメッシ・バルセカールによる弊害

ただ、同じように〈弊害〉もあるでしょう。

以下は、ラメッシ・バルセカール著 ブレイン・バルドー編 高木悠鼓訳 「誰が構うもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」からの引用です。

ラメッシは、ニサルガダッタ・マハラジの通訳をやっていた人なので、厳密にはノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)というカテゴリーではないですが、その芸風(というのは失礼でしょうが)としては〈ネオ・アドヴァイタと同じ匂い〉を感じます。

(※. 太字は原文からそのまま引用。原文に記された強調点はアンダーラインで代用。)

自分自身を改善しなければならない、変えなければならない、変容しなければならない―それがすべての問題ではありませんか?

なぜ自分を変容すべきなのでしょうか?

なぜ自分をありのままに受け容れないのですか?

あなたが求めている心の平和は、あなたがそれを求めているのをやめて、ものごとを起こるがままにするときにのみ生じるのです。

このことを理解してください!

これが理解のまさに基礎です。―「誰も」、真我を覚醒した人ではありません。

私の考えでは、これを理解することが非常に重要です。

どんな人間も真我を覚醒することはできません。

事実、「私」は真我を覚醒したという思い込みがあるかぎり、真我の覚醒はまだ起こっていないのです。

おわかりですか?

「誰がかまうもんか?! ラメッシ・バルセカールのユニークな教え」P278

「事実、『私』は真我を覚醒したという思い込みがあるかぎり、真我の覚醒はまだ起こっていないのです。」

この発言だけにおいても、「ならば、真我の覚醒の指導をしているお前は何様なんだ?!」という〈疑問〉が生じてくるのは、私だけではないでしょう。

まさに「誰がかまうもんか!」と言わんばかりに・・・

とはいえ、「真我を覚醒した」とほのめかしてはいらっしゃるラメッシ大王様(苦笑)から、「おわかりですか?」とまで自信たっぷりにドヤ顔で問われたら、そのまま受け入れざるを得ない人もいることでしょう。

しかし、

【 自分を成長させようとしている 】

 ありのままを受け容れてない

平和でない

【 自分を成長させようとはしていない 】

ありのままを受け容れている

平和

こんな単純な図式で、「ありのままのキミでいい!」「そのままを受け容れよう!」みたいなのは〈J-POPの歌詞〉とか〈その辺のベンチャーIT社長の書いた自己啓発本〉みたいなノリです。

なぜ、〈自分を変容(または成長)すべきと思うこと〉が、〈ありのままを受け容れていない〉と乱暴な図式で直結し、断言されてしまうのでしょう。

まともな頭があれば、「自分を変容すべきだと思っていることでさえも、ありのままに受け容れることはできる」と考えるのではないでしょうか?

(※このあたりの相互の誤解は、ひとえに〈悟りや自己を階層化して捉えていない〉ために起こります。このあたりは、いずれ書きます。)

特にこんな一般に流布する、どんな人がどんな状態で読むかも分からない書籍で、このようなことを言ってしまうのは、ラメッシだけの責任ではないですけど、〈悟りの指導者〉である以前に〈人間〉としても少し問題あるなと思います。

(本記事の趣旨とは関係がないので詳細は割愛しますが、ラメッシ・バルセカールの人間性に対する様々な批判は、海外のサイトでも取り上げられているようです。)

また、真我について。

「私」が真我を覚醒したい

真我とは個人に属するものではなく、

「私」が存在するかぎり、真我は覚醒しない。

つまり、「真我の覚醒(悟り)のために〈私〉がなすべきことは何もない」ということですね。

暗に「無為に至れ」ということが示されていますが、やはり、ここでも知的な理解以外の〈具体的な方法論〉は示されていません。

ところで、これはラメッシではないですが、私は日本で、以下のコントのような問答を見たことがあります。

(実際には用語を、悟りとか覚醒とか目覚めとか使い分けてはいましたが要約するとおおむね以下のような感じです。)

生徒: 「先生、私は悟りたいと思っています。」

先生: 「悟るには、『私』が消えなくてはなりません。やり方なんてありません。行為者は幻想です。何かをする行為者がいる限りは、云々・・・」

生徒: 「先生、どうしても『私』が消えません。どうしたら消えますか?」

先生: 「『私』が消えるには、結局のところ、悟るしかないのです。」

生徒: 「ではどうしたら、悟れますか?」

先生: 「悟るには、『私』が消えなくてはなりません。やり方なんてありません。行為者は幻想です。何かをする行為者がいる限りは、云々・・・」

生徒: 「先生、どうしても『私』が消えません。どうしたら消えますか?」

先生: 「『私』が消えるには、結局のところ、悟るしかないのです。」

〜 以下、永遠にループ 〜

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)問題:まとめ

曖昧なままで、個人や悟りへの努力は〈幻想〉とされ、ただ、ふわっと癒される。

しかし、〈私が消えたわけではない〉、つまり〈従来の私そのものは本質的には何も変わっていない〉ので、 自分は「高尚な」教えを理解しているという優越感だけが肥大していく。

そしてひたすら、〈それ〉を待つしかない。

しかし待つことすら、「私」が存在し、〈それ〉ではないという証となるだろう。

なので、ノンデュアリティ口調を真似て、少しわかったふりをするしかない。

思考実験〜〈知識〉と〈境地〉との違い〜

小説の中の主人公(あなた)が「私たちって、実は紙とインクなんですよね。」と言ったところで、それはただのセリフであり、何も変容は起きない。

以下を《思考実験》として、考えてみてください。

〈小説の中の主人公、つまり、紙とインクでできた平面でのあなた〉が〈その本を手に取る、三次元の立体的なあなた〉を想像できるのだろうか?

悟りとは、知識での理解ではないのです。

かりにも悟りの指導者であるならば、無為に至るための最低限の有為(方法論)くらいは示さなくてはならないと思います。

〈小説の中にいる主人公(あなた)〉が、それを知識として理解した上で、〈その本を手に取る、三次元の立体的なあなた〉へと変容(成長)できるように・・・

(もちろん、これは比喩ですが。)

ここで求められることは単純です。

頭を少し使って、自分がすでに〈それ〉なのかどうかを思惟(物事の根本を、心で深く考えること)すること。

そして、自分を偽らず、正直で誠実であることです。

ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)のメッセージは毒になる場合があります。

特に、自己意識が目覚める以前の《混沌としての自己》にとっては、混沌が混沌のままに肥大していくだけなので、〈眠り〉が深くなることはあっても〈目覚め〉が起きることはありません。

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