断片的な走り書き15
この記事は2020.2.14、2:53に更新いたしました。
更新内容:記事を推敲いたしました。
断片的な走り書き15
~あなたの内なる平安において~
相対的な無心
(自己意識が目覚めていない人にとっては、)
「『あなたの心』が静かであるか否(いな)か・・・」
それだけが唯一の問題です。
~あなたの内なる平安において~
絶対的な無心
究極的には、
(「あなたの心」がどれだけざわついていようとも、)
「『気づきとしてのあなたそのもの』が静かであるか否(いな)か・・・」
それだけが唯一の問題です。
~真の意志に由来する内的な自由~
(あなたが「真の意志」を随意(ずいい)に行使できるほどの強さを持ち、
なおかつ「真の意志」を持ち得るだけの意識状態を有しているのなら、)
「あなたの心」がどれだけざわついていようとも、
自らの意志によって「あなた」はいつでも、そこから自由に離れることができる。
その逆もまた真なり。
端的に申すと、
私は「(肉体精神としての)あなたの思考や感情」の味方ではない。
「(魂や肉体精神としての)私」は「(魂としての)あなた」の味方なのだ。
高次の観点からすれば、
思考や感情など、「(魂としての)あなた」とは本質的に何の関係もない。
~本物の師とは~
端的に申すと、
本物の師とは「弟子の思考や感情」の味方ではない。
「師」とは一貫して「弟子における魂」の味方なのだ。
そして、魂は内なる静けさや安らぎを愛し、思考や感情は内なる興奮や熱狂を呼び起こす。
「師」は一貫して「弟子における魂」の味方でありながらも、人間でもある師にもまた思考や感情はあるため、時に弟子は師の真意が汲(く)み取れず感情的な反応をし、さらにそのことには気がついていない。
師はそのことに気づいていながらも、気づいていないふりをする。
~「ニセモノの悟り」の時代~
「弟子の悟り」のためでありながらも、弟子の無意識的な言動によって、師は弟子よりも多くの忍耐を要求されている。
本物の師たちが表舞台から消えていったのも仕方なしか・・・
つまるところ、真のスピリチュアルの世界において、現在のようなニセモノの指導者たちがはびこる、ニセモノの悟りの時代を作ったのは探求者自身である。
啐啄同時(そったくどうじ)
ここぞというタイミングにおいて、親鳥が卵のカラの外から突(つつ)き、同時にヒナが卵のカラの中から突(つつ)くこと。
~啐啄同時(そったくどうじ)~
ヒナは自分の力だけでは、自身を閉じ込めている卵のカラを割ることはできない。
しかし親鳥はヒナの唯一の味方だ。
それゆえ、本物の師が「飛べ!(カラをつつけ)」と言ったなら、あなたは想念(カラの外の世界の不安)を見る前に飛べ。
カラの外の世界で飛ぶことのできないイメージ(想念)が生じても飛んだ方が良い。
その時は、飛ぶべきだ。
その時が、飛ぶ時だ。
その機を逃すと、これまでもそうであったように、これから先も、飛ぶことことはおろか、もう飛ぼうとすることさえできないのだから・・・
もっと理解を深めたい・・・
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