断片的な走り書き4
この記事は2018.10.29.19:55に更新しました。
更新内容:1段目と二段目に新たな文章を挿入しました。
真なる自己としての朝がやってきた。
起きなさい。
あなたが解き放たれる時だ。
それが魂としてのあなたの衣装だ。
やっぱり、本当に悟った人というのは、その教えにおいて、その人ならではの独特な表現をするよね。
他人からの借り物ではない、自分にしかできない表現で伝えようとするからさ。
あなたが想念に対しての愛着を失えば、それだけでも悟りは起こり得る。
しかしそうでないなら、たとえ目覚めが起きたとしても想念の不在により退屈となって、たちまちあなたはこの馴染みの想念の世界に戻ってくることになるだろう。
この世は、薬物中毒患者顔負けの、想念中毒者たちの巨大な収容病棟なのである。
主旋律であるメロディー(想念)ばかりを追いかけるのではなく、伴奏であるハーモニー(純粋意識:聖なるもの)にも耳を傾けてみなさい。
その音楽の全体から一部だけを切り取ってはならない。
あなたという存在認識においても同様である。
真なる自己の目覚めの過程においては、高次の瞑想体験としてのいわゆるサマーディさえも手放さなければならない。
なぜならそれもまた、一つの現象、つまり儚(はかな)い夢にしか過ぎないのだから・・
日本人には、読経やマントラなどを用いた言語的なアプローチでは、一時的な思考停止状態になることはできても、真なる自己の目覚めは起きないだろうな。
もっとも毎日、朝から晩まで何年もやっていれば、その本来の意図するところとは別の要因で、目覚めが起きることはあり得るだろうが・・・
聖なる次元とは、通常わたしたちが暮らしている肉体/精神の次元に先立つ次元である。
つまり知性の働きに先立って存在している次元であるがゆえに、聖なる次元における原理や法則を知性によって直接的に把握することなどできるはずがない。
真なる自己として聖なる次元で永らく暮らしていることによって、「どうやらここは、このような原理や法則の世界なんだな・・・」ということを学んでいくだけのことである。
才能には人一倍恵まれているが、一流になれなかったアスリートというものは、肉体中枢の働きは優れているが、自己意識が明晰でなかったために、その才能を伸ばしてやることができなかった人たちなんだろうね。
つまり自己意識としての当人が、知性を通じて、己の肉体の働きが最善のパフォーマンスを生み出すよう導いてあげることができなかったわけである。
宝箱を持ち続けていても、箱を開けなければ意味がないじゃないか・・・
それはあなたの意志なのか?
つまりただの執着なのか?
「私」がネガティブな想念から、あなたを守ってあげる。
そしてこの「私」とは、聖なるものとの融合により「真なる自己として生まれ変わったあなた」と本質的には同じものなんだよ・・・
「私」も「あなた」も、聖なるもの、それと一つなんだから・・・
理想や信念や義務感などから解放された真に自由な意識状態から生じる愛や慈悲でなければ、相手のハート(意識)には浸透しないよね。
広い部屋が欲しいと言うから、私がその部屋の鍵を渡すと「この部屋には何もない!」と言って、すぐにその鍵を投げ捨ててしまう哀しき探究者たち・・・
物は無いが、あなたがいるではないか!
目の前には、あるがままの世界が広がっているではないか!
物ばかりが沢山あって、肝心なあなたがいない部屋に戻りたいのかい?
想念越しの歪(ゆが)んだ世界に帰りたいのかい?
悟りという名の豪華絢爛(ごうかけんらん)なスウィートルームがあるというわけではありません。
ある観点からすれば、悟りとは、どのような部屋にいようとも変わらない名もなき無垢な空間のようなあなたとしてただ在ることなのであります。
それは認識されていない。
あなたにとっては、いまだに意識化されていない。
だからといって、それが存在していないというわけではない。
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