「喝アアアーッ!!!」~魂の気迫~

自己意識真なる自己どちらに目覚めていようがなかろうが、あなたが依然として想念と同一化し続けているならば、あなたがしっかりしていないということだよ。

つまり自己意識としてのあなたが主人公ではないということだよ。

依然として想念の奴隷であるということだよ。

 

結局のところそれは、自己意識としてのあなたが明晰に目覚めてはいないということになっちゃうんじゃないのかな。

もしも自己意識としてのあなたが明晰に目覚めているのなら、想念ばかりを飲み続けているアルコール中毒者のような人生を送ることなんて、まっぴらなはずなんだよ。

二日酔いという想念まみれのあの苦しみも、忘れることはないはずなんだ。

想念の奴隷であり続けることなんて、耐えられないはずなんだよ。

それが正気というものだよ。

 

己のカルマのせいだとかなんて、言い訳だよ。

それこそカルマという観念(想念)に巻き込まれているということだよ。

 

あなたが、しっかりしなきゃいけないんだ。

あなたさえしっかりしていれば、カルマという幻想なんぞに囚(とら)われることもない。

カルマという、そのような概念すら不要となる。

 

僕がここ言っている自己意識の明晰さとは、「どこどこに留意しなさい」などといったスピリチュアル・ワークというオママゴトでどうこうできるようなレベルの話ではないんだよ。

魂の叫び魂からの気合い魂による気迫のようなものなんだ。

それは魂と通じているということでしょ。

「僕が必ず助けてあげるからね。」

「何としてでも守ってあげるからね。」

そのように自分自身に対しての、そういった揺るぎなき想いというものが込み上げてくるはずなんだ。

それが、すでに慈悲や大悲の目覚めなんだよ。

もちろんハートも含んでいる。

 

あなたが目の前にいるわけじゃないから、このように面倒くさい想いをしながら、こうして長ったらしく書いているわけだけど・・・

もしもあなたが私の目の前にいるのなら、臨済(りんざい)のように「喝アアアーッ!!!」の一喝で済むようなものですよ。

 

私は、そういう次元での自己意識について言っているのですよ。

起きているのなら、ちゃんと起きろと言っているわけですよ。

身体は起きているが、自己意識としてのあなたがぼんやりしているというのではいけないよ。

エネルギー的に、どうこうということではなくてね。

 

自己意識そのものとしてのあなたが、しっかりと目をかっぴらいていなければならない。

外からの見た目はどうでもいいから、あなたの意識内部においてね。

 

「やいやい、やいやい想念ども! 俺がこの家(心)の主(あるじ)の木幡だ! もうお前らの好き勝手にはさせんぞ! どれだけいようと雑魚(ざこ)は雑魚だ。 かかってきやがれ、この野郎! 相手を間違えるなよ。 お前らお得意の脅(おど)しも媚(こ)びも買収も、このわしには通用せんぞよ!

 

目覚めを妨害する悪魔でさえも恐れをなして逃げ出してしまうくらいの、それくらいの迫力を持ってなくちゃならん。

それが男における探究の心構えというものだ。

さらに言うなら、魂としてのあなたには性別なんてない。

 

家に強盗が押し入ってきたら、女性だって、わが身やわが子を守るために包丁持って戦いもするわけでしょ。

 

あなたは命を懸(か)けて、侵入者(想念)から神聖なる我が家(心)を守るのだ。

それが家の主(あるじ)の義務というものだ。

それが、あなたを守るということだ。

つまり、あなたを愛するということだ。

 

そのような魂の気迫が抜けているから、何回目覚めが生じても結局は王座を想念に明け渡すことになってしまうわけでしょ。

言い換えるなら、魂の叫びが聞こえるようになっているあなた(自己意識)は、真なる自己という意味における魂というものを、もうすでに自覚し始めているわけですよ。

第三の目覚醒状態聖なるものとの接触状態が生じたといったところで、肝心なあなたがシャンとせんことにゃ。

 

大阪の四天王寺などといった寺院に行けば、中門には左右に大きな仁王像が立ちはだかっているでしょ。

あれは中国のカンフーのポーズであると、四天王寺の仁王像をお造りになられた仏師、故・松久朋琳(まつひさ・ほうりん)さんが仰られていたのを読んだことがある。

素敵な人だ。

 

探究においても、寺院においても、その入り口は魂の気迫なんだ。

そしてその奥には、穏やかな至福の表情をした仏の姿がある。

 

私が慈悲ゆえに時には仁王の顔を見せて、そこまで本気を出して教えると、弟子と名乗る人間ですら弱音をあげてついてくることができなかったわけであるから、今のようなご時世では仏の顔しか見せていないわけだが。

それでも私の言葉や文章の底辺には、そのような気迫のこもった「喝アアアーッ!!!」が流れているのである。

だから私の文章を読んだ後には、時にガツンとやられたような感じになるわけでしょ。

 

私が血気盛んな20代の頃は、善良な市民に害を及ぼすヤクザ上がりのチンピラ退治ばかりをしていた時期がある。

私が生意気だということで、私1人に現役のヤクザ20人で囲まれたことがあったので、組が解散したところを見計らって、私はそれ以来、夜の街の治安を取り戻そうと、はた迷惑なヤクザ上がりのチンピラ退治に励み続けていたわけである(笑)

この辺の執念深さは、いかにも9種的である(笑)

非道なことをする人間に対しても徹底的にやっていたのである。

エネルギーも有り余っていたのだ。

仲間からも「怒った時の、あんたは鬼だ。」と言われていた(笑)

 

だから週末の夜になると頻繁に「ガラの悪い奴らに絡(から)まれているから、助けに来てくれ!」と電話があったりしたものだから、1人で5人くらいの相手をしたものだが、それなんかでも気迫だけで場を制してしまうわけなんだよ。

物理的に5人相手に私1人で勝てるわけないからね(笑)

私は武術の達人ではないし、相手を金縛りにしたりするといったようなサイキックな能力があるわけでもないのでね(笑)

だから相手が向かってきたら、もうアウトでしょ?

なので気迫だけで、相手が向かってこれないようにしているわけですよ。

 

背中に入れ墨を入れた連中の中に、僕みたいな人間がポツンといるわけだから、異彩を放っているわけだよ。

線は細いが、当時はものすごく鍛えられた身体をしていたし、あの目力でしょ。

だから相手は、これまで見てきた怖さとは次元の違う未知の怖さを感じていたのだろうね。

未知のものというのが、もっとも怖いからね。

しょせん、相手は想念に支配されているゾンビだからさ。

それゆえの怖さとも隣り合わせではあるが・・・

 

そして完全に場を制したら、立ち去る時は後ろを絶対に振り返らない。

「後ろから、襲(おそ)いかかられたらどうしよう・・・」なんて振り返ったら最後。

「こいつ、ビビってやがる。今がチャンスだ!」ということで、すぐにやられてしまう。

 

下の四年前、40歳の時の写真には、その頃の荒々しい感じがまだ残っているよね。

仏ではなく、まぎれもない仁王の顔だ(笑)

下の写真では別に気迫を込めているわけでもないし、力んでいるわけではない当時のニュートラルな感じなんだけれど。

目から「喝アアアーッ!!!」と発しているようだよね(笑)

穏やかな目覚めが始まりつつも、まだ気迫だけで挑んでいる探究者の顔だ。

仏ではなく、目覚めの入り口である中門の仁王像のようだ。

 

そのような様々な経験などからも、私は胆力が鍛えられている。

というか、もともと腹が据(す)わっていたから、そのような危険なお遊びもできたわけだが。

そして今では変容も起きている。

だから血迷った弟子やお客さんが狼の本性を現してキャンキャン吠えたところで、「いい子でちゅね。マンマが食べたいのでちゅか? よちよち。」とやり過ごすこともできる。

目の前をハエがよぎった程度のことである。

 

気迫の大切さは、探究の過程においても同じなんだよ。

仁王像のような気迫をもってすれば、どれだけたくさんの想念に囲まれたところで「喝アアアーッ!!!」ですよ。

一たび目覚めが生じたならば、想念が現れようとも関係ない。

あなたは聖なるものだけに留意していれば、それで良い。

しかし、どのような想念が現れようとも、決して後ろを振り返ってはいけない。

振り返ったら、一気に畳(たた)みかけられて袋叩きにされちまうよ。

 

そういう意味では、

目覚めの過程というのは修羅場(しゅらば)なんだよ。

やるかやられるかなんだよ。

あなたの心という領土の壮絶な奪い合いなんだ。

王様の椅子は一つしかないんだから。

あなたが主人となるか、想念が主人となるか、そのどちらかしかないんだ。

そして負けた方が奴隷だよ。

そして奴隷になれば、あなたの顔や目や言動に奴隷としての印を刻印されてしまう。

 

そういう気迫というものを、探究の初期の内に身につけておく方がいい。

それは実人生で身につけることもできる。

 

そういう修羅場から得た経験なども私の人間としての一部になっているわけですよ。

聖なる次元のことだけしか知らない、ひ弱なマスター、祈りや瞑想三昧のスピリチュアル・オタクになってしまうと、人間としての部分に対する理解というものが乏(とぼ)しくなってしまうでしょ。

キリストだって、悟った後にも神殿で激怒して大暴れしていたり、そのようなとても人間らしい姿とういうものがあるんだよね。

 

人は悟るまでは、本当の意味で人生を楽しむことはできないよ。

それまでは上手くいけばいくほど、また新たな想念に妨害されてしまうからね。

自力では、それらへの執着を手放すことができないわけだから。

 

真なる自己目覚めが完結して悟りへと至るまでは、想念の群れの中に一人で乗り込んでいく修羅(戦い)の道なのである。

そのような避けることのできない絶対に負けちゃいけない戦いというものがあるんだよ。

それが済むまでは仏の顔でなど、いれるはずがないのである。

どこかの宗教指導者のように仏のポーズをするのは簡単だろうが。

 

そのような想念との壮絶な戦いを終え、修羅の道から卒業した後の私は、仁王の顔ではなくなりつつある。

私が家(心)の主(あるじ)となり、我が家(心)は永遠(とわ)の平和を取り戻したからである。

友達の経営するバーで、開店時から閉店時まで7時間に渡って飲み続けていた後に撮ってもらった写真だから、顔が赤いけどね(笑)

それだけ飲み続けていても想念にやられている人間の顔や目ではないことがわかるでしょ?

だって僕は僕の主人だからね(笑)

僕は想念じゃないからさ。

お酒を飲もうと何をしていようと僕は僕だからさ・・・

 

あなたさえしっかりしていれば、道は自ずと開けてくるものだよ。

 

先日、最近知り合った友人が言っていた。

「この間、○○さんに会いましたよ。○○さんに『木幡さんと知り合いなんですか?』って訊いたら、『あぁ知ってるよ。昔、絡(から)まれている時に助けてもらったことがある。あの人、ヤクザなんでしょ?』って言ってましたよ(笑)」

彼にとって相当なインパクトがあったのは事実であろうが、私が助けてあげた人間から、ずっと極道だと思われ続けていたとは何とも困ったもんである。

たしかにその時は、その場に入場するなり相手の何人かをつかまえて引きずり出してたからね(笑)

 

仏の木幡と仁王の木幡。

 

 

巷では色んな木幡が一人歩きしているようである・・・

 

喝アアアーッ

 

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