瞑想における型と技
この記事は2021.07.18、18:31に更新しました。
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《死んだ型》と《生きた技》
ゴルフのスイングにおいては静止した玉を自分のタイミングで打てばいいわけだが、野球のスイングにおいてはそうはいかない。
なぜなら、投手の投げた球は140キロくらいのスピードで動いているわけだし、変化球においては突然軌道が変化したりもする。
もちろん、投手はあなたの苦手なコースを攻めてくるし、投げるのも(最終的には)投手のタイミングであり、さらに投手はスピードの緩急などにおいてもあなたのタイミングを崩そうとしてくる。
なので、いくら練習では理想的なフォームで素振りができていたにしても、実際の試合においては投げ込まれた球のスピードやコースによって、フォームを修正しなければならないので、その《臨機応変な修正技術の高さ》というものが極めて重要となってくる。
つまり、ゴルフと比べると、野球というのは〈投手対打者の格闘技〉のようなものである。
そして、格闘技においては《練習での死んだ型》と《本番での生きた動き》とは別物とも言えるほど異なるものである。
《静的な型》と《動的な技》の違いと言っても良いかもしれない。
ゆえに、
人が型に命を吹き込めば技となる。
型に命を吹き込むのは誰なのか?
瞑想における型と技
ところで、私の書いた記事を読みにくる人たちは、瞑想というものに興味を持っていたり、これまでに瞑想というものをやってみた方は少なくないことだろう。
そして、ほとんどの人たちが、瞑想や無心などというものをゴルフのスイングのような《完全に静的なもの》として捉えているように思われる。
ゆえに、瞑想法の書物においても《静的な型》ばかりが扱われているような気がする。
しかし、禅ではそのような〈(使い物にならない)死んだもの〉を嫌うので、「まずは座れ」と《実践での体得》を促す。(もちろん、そのことによるメリットもあればデメリットもある。)
対戦相手なしの〈練習での素振り〉と、対戦相手のいる〈実践での打撃術〉とは違う。
実践においては《あなたを打ち負かそうとしている相手》がいるからだ。
それゆえ、練習時においては〈打撃術〉を高めるための〈素振り〉をしなければならない。
同様に、瞑想の実践とは、とめどなく溢れてくる思考や感情や欲求などとの対峙なのである。(短時間の瞑想しかしたことのない人には、わからないかもしれないが、そのような人でも毎日12時間の瞑想を一週間でもしてみるとわかるだろう。)
つまり、瞑想とはゴルフよりも格闘技に近い。
自己探求のための長期間の長期的な瞑想においては、実際のところ人間を相手にする格闘技よりも過酷なのである。
それは無勢の〈意識/顕在意識〉と多勢の〈無意識/潜在意識〉との直接対決と言ってもいいだろう。
〈一人の小人〉が〈大勢の巨人〉に挑むという、無謀にも近い戦いなのだ。(それゆえ、本当の悟り、すなわち絶対の悟りに至る人は、人類史上においても極めて稀なのである。)
ゆえに、瞑想という戦いの場において、そのような《死に物の型》では、いとも簡単に崩されてしまう。
場合によっては、〈無意識/潜在意識〉のペースにはめられて、当人ですら崩されていることに気が付かないかもしれない。
なぜなら、瞑想中のあなたは実際はボールにカスリもせずに三振しているのに、本人はホームランを打った夢を見させられているかもしれないからだ。(実際に目覚めに関するネット上の記事のほぼすべては、そのようなものでしかない。)
あなたの瞑想には命が吹き込まれているのだろうか?
《死に瞑想》になってやしないか?
誰だって、コンディションが良い時や想念の少ない時の瞑想はうまくいく。
そのような時は型どおりの瞑想でも事足りる。
アマチュアの野球選手だって、読みどおりの球が来た時くらいはしっかり球を芯で捉える。
しかし、崩(くず)された時にどうするのか?
コンディションが今一つの時。
想念が絡(から)みついてくるような時。
激しい感情に巻き込まれている時。
そのような、崩された時にどうするのか?
そこが《技》なのである。
初心者は《型》から入れば良い。
そして《型から技へと昇華させる》ためには、自身が体得した《原理》というものが必要となってくる。
しかし《型》から《原理》を見つけ出すためには、〈型に内在する本質を見抜くための鋭い洞察力〉と、それを発揮させるための〈圧倒的な経験量〉とが必要となる。(経験量、すなわち、データ量が少ないと、なにが本質であるのかの検証さえもできないのだ。)
さらには、経験の積み重ねによるあなたの成長に伴い、《原理》もまたさらに発展していく。
そして最後には《原理》さえも必要なくなる。
《手段と目的という過程を必要としないレベルでの体得》が完成されたからである。
そうなれば、《型》などはいらないどころか邪魔になる。
《原理》を体得し、《型》から《技》へと至れば、何をしていても瞑想なのだ。
相手の投手は何を投げても打たれてしまうので、もはや投げる気力すら失ってしまう。
つまり、相手の技を無力化している。
たとえば、人と話をしている時において、想念や思考のない状態になりたいのであれば、瞑想なんかせずとも、自然発生的な想念や思考を瞬時に消すこともできるし、その発生源から無力化することもできる。
もちろん、そのような《技》の基盤には《私が(何十年もの歳月をかけて)体得した原理》がある。
言い換えるなら、体得なき者には何を語っても無駄である。
その料理に使う食材の味を知らない者に、その料理を教えることなどできやしない。
「レンジでチン!」は料理ではないのだから・・・
砂糖や塩をなめたことのない者は「適量」と言われても、感覚的にわからない。
だから私は〈「言葉による伝達」によって知的に理解してもらうだけ〉ではなく〈「沈黙による直接伝達」によって体得してもらうこと〉を何よりも重要視してきた。
それが私が”選んだ”やり方だ。
それこそが〈私でなければできないやり方〉そのような意味において〈私を活かすやり方〉だと思っているからである。
しかし、その他のやり方を否定するつもりはない。
否定したところで、何かが変わるわけでもない。
《静中の静》と《動中の静》
私たちは死体ではなく生きている。
ならば、
《静中の静》ではなく《動中の静》を体得しなければならない。
ゆえに、
真の瞑想とは《静中の静》を求めるものではなく《動中の静》を体得するものでなければならない。
それにもちろん、あえて私が《体得する》という言葉を使っているのにも言葉通りの意味がある。
なぜなら、思考(損得)や感情(好き嫌い)などといったフィルターのかかった《心からの情報》よりも、感覚によってダイレクトに届いた《身体からの情報》の方が《プレーンな情報》であるがゆえに圧倒的にブレない安定性があるからだ。
そして、それを正しく解釈するのが《知性》の役割だ。
ゆえに《知性》が先走ってはいけない。
瞑想においても同様である。
しかし、現代においては逆のようである。
すべてが逆になっている。
それこそ、まさにギャグである。
しかし私は、逆立ちしながら散歩などはしたくない。
たとえ、その技術で褒められても嬉しくはない。
歩く時は、ただ普通に歩くだけで良い。
周りには合わせながらも流されることなく、
《私なりに見つけた原理》にゆだねながら、
ただただ普通に・・・
ただただ自然に・・・
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