自己~「気づきとしての一人の私」と「気づきの対象物と自己同一化した複数の私」~
この記事は2020.3.12、8:31に更新しました。
更新内容:記事を推敲いたしました。
自己とは
気づきの主体としてのあなた
意識の主体としてのあなた
※. 物事を見分け、本質を理解し、正しく判断するなどといった働きを行う、認識の主体としてのあなたは、知性としてのあなた又は精神としてのあなたとする。
自己の変容
自己意識
肉体精神と一体化している自己(気づきとしてのあなた)。
魂としてのあなたの動的な側面。
真なる自己
魂としてのあなたの静的な側面。
複数の私における自己の階層
肉体としての私
↓
感情としての私
↓
知性としての私
↓
自己意識としての私
↓
真なる自己としての私
↓
全ての私の基盤
:意識の根源そのもの
感情としての私
知性としての私
自己意識が目覚めていると勘違いしている人たち、言い換えるなら探求者の99.9・・・%は、知性としての私によって世界を眺めています。
つまり、自己意識としての私として存在しているのではなく、知性としての私として存在しているということです。
彼らは、意識の進化の段階において、自己意識の意識状態にあるのではなく、知性と自己同一化している意識状態にあるということです。
このことにおいて、本人の自覚があろうとなかろうとも。
知性としての私、すなわち知性と自己同一化している私は、確かに感情としての私からは切り離されおり、なおかつ感情としての私や肉体としての私のことをある程度は認識することができている。
ですから直接伝達によって心や身体に生じる変化や変容を認識することはできる。
しかし、純粋意識そのものを直接的に感じ取ることができない。
純粋意識そのものを、知性によって感じ取ることはできないわけですからね。
知性(による感受性だけ)では、身体を通して現れた変化、すなわち思考や感覚や感情などといった肉体次元のものしか認識できないというわけであります。
知性としての私。
この意識状態にいる人々は、人格は発達しているが、本質においてはほとんど発達していない。
言い換えるなら、知性(考える力)はそれなりに発達しているが、感受性(感じる力)がきわめて未発達である。
ゆえに彼らは、社会的地位が高く、普段はとても紳士(淑女)なのに、一定量の酒が入ったりすると、とたんにきわめて幼稚な本質が顔を出す。
その時の彼らを見ていると、そこには愛や良心のカケラすら感じられないことが多々ある。
このような人々は、インテリや学者などに多いタイプである。
「外から詰め込んだ知識は豊富だが、他人の気持ちや心の機微などは、まるっきりわかっていない」などといったように。
(感受性による直接的な感受ではなく、)知性による感受性とは、その程度のものなのである。
ゆえに彼らは、傷つきにくい(図太い)。
損得だけで動く人たち。
表面的で薄っぺらい人たち。
一見、賢そうに見えるが、じっくり話してみると何も胸に響いてくるもののない人たち。
まるで政治家のような。
箱(人格)は立派でも、中身(本質)は空っぽなのである。
だがら、心あるあなたなら、彼らに社会的な成功のためのアドバイスなどを求めることはあっても、人生や愛についてを、彼らと語り合う気にはならないだろう・・・
つまり、彼らは知的には見えるが、知性的、つまり人間的とは言えないのである。
自己の目覚めの検証
自己意識の目覚めの検証
自己意識:「肉体精神としてのあなた」に気づいている自己
あなたは、自己意識としてのあなたそのものを自発的かつ継続的に自覚することができていますか?
真なる自己の目覚めの検証
あなたは、真なる自己としてのあなたそのものを自発的かつ継続的に自覚することができていますか?
「自己意識によって一つに統合された私」と「複数に分裂したままの私」
ここは、また書きます。
自己という観点からみた「悟り」
無数に分裂したままのあなた・・・
具体的に挙げていくと、
肉体としてのあなた、感情としてのあなた、知性としてのあなた、感覚としてのあなた、感受性としてのあなた、想念としてのあなた、意識の根源に留まっているあなた、等々・・・
そして、悟りというものを、自己という観点から簡単に言うなら、
悟りとは、「無数に分断化したままの私」の統合である。
と言うことができる。
もっと厳密に言おうか・・・
悟りというものを、自己という観点からみれば、
思考や感覚や感情、等々・・・
苦悩や不要な苦しみの原因とは、それらとの自己同一化によって、無数の私に引き裂かれてしまうことである。
それゆえ、無数の私との自己同一化を終えるためには、それらの基盤である意識の根源に留まっているあなたを自覚せねばならない。
そのためには、意識の根源へと続く通路とでも言える純粋意識との接触が不可欠である。
意識の根源へと続く通路への扉(とびら)と言えるヘッドセンターも必要である。
もちろん、その扉(とびら)をくぐり抜けて通路を渡る自己意識が必要であることは言うまでもない。
(誤解を招かないように注意しておくが、あくまでもこれは比喩であり、実際のところは、くぐり抜けたり、渡っていくというような「行為」ではないのだが。)
続く・・・
個人を相手にして、その人の理解の許容範囲に合わせて話すのに比べ、あらゆる意識状態(意識状態の違いによって理解のレベルが異なる)の人でも理解できるように配慮しながら、なおかつ誤解が生じにくいように、ここまで厳密に定義しようと思うと言語化が難しく、とても疲れるので、気が向いたら、また書きます。
木幡 等 Hitoshi Kowata のノーコンタクト・セッション
https://kowata0.com/direct-transmission-with-no-contact-head-center
https://kowata0.com/direct-transmission-with-no-contact-pure-consciousness
もっと理解を深めたい。
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