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自己意識

真我

自己意識

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この記事は2018年7月30日、12:38に更新しました。

更新内容:「真我とは」の冒頭文を加筆修正しました。

真我の別称

狭義においては

意識や存在の根源・源泉・基盤、意識の根源、絶対〈グルジェフ〉、実在/絶対/至高/パラブラフマン〈ニサルガダッタ・マハラジ〉

 

広義においては

アートマン、純粋意識、真なる自己

真我とは

 

エゴ 自己意識 真我
思考者としての私 観照者としての私 意識そのものとしての私
知性としての私 気づきとしての私 純粋意識としての私
意識の中心としての思考者 意識の中心としての観照者 意識そのもの
意識の中心としての知性 意識の中心としての気づき 意識そのもの
知性と自己同一化した私 気づきと自己同一化した私 私そのもの

 

真我とは、文字通り私たちの究極的な本性のことですから、非二元の次元における意識の根源のことです。

 

ですがラマナ・マハルシやプンジャジは、その教えをあまりにも複雑なものにしないために、真なる自己、つまり意識の根源から生じる「純粋意識」と一つになった「自己意識としてのあなた」のこともふくめて真我と呼ぶことがあります。

ある観点からすれば、真なる自己意識の根源は同じ一つのものだからです。

 

もっとシンプルに、純粋意識のことを時として真我と呼ぶこともあります。

純粋意識とは、意識の根源から生じる原初の純粋なエネルギーのことです。

「ただ静かにしていなさい。そうすれば真我の方からやってくる。」といったような文脈で表現される場合は、純粋意識のことを指しています。

 

そこのところを理解しておかないと、ラマナの対話集などを読んでいて、「真我は不変で不動の基盤。」「あなたはすでに真我なのだ。」という言葉があるかと思えば、「あなたがただ静かにしていれば、真我の方からやってくる。」などといった言葉に出くわしたりもします。

読者は、当然、

「?!?!?!?・・・」

となるわけです。

彼らの本は対話集でありまして、その時の質問者の理解レベルによって方便として使い分けていますから、そのような言語上の矛盾が起きるわけです。

 

意識の根源純粋意識を基本的には別のものとして分けない教え方をしている教師もいます。

知的理解においてさえも意識の根源純粋意識との区別がつけられない教師は問題外です。

私は、真なる自己目覚めが進んできた人にのみ、意識の根源純粋意識とを明確に区別して教えることにしています。

それよりも前のステージでは一つのものとして教えます。

なぜなら、それら二つは同一線上にありますので、余計な混乱を避けるためです。

ですが、そのような区別を明確にして欲しいお客様もいらっしゃいますから、当サイトにおいては基本的に分けて教えています。

その一方、ツイッターなどの一般向けの媒体におきましては、純粋意識と言っても「なんのこっちゃ?」「胡散臭い」みたいなこととなりますので、純粋意識のことも「本当のあなた」と表現したりしています。

 

彼らの指導も同様であり、彼らなりの心遣いによる工夫なのだと思います。

 

もっと詳しく知りたい

 

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