聖なる教え ~秘しておくべきこと~
料理の素人が、超一流の料理人の書いたレシピ通りに料理を作っても、それは超一流のお店で出すことのできるような料理とはならないだろう。
必ずや「劣化版のコピー商品」のようになってしまうことだろう。
劣化版コピーとでも言うべき似て非なるもの・・・
たまたまイエス・キリスト本人からの教えを聞いた通りがかりの酔っぱらいが、後でその教えを自分の教えであるかのようにを人々に話したとしたら、どうなることだろう?
同じことではないかね?
それは「いれ立ての冷たいビール」と「気が抜けてぬるくなった元ビールという名の無用な液体」、それくらいに違うのだ。
片方は私の一日の疲れを癒(いや)してくれるが、もう片方は私に吐き気を催(もよお)させる。
それらはもう「聞き手(飲み手)にとっては別物である」と言えるのではないのかね?
「他者への愛が込められた教え」と「本人の寂しさや承認欲求を満たすためのおしゃべり」
あなたは、どちらを聞きたいと思うかね?
スピリチュアルな次元の物事においては、「秘しておかねばならない教え」というものがある。
要は、真なる自己の目覚めのステージにおいての教えのことだ。
真なる自己の目覚めの各段階における具体的な教え、つまり「聖なる次元における意識の進化にまつわることの教え」なので、それらを総称して聖なる教えと呼ぶことにしておこう。
私は、真なる自己の目覚めにおける進化の各段階(聖なるもののとの接触~聖なるものの流入~一なるものからの引き込み)における具体的なアドバイスというものは、会員専用記事においても掲載していない。
例えば、かりにAさんという生徒がいたとして、そのAさんが聖なるものの流入の段階に入ったとする。
すると私は「(目覚めを妨げたくないのなら)今のあなたは、○○は必要最低限に控えた方がいい。××がしたいなら、大いにするといい。あなたもその方が、実際にしっくりくるはずです。」と個別の具体的な指導をする。
そしてAさんが、(自己意識や聖なるものの根源である)一なるものからの引き込みの段階に入ったとする。
すると今度は、「(目覚めを妨げたくないのなら)今のあなたは、××も必要最低限に控えた方がいい。しかし△△がしたいなら、大いにすると良い。あなたもその方が、実際にしっくりくるはずです。」といったように私からのアドバイスも変化していく。
このように、お客様や生徒さんのその時々の段階に合わせた個別的な指導ができるということもまた、個人セッションの有用性なのである。
真なる自己が目覚めたばかりの人たちにとっては、目覚めの状態と眠りの状態という大雑把な区別しか存在しませんが、会員専用記事にも書いているように、真なる自己の目覚めの状態といってもそこには様々な段階、言い換えるなら様々な意識状態の進化の段階というものがあるわけです。
これらのことを一般向けの記事に書いてしまうと、どうなるだろうか?
ネット上には、真なる自己の目覚めが起きている人の数は圧倒的に少ない。
つまり、(自己意識さえも目覚めていない人にありがちなことだが)、そのような人が、真なる自己の目覚めが実際は起きていないのに、自分は聖なるものの流入が起きていると勘違いして、その段階における私のアドバイスを実践したとする。
効果があるわけがない。
間違いなく逆効果が出ることだろう。
そのようにして聖なる教えは、彼らの理解のレベルにまで引きずり降ろされてしまう。
するとネット上には、
「(目覚めを妨げたくないのなら)○○は必要最低限に控えた方がいい。××がしたいなら、大いにするといい。」などといったことが書かれていたが、試したみたら何の効果もなかった。
こんなことをするくらいなら、普段の瞑想をしている方がはるかにましだ。
これを書いた人は、何もわかっていないのだろう。
このような教えは明らかな間違いである。
と書き込む人もいることだろう。
さらに、類は友を呼ぶ。
私が試しても、そうでした。
むしろ逆効果でした。
何の役にも立たない、ただのデタラメです。
今の日本では、このような意見を肯定する人(目覚めていない人)には事欠かないが、否定する人など一人もいない。
なぜなら、その真偽のわかる人(真なる自己が目覚めている人)は少ない上に、目覚めた人はそんな記事を読むことはないだろうし、かりに読んだにしても放っておくからである。
そうなってくると、私がインチキ扱いされるのは、時間の問題であろう。
しかし問題は、私個人のことなんかではないのである。
つまり、真の知識である「聖なる教え」というものが「デタラメな教え」として流布されるという皮肉な結果を生んでしまうことなのである。
そうすると、直接伝達によって目覚めが生じたお客様や生徒さんに、私がせっかく個別の指導をしても、受け取る側はそのアドバイスの言葉(知識)に対して、「デタラメな教え」としてのフィルターがかかっている。
その知識(言葉)は、様々なの人たちの手を経由してきたことによって、デタラメという名の手垢(てあか)で覆われてしまっている。
ものによっては、全面に手垢(てあか)がこびりつき過ぎて、もはや見た目では「ただの垢(あか)の塊(かたまり)」にしか見えなくなっているかもしれない。
私は理解してもらうために、毎回いちいち、その垢(あか)を取り除いては磨くことから始めなければならない。
つまり、本来なら必要のない無駄な時間を過ごさなければならない。
私のもとには、ヨガや悟りなどを教えるスピリチュアル系の教師もいらっしゃる。
そのような方はサイトやブログで、様々な情報発信をなさっている。
教師でなくとも、個人的にスピリチュアルなことをブログによって発信されている方もいらっしゃる。
そのような方に、個人セッションにおいて、聖なる教えを伝授する。
私のサイト内の記事には書いてないがゆえに、とても強調して・・・
そこで、私が伝えた「秘しておくべき聖なる教え」を、「こんなに大切なことなのに、木幡はどの記事にも書いてない。とても有用な知識だから、是非みんなに教えてあげよう。」などといってネット上に掲載されてしまうと、どうなるかは先に挙げた通りである。
私が極めて有用な教えを書いてないからといっても、私はバカではない。
正しく使えばとても有用であるからこそ、私はあえて書いていないのである。
書いては、いけないからである。
正しく使えるはずのない相手に伝えると、必ず手垢(てあか)にまみれてしまうからです。
だから、一般化してはいけないのです。
聖なる教えが一般化されてしまうと、その知識の質が必ず下がる。
これは法則である。
「百害あって一利なし」なのである。
だから、
あくまでも個別に、相手の目覚めの段階に合わせて、相手の理解を確かめながら、誤解の生じないように細心の注意を払って伝えていかなければならないものなのである。
それを理解の確認ができない相手を対象とする媒体である書物によって書き残そうとするなら、誤解が生じるスキがないように、あらゆる説明を施して、全何十冊という大著を書き上げなければならない。
それでもいずれは、その主要部分だけが独り歩きして、思い思いの解釈をされてしまう運命にあるのは明白なことだが・・・
ゆえに、古代から聖なる教えは秘されてきた。
秘すべきものとされてきた。
それを受けとるためには、厳しいテストがなされてきた。
師から高弟(弟子の中で、特にすぐれた弟子)のみに直接伝授されることによって引き継がれていく秘密の教えとされてきた。
だから表には出てこない。
つまり、一般化されてはいない。
グルジェフなんかはそのもっと前の教えの段階から、「他言してはならない」として生徒に誓約書まで書かせているくらいだ。
それが本当なんだ。
ゆえに、もし「目覚めの次元における具体的で有用な教えを、メルマガ読者のみなさんにだけ内緒で教えます。」なんて言っている奴がいたら、そいつはインチキかバカかその両方かのいずれかだ。
いずれにせよ、関わってはいけない。
個別指導において、相手の理解を確かめながら、きちんと丁寧に伝えていくことにおいては、何の問題もない。
しかし一般化して公表してはならない。
だから私は、「目覚めの各段階における具体的な在り方や過ごし方」については書いていない。
当サイトの会員専用記事においてさえも、目覚めの時期における基本的な在り方や目覚めの検証方法などといったギリギリの所までしか書いていない。
自己意識の目覚めに関しての教えなら、「本当の教え」が「デマカセの教え」に変質してしまうというようなことにはなりにくい。
なぜなら、自己意識が目覚めている人なら、スピリチュアルなどに興味のないいわゆる普通に暮らしている人でも、そこまで少なくはない。
知識もまた物質である。
知覚され得るものは、全て物質(エネルギー体)なのである。
知識とは言葉であり、言葉もまた微細なレベルでのエネルギー体であるという意味にいては物質なのである。
だから知識も物資である以上は、有限のものである。
本当の知識を100人に配れば、その中身の濃度は単純計算すれば1/100になる。
たとえば、かりに私が1億円を持っているとしよう。
そのお金(物質)を1億人に分配したら、1人当たり1円の配当にしかならない。
それで彼らの何が変るというのだろう?
しかし(人間性をも含めた)厳しいテストをパスした(真の良心のある)10人の人間に、それぞれ1,000万円ずつ配るとするなら、その10人はそれを有用な事業のための資金することができるかもしれない。
彼ら10人の生活も豊かになり、そこで働く人々や、彼らを取り巻く人々も何らかの形でその恩恵にあずかることできるようになるだろう。
つまりその方が、世界のためにも役に立つ。
聖なる次元に関するものは、汚(けが)してはいけない。
聖なる教えが、汚(けが)されてはいけない。
だから私は公表しないことによって、それらが汚(けが)されることから守っているのである。
だから、ネット上などで公表などしてはならない。
いくらそれを、自分の考えであるかのように見せかけていても・・・
10人に配った方が有用となる教えを、1億人に配るべきではない。
極めて有用な教えなら、何でもかんでも広めればいいというものではないのである。
10人に配るべきものを1億人に配ることは、愛ではなく愚かさというものである。
本当に読者のためを思っているのなら、あえて書かないことが愛ではなかろうか・・・
それは無闇に広めるべきものではなく、少しずつ確実に広めていくべきものであるがゆえに、公には秘しておくべきものなのである。
そこのところをお約束していただける相手でないと、私は聖なる教えを言葉によって伝達することができない。
私が話したくないからではなく、話すべきではないからである。
それはなにも、私の個人的な考えや気持ちなどに基づくものではなく、法則に基づいた従うべき大原則だからである。
私は、その原則に従っているだけのことである。
このことは、利用規約にも書いておくことにします。
その詳細な説明として、今後はこのページを使うことといたします。
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