
断片的な走り書き20~探求者とは何なのか?~
この記事は2020.5.25、14:01に更新いたしました。
更新内容:記事に加筆をいたしました。
断片的な走り書き20~探求者とは何なのか?~
個人と大衆
個人というものは自らの意志によって行動するが、大衆というものは外部からの圧力(恐れや不安)によって動かされている。
あなたの意識内から生じる恐れや不安などといった想念も、思考者や観照者としてのあなたの観点からすれば外部から去来するものなのである。
自己探求
探求とは、自己(あなた)についての探求だ。
それゆえ、あなたがどのような集団に属していようとも、自己探求とは個人としてのあなたによってなされるべきものである。
個人として存在すること
それが探求者としての最低条件なのである。
探求者として在ること
厳しいことを言うようだが、大衆すなわち恐れや不安によって動かされている人たちというものは、いまだ探求者にすらなれていないのである。
真の自己探求においては、巨乳であるか貧乳であるかは関係のないことなのである。
もちろん、ヅラであっても関係ない。
なんのこっちゃ?
目を開けたまま眠る人たち
目を開けたまま眠っている人もいれば、目を閉じながら起きている人もいる。
彼らが目を開けているからといったって、起きているとは言い切れないよ。
あなたがつまらない人間なら、何をしてもつまらないことでしょう。
幸せであるということと興奮状態にあるということとは、全く別のものでござんすが・・・
痛みと悲しみ
わさびだけを丸呑(の)みすれば涙がこぼれますが、お寿司にのせれば笑顔がこぼれます。
つまり『それが全部か一部か』・・・
ただそれだけの違いです。
わさびの量に見合った量の寿司をこしらえなさい。
つまりその心は、
正しい瞑想(内なる瞑想)を身につけて、あなたの痛みや悲しみに見合った量の純粋意識を蓄えなさい。
ということだよ。
そのようにして、
痛みや悲しみ(わさび)は、人生を美味しく味わうためのスパイス(薬味)となり得るのだ。
舞台と客席
~この世とあの世~
~行為者と観照者~
えぇ、えぇ・・・
人間(行為者)としてのあっし(私)は、とても涙もろい人間でがんす。
(エネルギー量も普通じゃございませんので、外的には、すなわち行為者としましては)喜怒哀楽が激しいように見えることもござんしょう。
えぇ、えぇ・・・
ですが、(観照者としての)【あっし(私)】はこの世という悲劇の中の登場人物ではごぜぇませんだ。
この世というものを、あの世から喜劇として眺めている観客のようなものでござんすよ。
えぇ、えぇ・・・
なぜなら、【あっし】には秘密の客席があるからでござんす。
そして【あっし】は直接伝達によって、旦那(だんな)をその客席へとご案内いたしているのでござんすよっ。
えぇ、えぇ・・・
えぇ、えぇ・・・
えぇ、えぇ・・・
ヘィ、旦那(だんな)っ、
ヘッドセンターは「一番目の客席」となり、
純粋意識は「お寿司」にもなるでござんすよ・・・ 「へィ、いらっしゃい!」
以上。
ここまでが今回の記事でござんすっ。
チャオ✋
もっと理解を深めたい・・・
「もっと読んでみたい!」という方は
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