瞑想のコツ〜思考や感情に巻き込まれないために最も効果的な方法〜
この記事は2021.3.9、20:15に更新しました。
更新内容:記事下のコメント欄にいただいたコメントへの返信をさせていただきました。
瞑想をしている「あなた」のために
瞑想をしている「あなた」のために、まずは最初に質問です。
「誰が瞑想をするのか?」
「誰が瞑想をしているのか?」
ということについてです。
馬鹿らしい質問とお思いでしょうか?
たしかに私は馬鹿の筆頭株主ではございますが、こんな馬鹿らしい質問をする私のことを馬鹿だと思っているあなたの方こそが、知性においては未熟である、すなわち「わかってないということ」をわかってないという可能性もあるのではないでしょうか・・・
つまり、わざわざ私がこんなことを言うのも、あなたに「より高い理解」や「より明晰な理解」へと進んで欲しいと願っているからなのであります。
それゆえ、馬鹿らしいとお思いの方は、これ以上はお読みにならなければよろしい。
しかし、「内なる誰が瞑想をしているのか?」つまり「どのようなあなたが瞑想をしているのか?」についての明晰な理解の有無によって、瞑想は毒にも薬にもなり得るのです。
言い換えるなら、瞑想時においての「出発点」または「現在地」とでもいうべき「あなた」についてを把握することなしに「悟りの地図」を眺めていても、決して「正しい目的地」にはたどり着けないどころか、「出口の見えない探求の迷路」にハマって、より深刻な迷子になってしまうだけなのであります。
その自覚の有無については、さらに深刻な別問題ではありますが・・・
「あなた」とは「何」なのか?
「あなたは誰ですか?」
そう訊かれれば、あなたは名前を答えるだろう。
「あなたとは何なのですか?」
「肩書なしで答えてください。」と迫られたなら、あなたは答えに窮(きゅう)するだろう。
「私は魂です!」と即答するような人は、「『あなたは、すでにそれなのだ!』式のノンデュアリティー・ビジネス」のカモのお手本になるために生まれてきたような、選ばれし雲の上の方々であるかもしれませぬので、逆に私の方が返答に窮してしまいます。
しかし、いずれにせよ、この質問に対して簡単に言葉で答えてしまえるような人は、自己の目覚めのための種を受け取りそこねることとなる。
機能的側面からみた「複数の私」
肉体/本能としての私
感情としての私
思考としての私
知性としての私(顕在意識の主体)
感受性としての私(潜在意識の主体)
などなど・・・
文脈に応じて、上記のものを(固定的にではなく相対的に)「低次の自己」と「高次の自己」とに分けたりもします。
意識の進化の段階において異なる「私」
行為者としての私(パーソナリティー)
思考者としての私(エゴ)
観照者としての私/自己意識としての私(自己/セルフ)
純粋意識としての私(魂)
絶対意識としての私(神)
文脈に応じて、上記のものを(固定的にではなく相対的に)「低次の自己」と「高次の自己」とに分けたりもします。
人間とは「多次元的存在」である。
このように、分類は色々あれど、人間とは多次元的存在です。
それゆえに私たちは、自己の内部、すなわち自身の心の中でさえも葛藤が起きてしまうわけです。
ダイエットをしたいと思っているのに、ついつい食べ過ぎてしまう。
冷静な判断のできる「知性としてのあなた」は、食後に甘いものを食べることは控えるべきだとわかってはいるのですが、幸福感を得ることを何よりも大切にしている「感情としてのあなた」や「感受性としてのあなた」としては食べたくてしょうがない、等々。
何事においても、「知性としてのあなた」が「こんなことは二度と繰り返してなるものか!」と、どれだけ反省を重ねては意気込んでみても、最後には「感情としてのあなた」や「感受性としてのあなた」の誘惑に負けて、何度も同じ失敗を繰り返してしまう。
そんなこともございましょう。
それもこれも、「心としてのあなた」は一人ではないからなのであります。
果たして、どの「私」を主体とすれば良いのか、悩みは尽きぬところでございましょう・・・
それでは、これらのことを踏まえて、ようやく本題に入りたいと思います。
瞑想の難しさについて
一般的にみて、瞑想をする上での大きな障害とは、瞑想時において「あなた」が思考や感情に巻き込まれてしまうことです。
言い換えるなら、「知性としてのあなた」や「感受性としてのあなた」が「低次の自己」(「思考としてのあなた」や「感情としてのあなた」など)に支配されてしまう時もありましょう。
あなたの心においての主人であるべき「冷静なあなた」(「知性としてのあなた」)が「落ち着きのないあなた」(「思考としてのあなた」や「感情としてのあなた」)に、心の主導権を奪われてしまうこともありましょう。
それが(思考や感情などとの)自己同一化による自己喪失(じこ・そうしつ)ということであります。
スピリチュアル用語では、そのような意識状態のことを(観照者としての)自己の眠りとか自己意識の眠りなどと申します。
たとえ瞑想者としてのあなた(行為者としてのあなた/肉体精神としてのあなた)は起きていてもです。
つまり、低次の自己/外なる自己(行為者としてのあなた)は起きていても、高次の自己/内なる自己(「観照者としてのあなた」)が眠っているから、思考や感情に巻き込まれてしまうのです。
ヘッドセンターの重要性
ですが、思考や感情はヘッドセンター(頭部のエネルギーセンター)の内部にまで入り込むことはできません。
「ヘッドセンターのエネルギー」と「思考や感情のエネルギー」とでは、その次元や振動密度が違うからです。
言い換えるなら、「思考や感情としてのあなた」は、ヘッドセンターの内部に乗り込んでいる「観照者としてのあなた(「知性と感受性との融合体」)」または「知性を携えた感受性としてのあなた」を捕まえることができません。
なぜなら、ヘッドセンターが頭部に位置していることからもご察しのように、「ヘッドセンター」とは「知性のセンター」であり「観照のセンター」でもあるからです。
ですから、「知性を携えた感受性としてのあなた」がヘッドセンターの内部に乗り込むことによって「思考や感情」との間に壁を作ること、「思考や感情」との間に距離を保つことができるわけです。
なので、自らあなたがヘッドセンターの外に出なければ、思考や感情に巻き込まれることはありません。
そうすることで、思考や感情に邪魔されることなく瞑想を深めていくこともできるわけです。
また、「知性を携えた感受性としてのあなた」が、このヘッドセンターにきちんと乗り込んだ状態でいれば、思考は外からやって来るということが経験的にも、はっきりとわかるようになります。
さらに言うなら、それなりに成熟した探求者やノーコンタクトセッションをお受けになられている方々なら体験的にもおわかりのように、(日常においても)「知性を携えた感受性としてのあなた」がきちんとヘッドセンターに乗り込んだ状態でいると、自然発生的な思考が静まることによって感情も静まってくるので、いわゆる心が落ち着いた状態になることができます。
しかし裏を返せば、それはある種の思考のフリーズ状態(感情はフリーズしない)のようなものでもあるわけだから、言語的知性の働きというか左脳的な思考というものが難しくもなってくる。
それゆえ、ヘッドセンターに乗り込んだ状態のままで瞑想をしたりくつろいでいたりすることは、とても静かで快適な状態ではあるけれど、(絶対意識の悟りに至っている人は別として、)ヘッドセンターに乗り込んだ状態のままで、それなりの知性や言語的能力を必要とする仕事などを行うことは難しいかもしれない。
だから、あなたが「ヘッドセンターの内部で過ごすか外部で過ごすか、すなわちヘッドセンターに乗り込むか否かの選択」においては、仕事のオンオフを基準にして考えるというのも一つの手かもしれません。
しかし「絶対意識の悟り」にまで至れば、もはやそのような問題は生じない。
そこに至るまでのプロセスにおいて、思考回路の最適化とでもいうようなことがなされているし、いわゆる「高次思考センター」というものが機能し始めるからなのか、たとえヘッドセンターに乗り込んだ状態でいても、必要とされる思考は自ずとなされる。
(得意な科目においては)試験の問題を読んだだけで、(考えずとも)自ずと答えが舞い降りてくるような感じで・・・
それは、思考のみならず、言動においても同様に自然発生的に生じてくる。
それこそが、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジなどが言うところの「全ては、ただ起こっているだけだ・・・」ということの真意を完全に自覚している境地であります。
宗教的な表現をするなら、神(ブラフマン)としての自己/他己を実現した魂(アートマン)が、全面的に神(ブラフマン)を信頼している境地とでも言うべきか。
それゆえ、それゆえに、肉体や思考や感情などを全面的に手放すことも可能となるのです。
それは「絶対意識の悟り」に至るまでのプロセスを滞りなく経てきたことで、「思考」と「感情」と「本能/動作」とが「高次の何か」によって最適な状態に統合されているからだろう。
恩寵の通路としての(詰まりのない)完全なる装置として機能させるために、「思考」と「感情」と「本能/動作」とが「高次の何か」によって最適な状態に統合されたからなのだろう。
もちろん、絶対意識の悟りを実現した彼らは「(高次の何かによって)すべてが自ずとなされる『自動運転』」か「(高次の自己が)意図を持って自ら行う『手動運転』」にするかを選ぶことも可能だ。
(別の観点からすれば、運転手を切り替えるという表現もできるのだが・・・)
ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、ジョン・トラボルタ(?!)・・・
絶対意識の悟りを実現した、ヤツらの車は、手動と自動のハイブリッド、(高次の)自力と(高次の)他力のハイブリッド、(高次の)意志と恩寵のハイブリッドなのである。
普段は省エネの自動運転でエネルギーを温存している。
そして、ここぞというレースの時には、自ら運転席(ヘッドセンター)に乗り込み、手動運転に切り替えて参戦する。
ヘッドセンターに乗り込め!
そんなわけで、私は次のレース(ノーコンタクトセッション)の時まで、しばらく運転席からは離れて休んでおくこととしよう・・・
この記事をご覧のあなたも(仕事中はさておき)、
「ここぞというレース」に参戦する時には、事故のないよう、ぜひとも運転席に乗り込んでいてくれたまえ!
その真意が、おわかりかな?
「目覚めのレース(自己観察・自己制御・瞑想・明け渡しなど)」に参戦する(取り組む)時には、事故(思考・感情・欲求・身体次元の感覚などとの自己同一化)のないよう、ぜひとも運転席(ヘッドセンター)に乗り込んでいてくれたまえ!
運転(瞑想)に事故(自己同一化による自己喪失)はつきものだからである。
その上、本来ならば「悟りという病」すなわち「取り返しのつかないほどの深刻な事故(悟りのつもりの眠り=目覚めている夢を見続けること)」によって入院しなければならないような重症患者たちが、その無知ゆえに宗教家やスピリチュアル教師を名乗っている。
(私とて、その例外ではないかもしれぬし、私こそ、その筆頭であるかもしれぬ・・・)
だから本来は「目覚めの道」であるべきはずなのに、すでに「眠りの森」と化してしまった昨今のスピリチュアル・ジャングルは、事故(自己の眠り)の超多発地帯となってしまったのだ・・・
クワバラ、クワバラ、カブトムシ・・・
困ったもんだぜ万次郎・・・
しかし、ここの読者であられるあなた方は、そんなことで弱気になっちゃあきまへん。
強気のつもりの自惚(うぬぼ)れや過信もいかんが、弱気もいかん。
内なる『喝アアア〜ッ!!!』を忘れちゃいかんぜ寿司二貫!!
ハィっ!
ここで急に真面目な話に戻るが、先日、NASA(アメリカ航空宇宙局)の協力のもと、その最先端の自己解析サーモグラフィー技術によってようやく実現した「内なる観照者としての私の自画像」を見ていただきたい。
少数で極秘裏に進められていたプロジェクトなので、世界初公開なんじゃないのかな・・・
それでは、「孤高の覚者」と称された私の、自己解析サーモグラフィーによる「観照者としての私」の画像を御覧ください。
初めて見て、自分でも驚いたけれど、観照者歴が幼少期からと、きわめて長かった私くらいになってくると、ヘッド・センターに乗り込んでいる時には、「不動の観照者」として微動だにしないどころか、ポーズもバッチリ!キマっていることが見て取れるよね。
観照者として留まっているのみならず、ポーズにおいてはトラボッテいるんだね。
だから思考や感情なんぞに巻き込まれない。
そのうえ、モテるときたもんだ。
あらためて上の画像を見ていただくとわかるけど、私はとなりの女性(NASA主席研究員の「内なる自己」)にも巻き込まれていないでしょ?
けど、彼女の方は僕に巻き込まれているよね。
僕にホレてんのじゃないのかな・・・
彼女はNASAの主席研究員という立場にあるだけあって、外的にはきわめてクールな女性だったのだけど、やはりこの自己解析サーモグラフィーを前にしちゃ、内なる自己の姿が赤裸々に暴かれてしまうんだね。
そういう意味では、裸になることよりも恥ずかしい「究極のヌード写真」だよね。
もちろん、そのことはNASAの方も重々承知で、この写真が内部公開された時には、「人類は、ついに高次のエロスに到達した!!」との表明がなされ、連日にわたってのドンチャン騒ぎだったらしいよ。
とはいえ、この画像が「とてもエロい」とはいえ、良い子のあなたは、この画像を決して性的な目的で使用しないように注意しておくよ!
ペンタゴン(アメリカ国防総省)は、このことにも目を光らせているんだからね・・・
と、まぁ、今日は色んなキャラクターで書いてみましたが、真面目に書き切ることのできない自分に、我ながら呆れてしまうわけだけど・・・
とはいえ、照れ屋であるがゆえに、キャラに扮している時でなければ舞台に立つことのできないコメディアン、役を演じている時でなければ舞台に上がることのできない俳優たちもいることだろう。
それに、「悟りとか、自己がどうだこうだといったようなクソ真面目なテーマをクソ真面目に偉そうに書いてられるかっ!」てんだ。
何事も「キメ過ぎずに、ほどよく抜く」のが私のスタイルだ。
「バカのように見せかける」のが私のポリシーだ。
このようにして、ファッションにおける「ドレスとカジュアル(キメとくずし)の均衡理論」に基づき、悟りの記事における「真面目さとくだらなさ(キメとくずし)の均衡理論」をでっちあげ、この記事ではボトム(底部)で抜け感を演出しようとしたわけだが、あろうことか(上半身にはタキシード、下半身にはブルマーというコーディネートのような)やりすぎ感も否(いな)めないのである。
これも何かの事故なのか・・・
なんと儚(はかな)い自己なのだ・・・
やはり、
自己がなければ事故るのだ・・・
自己がないから事故るのだ・・・
困ったもんだぜ万次郎・・・
助けておくれよアンパンマン・・・
とはいえ、今さら着替えるのは面倒だ。
記事の構成という意味でのファッション・コーディネートにおいては、タキシードにフンドシというような、こんな「最先端のモードスタイル」があっても良いではないか。
「物は言いよう」なのである。
それでは最後に締めるとしよう。
皆さま方も忘れなさんな。
「自己なき瞑想」とは「迷走」である。
ヘッドセンター(運転席)に乗り込め!
「自己なき迷走」ではなく「事故なき瞑想」のために・・・
たとえ響きは同じであれど・・・
ヤキソバンサ・ペヤンガーナンダ16世
ヤキソバンサ・ペヤンガーナンダ先生の『今日の名言』※
1.「困ったもんだぜ万次郎・・・」
2.「忘れちゃいかんぜ寿司二貫!!」
3.「モテたきゃトラボルのだ!」
ヤキソバンサ・ペヤンガーナンダ先生からご頂戴した、これらのお言葉は「聖なるおマントラ」でもあります。
声に出して読むと、感情エネルギーが変容し始めることでしょう。
また、すべては視点の問題ですので、精神的に追い詰められて苦しい時などに1のおマントラをお声に出してお読みになられると、「『観照者としての自己』や『メタ認知』を発動するためのトリガー」となり、(自己と苦しみとの距離が取れるようになることによって)楽になりますので、ぜひともお試しくださいませ。
「SNS時代の新たなるお読経(どっきょう)」として、ご自身のステージに見合った「聖なるおマントラ」をお選びになり、是非あなたのおツイッターアカウントから、毎日最低お50回はつぶやき続けて拡散してください。
そして「あなたのためのおマントラ」が今年の流行語大賞にノミネートされた暁には、あなたの願いが必ず成就すること請け合いです。
※. 超ウサン臭いスピリチュアル教師たちがやりそうなことのパロディーですので、良い子は決して真似をしないように・・・
ヤキソバンサ・ペヤンガーナンダ先生の記事
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もっと理解を深めたい!
コメント ( 2 )
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木幡トラボルタ先生(笑)
ここ最近は、頻繁に記事の更新をしていただき、一読者として嬉しい限りです。
<人間とは「多次元的存在」である。>は、まさに木幡先生の教えの根幹ですね。
色々と木幡先生の直接伝達を受けさせて頂いたおかげで、自己意識を含め「多次元的存在である私」を、深く実感できるようになりました。
ありがとうございます。
さて、ここ10年くらいの流行で、ノンデュアリティ(ネオ・アドヴァイタ)というものがあり、
ここの読者様もご存じのことと思います。
以下のようなやり取りを見たことのある方も多いのではないでしょうか。
弟子 「先生、私はまだ悟れません。それにまだ些細なことで悩んでいて心が辛いのです。」
先生 「私はいないんです。わたしたちはすでにそれなんです。」
そんなやり取りを見ると、私が聞き手ならば、まずはそいつの顔面を、でこぴんしてやりますね。バシッと!
で、こう言う。
「痛みはないんです。わたしたちはすでにそれなんです」
ノンデュアリティ系の書籍はたくさん出ていて、それなりに知識として有益な部分もあるのですが、
結局のところ、
「個人は幻想で、私たちはすでにそれなんです。自由意志なんて存在しません。
問題なんて最初からなかったんです。悟りなんてないんです、もしくはすでに悟っているんです」
と言います。
もちろん、高次の智慧としては、何の異存もありません。
しかし、そう言われても、私たちが心の底から求める、霊的な成長には全く繋がらないと思っています。
むしろ彼らは、「霊的な成長」なんてないんです、というでしょうね。
そして、そんなことをいうのは、何も解っていない証拠だとばかりにマウンティングしてくるでしょう。
だから、ノンデュアリティに毒されている人にとっては、<人間とは「多次元的存在」>といっても、
私たちはすでに「それ」なわけですし、そんなもの幻想だ、と言うでしょうね。
…もしかしたら、これを読んでいるかもしれない、ノンデュアリティ信奉者諸君!
けどね、そうじゃないんだ、ある/なしはどの次元で語るかによる問題です。
言葉遊びではなんにもならないのです。
悟りとは、より高次元の自己を目覚めさせ、霊的な自己同一性を階梯していくこと。
ここに真髄があります。
例えるならば、
・ノンデュアリティ教師の場合
とても悲しくて涙する小説を読み、それを伝えたくて話したら相手に、
「そんなのは全部、紙とインクですよ。物語なんてありません」 と言われるような、冷たく無機質もの。
(小説が低次の次元世界、それを読むのが高次の認識としての例え、です。)
・木幡先生の直接伝達の場合は、
自分が小説の主人公でもあり、また、それを手にしている読者でもある、
という実感的な身体認識がエネルギー的に(ここが大事!)生じます。
そして、そうなってはじめて瞑想が起こります。
ところで、他の生徒さんたちはこのあたり、どんな感想を持っていますでしょうか?
気になります。
木幡先生
いつも楽しく興味深い記事をありがとうございます。
仕事の休み時間に読んで、前半は自分の在り方や悟りへの取り組み方への学びが深く、ふむふむと真面目に読んでおりましたが、トラボルタが出てきてから、可笑しくてニヤニヤしてしまいました。
真面目過ぎず、肩の力を抜いて、取り組もうと思いました。
次の記事も楽しみにしております。