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フーマン・エマミ

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この記事は2019年5月16日、19:10に更新しました。

スピリチュアル教師としてのフーマン・エマミについて

アジズ・クリストフ(アナディ)と同様、彼らが日本の一部のスピリチュアルシーンにもたらしたものに益するものもそれなりにあったが、それを上回るほどの負の遺産を残してくれたというのが現在の私の正直な感想である。

 

故フーマン・エマミ。

それなりのエネルギー伝達はあったのだろう。

いわゆるサイキックな能力も備えていたのだろう。

 

しかし指導者としては、いかがなものかと思う。

人間としても・・・というべきか。

目覚めた人や見る人が見たら、明らかなことだが・・・

 

そもそも晩年のフーマンが批判していた「アジズの教え」とやらも、アジズの質問に対してフーマンがガイダンスによって答えたものがベースとなっている。

(それは「エンライトメント」というタイトルで書籍となっている。)

すべてをガイダンスのお告げ(笑)ということにしてしまえば、それはフーマンの意見ではなくガイダンスがそう言っていたと言えば良いのだから、無責任なものである。

「神様は、そう仰っているぞよ!」といったような、低能なインチキ宗教の予言者と変わらないではないか・・・

話にならない。

 

指導者たるもの、あなたの責任をもって、あなたの言葉として語るべきである。

 

人としての常識的な感覚を持っていれば、わかること。

知的優越感丸出しのエセ探究者よりも、普通の人々の方がまともである所以である。

 

だからフーマンやアジズなどを覚者として評価している教師にも気をつけなさい。

彼らも頭がパーマンだし、心(ハート)はピーマンのように、中がスカスカだから・・・

 

さらにいうなら、スピリチュアル・マスターとしての彼を崇拝している人たちというのは、自己意識にすら目覚めていないのだろう。

こういう意見を言う人が見当たらないので、私はあえて言うのだが・・・

 

フーマン、あなたこそ、「越えて、超えて、さらに超えていかなければならかったのではないのだろうか?」

ガイダンスと称しての、「霊的な存在との交信」などといった子供じみた領域の次元を・・・

 

私には、彼の典型的な6種的体癖に由来する気質が災いしているように思えてならない。

もちろん、彼の精神的な幼稚さのようなものも多々感じられるのだが・・・

幼稚さとは、もちろん、「良心に由来する純真さ」とは異なるものである。

 

このような記事で引き合いに出しすのは申し訳ないが、同じ6種体癖の尾崎豊のライヴでも見ると、その意味がわかるかもしれない。

彼と波長の合う人は、彼のライヴを観て、彼の世界にのめり込む。

ある種の熱狂に引き込むカリスマ性だね。

ある種の人たちを惹(ひ)きつけるという意味でね。

しかし、彼と波長の合わない人は、その熱狂にはついて行けないかもしれない。

同じ6種ということで、たとえに出しただけなので、もちろん尾崎豊に対しての、批判的な意味合いはありません。

 

フーマンにしてもアジズにしても、日本の彼らの弟子たちがスピリチュアル教師として引退すれば、アジズ・フーマンのことを語り続ける探究者というのはいなくなることだろう・・・

私はそう予言しておく。

 

当たり前のことだけど、覚者と神秘主義者は住んでいる次元が違うんだよ。

本物の覚者は、ガイダンスなんてものには触れない。

個人的にも、他人の前でも・・・

 

そういうものに強い関心や興味がある人たちというのは、つまり・・・

そういうことだよね・・・

 

私のもとには、アジズ・フーマンの弟子たちであるスピリチュアル教師のもとで学んでいたという生徒がたくさんいらっしゃるのである。

だから私はスピリチュアル教師として、アジズ・フーマンが日本の探究者たちに残した厄介な負の遺産と、今でも向き合わされ続けているのである。

それは、まるで「洗脳を解(と)く」とでもいったような骨の折れる仕事なのである。

 

もっと理解を深めたい・・・

 

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