純粋意識の直接伝達 ~聖なる扉の解放~
ここ最近は、自己意識に関する連続投稿であったため、会員読者の中には、
「純粋意識そのものを明確に感じ取ることができないのは、私という自己意識が明晰でないからなのだろうか?」
そのような疑問を感じられた方もいらっしゃることでしょう。
つまり直接伝達なしで、会員専用記事を読むだけでは、「内なる静寂と純粋意識との明確な見分けがつけられない」のも、ある意味では当然のことだからです。
※ 内なる静寂と純粋意識との違いや、その見極めの方法等につきましては、会員専用記事において解説しております。
たしかに、自己意識としてのあなたがぼんやりしていれば、従来からの精神的傾向により、ついつい思考や想念に夢中になってしまうこととなり、そのことが表面的にはそのような結果を招いているという場合もあります。
ですが、
という場合がほとんどであるかと思います。
つまり、純粋意識が流れ込んでくる通り道にある聖なる扉とでも言うべきものが緩んではいる。
緩んでいるから、少しずつなら入ってくる。
瞑想中などにおいて、偶発的にある一定の状況が整えば、その緩みはさらに大きくなって、純粋意識が強く流れ込んでくることもある。
しかし、通常は「純粋意識との接触があると言えばあるような、ないと言われたらないような・・・」
「一体全体、どっちなんだ!?」
ということになっても不思議ではありません。
たとえば私が2018.6.10に行った「ノーコンタクトでの直接伝達」を受けられて以降、純粋意識の目覚めが驚くほど順調に進んでおられるAさん(44歳/女性/京都府在住/探究歴:2.5年)の場合。
https://kowata0.com/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E3%80%8C%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%88%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%9B%B4%E6%8E%A5%E4%BC%9D%E9%81%94%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%84%9F%E6%83%B3%EF%BC%8844
おそらくAさんの場合、聖なる扉はすでに緩んでいたのかもしれません。
ですから時には、ただの静寂とは異なる何かを感じておられた時もおありだったのでしょう。
そして直接伝達によって、聖なる扉が完全に開いた。
そして純粋意識が絶え間なく流れ込んできたことによって、意識内における純粋意識の純度が高まり、その味わいを知り、新たな理解が生じた。
「これだったのか!」と・・・
大量の塩水の中に砂糖を入れても、その砂糖の量が一定量に達するまでは、そこにある砂糖の存在を明確に認識することができない。
というわけであります。
つまり内なる静寂と純粋意識、それぞれの味わいの違いを私がいくら説明してもわからない人でも、直接伝達などによって、それなりの純度の純粋意識を自分でしっかりと味わってみることによって、疑いなき確信が生まれるということです。
一度きちんと味わえば、もはや砂糖と塩の違いを私が説明する必要などありません。
「砂糖と塩は、見た目が似ているから、お前ら今日も間違えねえように気をつけろ!」などと毎回、弟子に注意しなければならない料理長など大変ですからね・・・
そのような意味からも、
条件付きでの儚(はかな)いエネルギー体験などではなく、永遠で普遍なるものの味わいをしっかりと体験させてくれる指導者をきちんと選ぶということ。
もまた大切なことであるかと思います。
それでは、この記事のまとめに入ります。
通常、(自己意識としてのあなたがいる肉体/精神の次元から)聖なる次元へと続く通路は、聖なる扉とでも言うべきものによって固く閉ざされてしまっています。
その扉が少し緩んだ時・・・
大きく緩んだ時・・・
完全に開いた時・・・
聖なる扉のその開き方の度合いによって、あなたの意識内における純粋意識の流入量、つまりその純度が異なってくるため、純粋意識に対するあなたの理解もまた大きく異なってきます。
そのような「理解」と「聖なる扉の開き具合い」。
それらは共に手を携(たずさ)えて、深まり合っていくものでもあります。
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