記事は判断材料
私の仕事は、記事を書くことではなく、「真なる自己の目覚めの直接伝達をすること」です。
しかし直接伝達といっても、読者からすればどの程度の直接伝達がなされるのかが分からない。
直接伝達において、被術者に惹き起こされる目覚めは、施術者に生じている目覚めの範囲内でしか起こり得ない。
この大原則がありますから、私が目覚めについての記事を書いていれば、「あ~、木幡はここまでのレベルまでは直接伝達できるんだな」と、分かるわけです。
低次の目覚めについても書いておりますので、その辺の記事をお読みになれば、私の発言の真偽の見極めも簡単でしょう。
よくAmazonなんかの覚者の本のレヴューでは、「この本では、目覚めのための具体的方法が語られていないのが残念です。」などといった書き込みなどをよく見かけますが、そもそも「真なる自己の目覚めのための具体的方法」などというものはないのです。
あると言っている奴は○○○○だ。
「目覚めの準備のための具体的方法」なら、いくらでもありますよ。
言い換えるなら、「低次の自己の目覚めのための具体的方法」なら。
工夫を凝らせば、尽きることはないでしょう。
ですが、
のです。
そんなものがあれば、ラマナ・マハルシもプンジャジも直接伝達などはせず、口述筆記によって本を出版しておき、残りの余生は静かに暮らしていたことでしょう。
そのようなものがあれば、古(いにしえ)のあらゆる聖賢たちは、そのことを書くことに力を注いだことでしょう。
ですが、そんなものはないですよ。
スポーツの技術を高めることとは、本質的に違うのですから。
肉体や精神などといった自己の末端に働きかけるだけなら、具体的方法があれば効果があります。
ですが、
自己の末端である「肉体/精神としてのあなた」が、自己の中心・本質に働きかけることなどできようがないのです。
「自己意識としてのあなた」と「聖なるもの」との接触、つまり「真なる自己の目覚め」。
続く
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