「本物の教え」と「グル・ビジネスのための虚構の教え」

この記事は2018.11.10、13:23に更新しました。

更新内容:

記事下のコメント欄において、昨夜、新たにいただいたコメントに対して、

私からの返信コメントを掲載しました。

 

昨今のスピリチュアル業界は、グル・ビジネスというもので溢れている。

真なる自己真我)の目覚めをもたらすことができる人」であるグル(師、マスター)が、生徒に真なる自己目覚めをもたらすこと生業(なりわい)としている。

ということが建前である。

 

私の見たところ、真なる自己としての目覚めを継続し続けている人すら、そんなにいないのだから、とてもおかしな話である。

もはや悲劇を通り越して、喜劇的ですらある。

 

かれこれ、ここ50年位の間に、本物の人間たちは表舞台から姿を消していった。

消されていったと言うべきか・・・

あらゆる業界においてである。

その理由は述べない。

しかし、このような傾向はいまだに加速しつつあり、これから先、数十年は変わらないだろう。

 

真の師(グル)に由来する「本物の教え」というものは、あなたが真なる自己として目覚めていくにしたがって、その目覚めについて語られている言葉が次々と腑(ふ)に落ちていく。

つまり、それまでの疑問が一つ一つ解消されていく。

だから、

あなたは真なる自己目覚めの深まりと共に、シンプルになっていく。

修行は自ずと落ちていく・・・

教えさえも落ちていく・・・

あらゆる言葉が落ちていく・・・

 

そして、

従来の過剰な精神活動は静まり、

従来のあなたが落ちていく・・・

 

あなたは本来の感受性を取り戻し、

本来のあなたを自覚し始めていく・・・

 

当たり前のことである。

そのような本物の教えは、「慈悲やハートという名の良心」に満たされており、狡猾(こうかつ)さや無知などに由来する嘘が入り込むスキがないのだから・・・

しかし「グル・ビジネスのために作られた虚構の教え」というものは、あなたが真なる自己として目覚めつつあっても、その教えの言葉が腑に落ちない。

目覚めのや悟りについての真実を映し出していない」のだから、「真なる自己目覚めの検証が正確にできない」ことは当然である。

 

だから、次から次へと終わることなく新たな疑問が生じてくる。

「私には、他に何が足りないのだろうか?」

そうして、次から次へとまた新たな課題が課されていく。

次はカルマのワーク・・・

ハートのワーク・・・

パーソナリティの浄化・・・

ガイダンス・・・

などといったように・・・

真なる自己目覚めの本質から更にかけ離れた枝葉の方向へと逆戻り・・・

 

「私が体験しているものは、本当に真なる自己目覚めなのだろうか?」

「もう一度、最初から読み直してみよう。」

あなたは後戻りして、何度も何度もスタート地点に戻らされていく・・・

 

一度入ると決して抜け出すことのできない迷路である。

 

それは「薬では治らない病気の患者」と、その患者を「薬の力によって治そうとしている医師」との哀しき依存的共存関係にも似ている。

 

そう。

それはグル・ビジネスなのだ。

それに今は、霊的(スピリチュアル)にも暗黒の時代なのだ。

 

偽物の幼稚なグルによる、なかなか巧妙なスピリチュアル・ビジネス・・・

「なかなか巧妙」というのは、そこまで巧妙ではないということなので、目覚めてはいなくとも、それなりの知性と感受性と良心を有している人間ならば騙されないということでもあります。

カッコにはこだわるが、中身は空っぽ。

タレントを使ったテレビの安っぽいコマーシャルのような・・・

形骸化された抜け殻のようなもの・・・

 

あなたは高額なセッション料としてのお金だけでなく、最も大切なものをも奪われてしまう。

残りの人生では取り戻せないくらいに・・・

 

本人はその深刻なダメージに気がついていないがゆえに、問題はさらに深刻である。

真なる自己目覚めのワーク以前に、あなたは失われたそれを取り戻すための努力で人生を終えることとなるだろう。

教育によって取り入れた変更可能な道徳という知識とは異なり、時代や地域を超えた普遍性を持つ生来の繊細な「良心というものの回復」は、そう簡単ではない。

 

良心こそがハートである。

それこそが東洋人が大切にしてきた「心」というものである。

 

それは西洋人教師たちが声高に叫ぶ「エネルギー・センターにしか過ぎないハート・チャクラ」などといった安っぽいものとは本質的に異なるものである。

 

もちろんグル・ビジネスをしている本物の師(グル)も稀にいる。

本物の師(グル)だけが、あなたを正しい居場所へと導くことができる。

しかしそのような本物の師(グル)を見つけることは、遊泳中に海で落としてしまったコンタクトレンズを見つけることくらいに難しい・・・

目覚めの前のあなたには、その印がぼんやりとしか見えないのだから。

 

だから、私は生徒やお客さんの「真なる自己として目覚めの検証」において、私の言葉の証左として、ラマナ・マハルシプンジャジの言葉を引き合いに出さざるを得ない。

彼らが疑いなき本物の師(グル)であるという、その権威を利用するためではない。

ただただ、彼らの教えが一貫して「真実を反映した本物の教え」だからである。

 

私自身の目覚めの体験においても、彼らの言葉に間違いはなかった。

全てが腑に落ちた。

疑問が解消されていった。

シンプルになることができた。

真なる自己として目覚めが進んでいる私の生徒やお客さんにおいても同様だ。

 

真なる自己目覚めは、一つだ。

その目覚めに至るまでの過程は違えど、その目覚め自体は同じものである。

ラマナの目覚め、私の目覚め、あなたの目覚め・・・

その純度や深さは異なるにしても・・・

 

果たして、あなたが信じているその教えとは、「真なる自己目覚めの真実」を映し出しているのだろうか・・・

 

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コメント

    • 通りすがりの者
    • 2018年 10月 13日

    一般の人にとって本物の師とニセモノの師を見分けるのは至難の業のように思われます。その原因の一つとして、ニセモノの師の中に、本物の師が遺した言葉をそっくりそのまま(真意を理解しているわけでもないのに)真似して語る人が少なくない、ということもあるようです。

      • 木幡 等
      • 2018年 10月 13日

      ご意見、ありがとうございます。

      そうですね。
      それでもやはり、真意を理解していない人の言葉には、真実の力とでもいうきものが宿っていません。
      それは、たとえばあなたの恋人があなたに嘘をついている時なども同様です。

      同じ言葉でも、真実と嘘とでは響きが違うのです。
      なぜなら嘘においては、たとえ立派な包装がなされていても、中身は空っぽのただの箱だからです。

      また、言葉は借り物で済ますことはできても、顔を借りることはできません(笑)
      人相の良し悪しくらいは、誰もが本能的にわかります。
      更に言いますと、いくら口では悟っているとは言っていても、その人の目をみれば、想念が渦巻いているのか、想念が見当たらないのかくらいはわかると思います。

      そのような意味で、とても大きな判断材料となる顔写真をきちんと掲載している人の中から、選ぶ方が賢明でしょうね。

      私は、そのような理由から、いくつかの顔写真を掲載しております。
      ナルシストだからではありません(笑)

    • 無意識王子
    • 2018年 11月 09日

    木幡さま

    初めまして。いつも楽しくブログを拝見させていただいております。

    ふと、コメント欄を読んでいて思ったのですが、動画とか、声の録音を出してみてはいかがでしょうか?

    木幡さまの生の声や表情を見てみたくなりました。

    文章だけでは、どうしても伝わらないものもあります。その点、言葉には力が宿ります。

    全然違う話ですが、音楽の才能もあるんですね。驚きました。

    ここに遊びに来ては、よく聴いています。

    新曲があれば、またUP、楽しみにしています。

      • 木幡 等
      • 2018年 11月 10日

      本当に無意識な人たちというものは、「自分が無意識であること」など夢にも思っていないでしょうから、「無意識王子」というお名前を拝見して安心しました。

      動画等の公開に関する、ご助言をありがとうございます。

      こう見えてもスーパー・シャイな私(笑)は、このようにネット上で記事や顔写真を掲載することさえも恥ずかしいのですが、私のことをご存知でないお客様にとっては最低限必要な情報であるとの認識から、無理をして掲載させていただいている次第であります。

      そのような必要性があるからとはいえ、「言葉による伝達」の文章においても、ネット上という公の場で、「わかったような偉そうなこと」を一方的に書くということが、私にとっては一人の人間としてとても恥ずべき行為のように感じるので、照れ隠しとしてあのようなぶっきらぼうな口調になってしまいます。
      それが、たとえ私たちの内奥に潜む魂からの声であるにしても・・・

      動画等の公開につきましては、いずれ行うグループ・セッションの様子を映したものくらいなら良いかもしれません。

      追伸:
      私の音楽に触れていただいて、ありがとうございます。
      今にして想えば、あれは「音楽による伝達」なのです。
      「聖なるもの」とのつながりの自覚がなかった15年前の私は、あの音楽を聴くことで「聖なるもの」や「その囁き」に触れようとしていたのだと思います。

      いつか、ゆっくり作曲する時間が欲しいものです (^^♪

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天使の集い

作曲・編曲・演奏・打ち込み:木幡 等

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