いつも美しくあること
この記事は、2020.07.28、20:52に更新いたしました。
更新内容:加筆に加え、新たな解説なども追加し、読みやすくするために記事を推敲いたしました。
いつも美しくあること
昨日は、マルジェラのカラーレスのブレザーとリック・オウエンスのサルエルパンツを買ってきた。
まだ7月も半ばなのだが、もう秋冬の新作コレクションのものを買ってきたんだよ。
過去の記事にも書いたことだけど、私は接客をすることもある仕事なので、私のみならずお客様の心理状態などにも影響を及ぼすこととなる洋服にも、とても神経を使っている。
もちろん、お客様との対話におけるボキャブラリーや表現方法などを増やすために本を買うこともあり、そのための書籍代などはどれだけ買っても安いものだが、それが洋服となると圧倒的にケタが違ってくる。
私が個人セッションの時によく着ているマルジェラの服などにおいては、一着20万もするようなものがざらにあるのだ。
なので、書店で本を買う時のように、少しでも気になるものは全て買い物かごに入れていくというような、いわゆる大人買い的な買い方はできやしない。
しかし、現在のマルジェラの服は、かつてはクリスチャンディオールのデザイナーであったジョン・ガリアーノがデザインしているだけあって、マルジェラのカジュアルさに散りばめられた、さりげない究極のエレガンスは他の数あるハイブランドにおいても決して真似のできないものだろう。※1
私は決してハイブランド好きというわけではないが、洋服探しにまで時間や手間をかけることはできないので、私が行きつけのお店で手に取って本当に良いと思う服は、どうしても結果的にハイブランドの高額なものが多くなってしまうのである。
そのような私の仕事においての(わき役として)使いまわしのきくワードローブとしてそろえておきたい服というものは、比較的簡単に見つけることができるが、(主役として)他の追随を許さないような唯一無二の圧倒的な服に出会うということは、めったにない。
その時々のコレクションによって、当たりはずれもあるし、それが私に似合うものなのかどうかという別の問題もある。
また、そのような服はどれだけ高額であっても(限度はあるが)、すぐに売れてしまうのである。
そのような意味においては、恋人探しや結婚相手探しにも似ている。
それゆえ私は、6月頃から秋冬物を探し始めることとなる。※2
なぜなら秋冬のコレクションが、その頃から少しずつ入荷されてくるからである。(今年はコロナの影響で、少し遅くなっているようだ。)
行きつけのセレクトショップの店長さんには、私に似合いそうなものが入荷したら、店頭に並べる前に、私に連絡をしていただくようにもしている。(これはアパレル業界において、珍しいことではないのです。)
特に小売りのハイブランド系セレクトショップでは、在庫を抱えてしまうことは赤字を抱えてしまうことと直結するので、物によっては一点しか入ってこないものも珍しくない。
しかも、定番品ならまだしも、そのような他の追随を許さないような唯一無二の圧倒的な服というのは今期のコレクション限りのものであることが多いので、新たに仕入れてもらうこともできない。
それゆえ買う側からすれば、即決が求められる。
なぜなら、そのまま家に帰って考えている間に、他の常連さん方である、おしゃれのツワモノたちがすぐに購入していくからである。
しかし1着10万円から20万円もする洋服を購入するか否かを、短時間で即決するのは容易ではない。
そのような逸品が1着だけの時ならまだしも、数着もある場合はなおさらだ。
さらに、モノによっては、同じ物を色違いで購入する時もある。
そうともなれば、たった一回の買い物ですぐに50万円などといった額になってしまう。
そのような高額な支払いの選択の中での即決、それはまるで株の売買のようだ。(私は株については詳しくないが・・・)
特に秋冬物は、ウール素材やカシミア素材が使われていたりするので、春夏物よりも金額が高くなりがちだ。
とはいえ、そのような特別な服との素敵な出会いというものは、まさに一度限りの貴重な機会となり得るので、今後も似たようなデザインのものが出そうなら、様子を見る場合もあるが、そうでないものなら迷わず購入する。
私はオシャレやファッションが好きというわけではないが、仕事柄、接客をすることとなるので、お客様が不快になるような汚い恰好であっては絶対にいけない。
できれば、お客様から見ても美しいと感じることのできるものを身につけていたい。
だからそれは、仕事においての必要性なのである。
たとえばそれは、読者様方のお目に触れる私のサイトのデザインにおいても「少しでも美しいものしたい」、そのことにおいても同様であり、一事が万事だと思っている。
日常においてできないことを、ここぞという時だけやろうとしても、必ず付け焼き刃になってしまう。
それは観る人が見れば、何とも言えない違和感を感じさせることとなるだろう。
そして、たとえ無自覚的であろうとも、ハートとはとても繊細なものなのだ。※3
だから日常においての何気ない言葉使いなども含め、(精神面においても)私はあらゆることにおいて、私なりの基準でいつも美しくあることを常日頃から心がけている。
それは、いわゆる美意識とは異なるものだ。
歳をとればとるほど、人の顔や振る舞いや文章などにはその人の心や人間性、生きざまなどが深く刻み込まれていくように、私にとってのファッションとは、私のハートや精神性を表面にも刻み込んでいくための手段の一つなのだ。
もちろん、それが”見えていない人たちからの評価”などは気にしないし、気にしている暇などありはしない。
しかしそのことによって、私の周りには”私のハートや精神性などが見えている人たち”だけが集まってくるという、結果的な好循環をも生み出していくのである。
つまり、そのような意味において、私の顔や振る舞いや文章のみならず、私にとってはファッションさえもが、付き合うべき相手か否かを篩(ふるい)にかけるための篩(ふるい)の役割ともなっているのである。
しかし何といっても、超一流のデザイナーが作り上げた洋服たちは危険だ。
何と言っても、お金がかかる。
それに、マルジェラなどのモード系の洋服だけを単体で見る分には、「なんか変わった服だな・・・」というような印象しかないのだが、実際に袖(そで)を通して着てみると、そこには緻密に計算された美しさ、その洋服に込められたデザイナーの意図というものがはっきりと見えてくる。
つまり、袖(そで)を通したとたんに魔法がかかるのだ。※4
よって(主要都市での活動も視野に入れているので、)去年も今年も一年間の洋服代として、サラリーマンの年収くらいの金額は使っている。※5
しかしこれも、私の仕事の一部なのだ。
それゆえ、おろそかにすることなど、できやしない。
だから、そのような意味において、私はファッションにおいても真剣なのである。
注釈
※1
この業界のスピリチュアルセッションにおいてと同様、洋服もその劣化版コピーなら格段に安く買えるのだが、私は何においても、そのようなマガイモノならタダでもいらないという性分なのだ。
※2
冬になってから冬服を買いに行った時には、もはや売れ残りのものしか手に入らない。
だから、おしゃれな人は早めに買いに行って、良いものを確実に手に入れて、ますますおしゃれになっていく。
しかし、おしゃれでない人たちは、売れ残りのものの中から選ぶしかないため、いつまでたっても本当のオシャレにはなれない。
これは、お金持ちだけがますますお金持ちになっていくという経済の法則にも似ているよね。
ちなみに私はモテたいわけでもオシャレになりたいわけではありません(笑)
ましてや、見るからにオシャレというベタなスタイルは大嫌いなのです。
私の精神性をも反映してくれるような、そのような意味においての私らしいスタイルというものを追及しているだけであります。
※3
「たとえ他人が見ていなくとも、神は全てを観ている」というのは、このことと同じ意味である。
※4
そして私の行う直接伝達や個人セッションと同様、わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない。
それは芸術を鑑賞することや料理を味わうことなどにおいても同様、何事においてもそうなのである。
無自覚的に感じとってはいても、そのことを理解することや評価することのできない人たちもいる。
※5
私は何をするにも徹底的なのである。
以下の記事には、その理由についても書いています。
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