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「転調と転生」の法則

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この記事は2024.2.3、11:00に更新いたしました。

更新内容:記事下にいただいたコメントへの返信を再公開いたしました。

「転調と転生」の法則

10代の頃の私は、作曲に情熱を傾けていた。

それゆえ、お小遣いや貯金のほぼ全てはCDに費やしていた。

当時の私においては、「生活の前に作曲がある」、「作曲こそが生活である」、そのような毎日なわけで、何をするにも作曲のことがまず先にあるのである。

勉強なんかもそっちのけで、学校での授業中も、先生にバレないようにイヤホンで音楽を聴いては、作曲のセンスを磨くための糧にしていたのだ。

私なりの勉強こそが、何よりも大切なのであ~る。

その姿は、まるで「道中の工夫」に励む禅の修行者のようだ。

目的をもって何かをものにしようとしている時の私は、とにかく激しいのである、とてつもなく徹底的なのである。

そのような情熱オバケ※1と化している時の私は、将来のことなど気にしない。

「今」が全てだ。

当時の恋愛においても同様、そこに全てをかけていく。

最近では仕事での必要性から(私が汚い格好をしていることでお客様に不愉快な思いをさせるのは論外なので)、ファッションにおいてのある意味での情熱オバケと化しているが、今はその頃とは境地がまったく違うので、表面的な情熱オバケにしか過ぎないが、昨年は洋服代(眼鏡や靴を含む)だけでもかなりの額を費やしている。

それゆえ、私が買い物依存症になっているのではないかと心配してくれた人たちも少なくない(笑)

行きつけのメガネ屋さんのオーナーからは、ドクターストップよろしく、「しばらく買うのは、やめてください」と示唆されたことがあるほどだ(笑)

つまり、私はバカなのだ。

しかし私の場合は、当時CDを買うことも、現在洋服を買うことも、いわゆる物欲に由来するものではなく、そのセンスを磨くためや、見識を拡げたり深めたりするための投資でもあるいうことを明確に自覚しているので、私は何と思われようともヘッチャラなのである。

物は壊れたり無くなったりもするが、一度しっかりと身につけたセンスや見識などは、どこまでも育んでいくことができるのだ。

そして、このようにして「身につけたセンスや見識というものも、来世へと持ち越されていくもの」の一つであるのだと私は確信している。(死んだ後の私が、また人間として生まれてくるかは別として・・・。また、そのような動機から行っているわけでもない。)

作曲に話を戻そう。

作曲における情熱オバケであった当時の私は、一日中、作曲に関わることをしていたのだが、中でも、静かな真夜中に行う作曲というのが一番好きな時間であった。(それゆえ、高校性になるとあまり学校にも行かなかったし、行ったとしても授業中には熟睡してた。)

今になって思えば、私は唯一その作曲という時間だけにおいて、ある次元にチャネリングしていた、あるいは明け渡していた、と言えるかもしれない(笑)

当時からすでに「ある意味において、優れた作曲者とは巫女(みこ)のようなものである」と認識していたのだから・・・

そんな作曲において、私は転調というものを意図的にすることが多々ある。

転調とは、その曲のベースとなっているキー(調)というものを、別のキー(調)へと変えることである。

つまり、キーにおいての次元が変わるのだ。

なぜそのような転調というものをわざわざするのかと言うと、転調をすることなく、同じキー(調)だけで一曲が終わってしまうと、どうしても新鮮さというものが感じられなくなってしまいがちだからである。

裏を返せば、転調なき曲というものは、良くも悪くもあまりにも予定調和的な流れになってしまうので、曲の流れがあまりにも予測可能なものになってしまい、良く言えば親しみやすく覚えやすい曲であるという反面、退屈になりがちで飽きやすい、という負の側面もあるのである。

つまり、そのような転調なき曲というものには、予測可能な心地良い安定はあるが心地良い裏切り(あえて期待に背くこと)というものがない。

人は、予測可能な安定だけだと退屈になり、予測不能な裏切りだけだと疲れてしまう。※2

予測可能な安定をベースとした中でのささやかな裏切り、それこそが予測可能な心地良い安定の中での心地良い裏切りとなって、聞き手にとっての飽くことのない心地良さをも生み出してくれるのである。

勘の良い人なら、もうお気づきのことだろう。

これは夫婦生活や恋愛などにおいても同様の法則だ。

安定(馴れ合い)をベースとした中での何気ない裏切り(ときめき)、その絶妙なバランスこそが長く続く関係の秘訣となり、なおかつ新鮮さをも失わずにいさせてくれるのである。

さらに言うなら、お笑いなどにおける「オチ」とは、一定した安定の末の「最後の大きな裏切り」のことなのである。

まともな話(想定内の常識)の最後に、オチ(予想外の非常識)がやってくるので、「んなアホ(非常識)な!」となって、「笑い」となるのである。

言い換えるなら、(笑いのセンスのない人にありがちな)裏切りのない安定したオチ、つまり予測可能なオチなどというものでは、ただの普通の話でしかなく、オチとは感じられないのである。

つまりお笑いにおいても、常識(まとも)というものをきちんと把握していなければ、そうではないもの、つまり上質なオチとなる予想外の非常識(アホ)を見つけることができない。

それと同様に、作曲技術に長けた人も、安定の中にわずかな裏切りを織り込んでいく。

それが結果的にリスナーにとって、心地良い安定の中の心地良い裏切りとして感じられるのである。

かといって、安定なき裏切りの連続では、「ついて行けない」、「意味が分からない」、もしくは「アバンギャルド的(前衛的)」なものになってしまうのである。

とはいえ、一口に転調と言っても、私はその曲の必要性に応じて、素人にはわからないほどのさりげない転調もするし、それまでの雰囲気を一気にガラッと変えてしまうような、そんな極端な転調をすることもある。

しかし、どのような転調であれ、「転調をすること」は簡単だが「もとのキー(調)に戻ること」の方が難しい。

ゆえに、その戻し方にこそセンスが問われるのである。

お部屋を散らかすのは簡単だが、片付ける時の方が難しい。

人間関係をこじらせるのは簡単だが、仲直りすることの方が難しい。

「結婚する時よりも離婚をする時の方が大変だ」とは、よく聞くことではありますが・・・(笑)

意識の根源の次元」から「肉体次元」へと飛び出していくことは簡単だが、「肉体次元」から「意識の根源の次元」へと還っていくことは難しい。

言い換えるなら、「想念に巻き込まれること」は簡単だが、それさえも克服して、さらには「悟りというシンプルな状態に還ること」は難しい、ということにおいても同じなのではないでしょうか・・・

アダムとイブにおいて「楽園から追放されること」は簡単だったが、「楽園に帰ること」は極めて困難であったように(あまり聖書に詳しくはないですが)、現代のアダムとイブである、探求者たちのみならず、人類を悩ますものも同じような法則によるものなのでしょう。

「魂の次元から肉体の次元へと転調する(飛び出す)のは簡単だが、肉体の次元から魂の次元へと還っていくこと(悟り)は難しい。」

「魂から人間へと転調(転生)するのは簡単だが、人間から魂へと還っていくこと(解脱)もまた難しい。」

先の安定と裏切りのバランスの理論からしても、意識の根源」から「肉体次元」へと転調していくことは楽しいが、転調なしで「意識の根源」にい続けることは退屈なのである。

やはり転調(転生)という裏切りが欲しいのである。

それは魂に由来する衝動なのだろう。

「魂に由来する衝動」、すなわち「魂にとっての転調」とでもいえる「心地良い裏切り」への果てなき憧れ、それゆえ人類の祖先であるアダムとイブは智恵の実を食べてしまったのかもしれません・・・

そう考えると、なんとも微笑ましい話ですよね。

そのような観点から言うなら、「魂に由来する衝動」とでも言える「アダムとイブの衝動」というものを私は否定する気など起きません。

それを原罪とか罪とか罰とか、そんな言葉に閉じ込めて欲しくはない。

人間の世界とは、「アダムとイブの衝動」による様々な転調によって生み出された多様性の世界であり、私たちはそこで、その転調(転生)の美しさをも楽しむのである。

そして、あらゆる転調(転生)にも飽きてしまった魂たちは、転調することはできるが、戻すことができない未熟な作曲家のように、自己探求と称して、転調(転生)前の世界へと戻るための試行錯誤を始めるのである。

そしてたどり着いた高次のハートによる悟りの世界とは、音の根源の次元、すなわち音楽が鳴り響く前のような深遠な世界であり、そこには音なき音、静けさよりも静かな静けさによる愛のハーモニーが流れている・・・

おっと、あぶない、あぶないっ・・・

この話においても私は、音楽の話から悟りに関する話へと「転調させてしまった」ようなので、ここでは簡単な技術を使って「一気に戻す」ことといたしましょう。

「♪ 閑話休題 ♪」

なんてね・・・

他の記事と同様、この記事でも、音楽やお笑いや悟りなど、スピリチュアルな観点を交えて多岐にわたって色んなことを書いてきましたが、この記事で書いた様々な観点から、以下の私の曲をあらためて聴いていただけると、何か新たな発見があるのではないでしょうか・・・

音楽的な観点から聴くなら、さりげない転調(裏切り)もさることながら、転調を戻す私の数々の技にも注目して、私らしい裏切りの数々を味わってみて欲しい。

天使の集い

作曲・編曲・打ち込みと演奏:木幡 等

そして最後に告げよう。

「あまりにも転調(転生)を繰り返し過ぎて、もはやどれが最初のキー(魂としてのあなたの居場所である意識の根源)であったのかすら、わからなくなってしまった・・・」

そんな現代のアダムとイブたちである、最愛なるあなたのために、私はノーコンタクト・セッションと称しての直接伝達言葉による伝達などを行っているのでありんす。

そして、楽園への帰還を夢見るアダムとイブたちが退屈しないよう、直接伝達においても、「言葉による伝達」における私のキャラクターにおいても、これまで同様、裏切り続けていく予定だじょ(笑)

しかしいずれにせよ、やはり私は、この話にオチをつけることさえもできないバカなのであ~る。

注釈

※1. 情熱オバケとは私の造語でありますので、Googleなどでキーワード検索をしても、そのような言葉は出てきません。(2020年7月23日時点)

※2. 作り手と聴き手とのセンスの開きがあまりにも大きいと、聴き手はついていけなくなる。

洋服などにおいても、パリコレなどの服においては、素人からすれば「何がどうカッコいいのか、まったくわからない」といったような服や着こなしが多々あるように・・・

2020年6月13日、この日の先生は・・・~お洋服のお買い物~

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  1. F.R.

    ここに記事の感想を寄せてもよろしいでしょうか?

    記事を拝見して、生き方からお笑いのツボまで多様な話題が巧みに転調しながら鮮やかに流れるので心が踊ります。
    心臓もゆらぎながら拍動するので、生き物はちょっとした意外性が心地良いのかもしれませんね。

    魂と根源の関係へのお考えも読めて、それが私の思う以上に深遠で愛に溢れているので、見ておられる世界はどんなだろうかと思わずにはいられません。

    「天使の集い」も美しくて、とても好きで何かにつけてよく聴いております。
    技術的な事は分からないのですが、聴くたびに微妙に違っているので、毎回新鮮に感じています。

    • 木幡 等 Hitoshi Kowata木幡 等 Hitoshi Kowata

      >ここに記事の感想を寄せてもよろしいでしょうか?

      もちろん、いいよ、いいよの松本伊~代でございます。
      私からの、いきなりの転調みたいで、なんですけども・・・(笑)
      しかし、伊代はまだ16だから ♪

      当記事における推敲の余地は多分にございますが、私のようなバカにしては、悪くはない記事だったと思います(笑)

      >「天使の集い」も美しくて、とても好きで何かにつけてよく聴いております。

      せっかく聴いていただいても、印税が入らないのが残念です(笑)

  2. I. H.

    木幡 様

    たしかに一見さらっと聴く印象とは別に、耳を澄ますとかなりテクニカルなことをされていますね。
    表現において、いつも技巧が目立たないように、あえて自然なかたちにならすのが、木幡様の美学ですね。
    (また、シャイで優しいところでしょうか)

    間奏の 天使の集う、恩寵部転調 から、元のキーのテーマに戻ったとき、
    再び、「普段の日常」がやってくるわけですが、
    戻っても以前のままではない、「何か」が示唆されています。

    何気ない普段の営みが、今度は大切な何かに感じられるような。

    また、これは悟りとは関係ありませんが、

    私も以前はかなりの数の古い洋楽のアナログレコードを蒐集していました。
    (もうだいぶ手放してしまいましたが。。)
    だから、「凝る」ということに対しシンパシーを感じます。

    男は凝らなきゃ! ですよね。

    何か一つでも、なりふり構わずに徹底的に凝れば、どんなジャンルの方とも本質的に通じ合える気がします。
    その情熱のコアの部分は同じですものね。

    また、そのような情熱が良い仕事を生むと信じています。

    • 木幡 等 Hitoshi Kowata木幡 等 Hitoshi Kowata

      >たしかに一見さらっと聴く印象とは別に、耳を澄ますとかなりテクニカルなことをされていますね。

      具体的に言うと、どの辺をそうお感じになられたのですか?
      メロディー的な部分なのか、ハーモニー的なものなのか、和音の構成をも含めてハーモニー的な流れの部分かなど・・・
      私が無自覚的にやっている部分かもしれないですから、そう意味においても、ぜひ教えていただきたいです。

      テクニカルという範疇には入らないかもしれなせんが、メインメロディーであるピアノの旋律においても、ホリゾンタル(水平的=メロディアス)な組み立ての中に、バーティカル(垂直的=和音的)な組み立てなども織り込んだりしています。

      ある時期のジョン・コルトレーンなどが、バーティカル(垂直的=和音的)な組み立てで表現していましたよね。
      ですから、いわゆるメロディーとしては感じられない、という人も多いでしょう。

      技巧的な部分においては、一つの音に聞こえるものも、よく聴くと、半音下の音からグリッサンドで入ることで、柔らかで滑らかに聴こえるような工夫などもしています。

      あとは1度3度5度と言った和音に含まれている予測可能な音をなるべく避けながらも、結婚式用の曲なので、メロディアスに感じれるような工夫もしています。

      1度3度5度といった、ありがちな音を避けるようにメロディーを組み立てている箇所もあるので、耳の肥えていない人にとっては、メロディアスには感じられないと思います。

      >間奏の 天使の集う、恩寵部転調 から、元のキーのテーマに戻ったとき、
      >再び、「普段の日常」がやってくるわけですが、
      >戻っても以前のままではない、「何か」が示唆されています。

      間奏のストリングス中心のクラシックスタイルから、間奏後のピアノ中心のジャズスタイルに戻ってからの2小節目の一拍目から二拍目にかけてのメロディーですね。
      肝は二拍目のメロディーです。
      そのつなぎの為に一拍目のメロディーもわずかに変化させています。

      音楽的知識のあるなしに関わらず、とても繊細なセンスを持ち合わせていないと、この違いはわからないと思います。

      そこが、「戻っても以前のままではない希望」のようなものです。
      やはり、言葉にすると陳腐になってしまいますね。

      だからこれは、音楽という言語でしか、表現できないものなのです。

      • I. H.

        >具体的に言うと、どの辺をそうお感じになられたのですか?

        (自分で言っておいてすみませんです。)

        私はギターが弾ける程度で、コード構成での理解が主ですので、、
        残念ながら、正確に分析して、ここで記述できるだけの音楽的素養がありません。
        また、音を確認できる楽器が手元にありません。

        ただ、コードの構成やハーモニー的な流れの部分で、とても凝った職人的な気質を感じます。
        それなのに、一見ではそれを感じさせない、リラックスして聴ける面が前にきます。

        そのような作品上の個性が、サイト構成や文章でも共通している、木幡様のらしさ、だと(僭越ながら)思った次第です。

        >テクニカルという範疇には入らないかもしれなせんが、メインメロディーであるピアノの旋律においても、
        >ホリゾンタル(水平的=メロディアス)な組み立ての中に、
        >バーティカル(垂直的=音を高低に散らした和音的)な組み立てなども織り込んだりしています。

        私にもそう聴こえます。

        セロニアス・モンクを感じたり、少しモダンな感じがするのはこのあたりなんでしょうか。
        もちろんコルトレーンみたいに、極度にコードの構成音を敷きつめる感じとは違う、もっと抑制のきいたスタンスではありますが。

        たった三分半なのに重厚です。
        ジャズというより、印象主義っぽいですね。
        なんとなくヨーロッパのエレガンスも感じますし。

        >肝は二拍目のメロディーです。
        >そのつなぎの為に一拍目のメロディーもわずかに変化させています。
        >そこが、「戻っても以前のままではない希望」のようなものです。

        リリカルで美しいですね。
        無色透明の希望です。

        >やはり、言葉にすると陳腐になってしまいますね。
        >だからこれは、音楽という言語でしか、表現できないものなのです。

        たしかに音楽の持つイメージの無限性と対比して、言葉はとても限定的に感じます。
        言葉は限定的であるがゆえ、知性でのコミュニケーションが成立するわけですけども。
        音楽を語るのはやはり難しいです。

        これは「高次のハートの直接伝達」の際にも同じような思いを強く感じました。

        上手く言えないのですが、
        その曲の、音の鳴っていない場所(領域)から、鳴っている場所を眺めるように聴いています。

        • 木幡 等 Hitoshi Kowata木幡 等 Hitoshi Kowata

          沈黙を際立たせるための言葉というものもあるように、静けさを際立たせるための音もありますよね・・・

          そして、音楽において、心はメロディーやハーモニーの美しさなどに感動をしますが、魂は、美しい音楽が鳴りやんだ後の静けさの方に安らぎを感じます。

          美しい音楽が鳴り響く前の「静けさ」と、その音楽が鳴りやんだ後の「静けさ」・・・
          その「静けさ」そのものは変わらないものですが、その魂にとっては違うものとして感じられるのではないでしょう・・・

          それは、まるで「生まれたての魂」と「輪廻を終えた後の魂」のような・・・

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