真我実現(悟り)のために効果的な二つの瞑想法〜「猿の道」と「猫の道」~
この記事は2024.9.20、13:15に更新いたしました。
今は亡き、最愛なる家族として私と共にいてくれた愛猫「グレイス」と「空(くう)ちゃん」に捧ぐ。
更新内容:2024年9月より、真我実現(悟り)における定義の改善に伴い、本記事のタイトルおよび本文中の用語を変更いたしました。
昨日の記事(『食べるということについて ~インプットとアウトプット~』)から、何が言いたいかというとだね、
修行においても目覚めの過程においても、
あまり深刻になりなさんな。
と言いたいわけだ。
「もっと楽しみなさい。」
「めい一杯、体験できる喜びを享受しなさい。」
人生とは、つまるところ、あなたにとっての体験の場、体験の機会だ。
私たちは、苦しむために生まれてきたわけじゃない。
さてさて本題、さて本題・・・
執着することが良くないというのは、何かに執着して依存してしまえば、それが失われた時に不幸になるからでしょ?
それが失われるかもしれないという恐れの想念が、あなたの内なる平和をかき乱すからでしょ?
しかし真我に対してだけは、執着すればするほど失われなくなるわけですよ。
真我に執着すればするほど、あなたの内なる平和はどこまでも深まり拡がっていく。
だってそれ(真我)だけが、あなた(意識)と一つになれるものなのだから・・・
本来はあなたと一つであったものなのだから・・・
だから、真我に対する執着にだけは、裏切られることがない。
さらには、あらゆる病的な執着までをも洗い流してくれるのだから・・・
つまり、あなたの人生において、本当の意味で執着に値するものなど、真我以外にはないということだよ。
だから、真我に執着しなさい。
それが、本当の意味での想念を手放すということになるわけですよ。
「真我の直接体験」によって流れ込んでくるきれいな水でしか、泥(想念)を洗い流すことはできないんだ。
泥水(想念混じりの瞑想)で、泥(想念)を洗い流そうとしても、それは泥(想念)の塗り替えにしか過ぎない。
時にその泥水は、神秘的な美しい模様を生み出すかもしれないが、しょせん泥水は泥水でしかないわけだ。
だから、真我を愛しなさい。
それができなければ、自分や他人を本当に愛することなんてできないのだから・・・
真我だけを愛しなさい。
あなたが今の自分の在り方に、違和感のようなものを感じているのであれば・・・
真我として目覚め始めたばかりのあなたは、生まれたての赤ん坊だ。
その始まりは猿の道だ。
その移動(目覚めの進展)の過程においては、あなたは母なる真我に、しっかりと掴(つかま)っていなければならない。
バナナ(想念)に気をとられちゃいけないよ。
たとえ振り落とされたとしても、決して母親を見失ってはならない。
赤ん坊が生きていくためには、母親に執着し続けなければならない。
バナナ(想念)のことは放っておいて、母親(真我)だけを見つめていなさい。
母(真我)の愛だけを感じていなさい。
神の子供である魂は、バナナ(想念)によってではなく、母(真我)の愛によって成長するのだから・・・
それが「真我の目覚め」のステージにおける明け渡しということだ。
それこそが「真我実現(悟り)」のための瞑想の本質なのだ。
そして次は猫の道だ。
この段階(ステージ)にまで来ると、その移動(目覚めの進展)の過程においては、母なる真我が、あなたをくわえて離さない。
あなたは、そのために何もする必要がなく、ただそのことに気づいているだけでいい。
さすれば母なる真我が、あなたを必ず正しい場所へと運んでくれる。
ここまで来れば真我実現(悟り)は、もうすぐだ。
このステージにおいて、明け渡しは自ずとなされている。
あなたは、そのことにただ気づいているだけでいい。
もはや、
あなたに努力はいらない。
それは「自力から他力への明け渡し」でもある。
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