中庸であるということ
探究者が中庸であるように導くこと。
私が他所とは異なる記事を書いている目的の一つに、このことがあります。
偏った部分的な見方ではなく、その全体に内在する本質が見えているということ。
私は探究者の偏った見方に気づかせるために、あえて偏ったような表現をすることがあります。
一部の人たちがアジズ・クリストフ(アナディ)やフーマン・エマミの教えを鵜呑みにしている喜劇を目にすれば、「目覚めが起きていない人が読んだら魅力的に見える教えではあるが、すでにそれなりの目覚めが起きている人や長期間に渡って修行に専心してきた人などが読んだら、重要な部分においては首をかしげざるを得ないところが沢山ある。益もあれば害も多い教えである。」などといったように。
実際に生徒にも「アジズ、フーマンの本は、いずれゴミ箱行きになるとは思うが、しばらくは押し入れにでもしまっておきなさい。」と言い続けてきました。
それらの本に書いてあることを全て鵜呑みにされたら、せっかくの目覚めの進展が阻害されてしまうからです。
それはこれからも変わらないでしょう。
いずれ私は、エックハルト・トールと同様、彼らの名前すら取り上げないでしょう。
話を戻します。
中庸であるということ。
まっすぐ立つことが大切なのは当然ですが、右に傾き過ぎている人がいれば「もっと左に傾け!」と表現することもあるわけです。
時には、そういった「アンチテーゼとしての発言」をすることで、日本の探究者の在り方が偏らないようにしている場合もあるわけであります。
ですから当然のことですが、自己主張などといった低い次元の衝動を満たすためのものではありません。
その精神は、私が「少数派」という記事で書いたことにもつながっています。
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