エゴ
この記事は2023年2月22日、22:28に更新しました。
更新内容:ささやかな推敲をいたしました。
はじめに
この記事においては、私なりに「エゴとは何か?」を説明するために「魂」という言葉を用いているので、まずは「魂とは何か?」についてを簡単に定義しておきます。
とはいえ、同じ一つの言葉にも様々な定義や解釈があるものなので、あくまでも「現在の私の境地に伴う理解」に基づく「私なりの定義」であるということ、言うなれば「自己の進化や悟りを目指す探求者のために書かれたものである」ということをご理解ください。
(自己)同一化とは
「知覚/認識の対象」を「自己」と同一であるとみなすこと。
要は、
知覚/認識の対象 = 私
と誤解してしまう(=思い込んでしまう)ということだ。
たとえば、あなたが感情的に大きく揺さぶられた時などにおいては、
感情 = 私
になってしまう、
ということなり。
「感情」なんぞというものは「あなたの意識内における内容物の一部」でしかなく、「あなたそのもの」や「あなたの本質」ではないというのに・・・
魂とは
魂とは「感受性の主体としてのあなた」のことだ。
「感受性の源泉」
「感受性そのもの」
と言ってもよい。(※1)
これらのことを踏まえた上で、ここからエゴについてを私なりに定義してみる。
エゴとは
エゴとは「知性と同一化している魂」のことである。
言い換えるなら、
エゴとは「知性と同一化している感受性(の主体)」のことである。
もちろん「知性との同一化」には、
「思考内容(考え)との同一化」
「思考活動(考えるという行為)との同一化」
「想念(イメージや思いや連想など)との同一化」
までもが含まれている。
このような意味も含めて、エゴとは「知性と同一化している魂(感受性)」のことなのである。
ゆえに、エゴとは「実体」ではなく「状態」なのである。(※2)
このように考えれば、エゴとは「あなたという実体」ではなく「魂の眠りの状態」なのだということがわかるであろう。
知性
↑
感受性(魂)
↓
存在性
エゴ:魂の眠り
知性との同一化
知性
↑
感受性(魂)
魂の覚醒
「存在性とのつながり」の回復
感受性(魂)
↓
存在性
そして、もちろんおわかりのように、「知性と同一化している」ということは「良くも悪くも思考活動が活発である」ため「思考に巻き込まれやすい」ということである。
それは、魂としての内なる安らぎを奪ってしまう。
あなたのエネルギーを吸い尽くしていく。
現代人は思考に取り憑かれたゾンビのようなものなのだ。
「知性との同一化」に伴う「思考との同一化」によって、魂(感受性)は内なる広大な空間である真我(存在性)とのつながりを絶たれてしまう。
このような「思考との同一化」によって「頭の中の狭い空間に閉じ込められてしまうということ」は窮屈きわまりないものである。
魂が目覚めようとしている者たちにとっては「(魂が)窒息しそうな苦しみ」ともなる。
こうして、私たちは「エデンの園」から追放された。
しかも、それは「解放と見せかけた追放」であったのかもしれない。
いずれにせよ、私たちは「エデンの園」から追放された。
しかし、その自覚から、「魂の自由」へと向かう「真のスピリチュアルな探求」すなわち「切実な自己探求」が始まるのだ・・・
とはいっても、「エゴの状態」も「本来の姿(悟り)」へと至るまでの進化の段階の一つである。
私たちは「抽象思考能力」を手に入れたことによって、知性をさらに高度に進化させてきた「人間」という生き物である以上、その進化の過程において「エゴの段階」を通らざるを得ない。
そして、その状態に疲れ果てたら、その限界にうんざりしたなら、あなたは「エゴの段階」をも超えていかねばならない。
そのための処方箋こそが、瞑想などを始めとした真のスピリチュアルワークなのである。
しかし、探求者たるもの、以下のこともわかっていなければならない。
「薬を飲み過ぎると、さらに酷い病気になるということ」
「間違った薬を飲み続けると、さらに酷い病気になるということ」
「正しい薬でも飲み方を間違えると、さらに酷い病気になるということ」
「応病与薬」とはうまく言ったものだが、「エゴの段階においては、自身でその見極めができない」というのが厳しく悲しい現実なのである。
あなたの運命に幸あれ!
「知性や思考との同一化」に話を戻そう。
もちろん、悟った者でも「話しや考えごとに夢中になって、ついうっかり知性と同一化してしまうこと」はあるだろう。
しかし、それは瞬間的な出来事にしか過ぎない。
彼らは知性と慢性的に同一化しているわけでもなく、知性との同一化を切り離すことができないわけでもない。
それゆえ、彼らにとってエゴは全く問題にはならないどころか、それはそれで「楽しい遊び」なのである。
思考や感情との同一化についても同様である。
しかし当然のことながら、彼らにおいても、その肉体や魂は本能に基づいて不快を避けたがるものである。
そしてもちろん、探求者が知性との同一化を断ち切るためには「存在性(真我)との接触」がなければならないのは、言うまでもない。
知性
↑
感受性
↓
存在性
上の図を簡略化したもの
(エゴだけが「実体」ではなく「状態」であることに注意)
エゴ
↑
魂
↓
真我
「自然発生的な同一化」の流れ
思考 ← 知性/エゴ
↑
感情 ← 感受性/魂
↑
存在性/真我
上の「自然発生的な同一化」の流れは、「非顕現の次元」から「顕現の次元」へと向かう自然なエネルギーの流れに沿って生じている。
よって、あなたがこれまで通り、快と不快とを振り子のように動くだけの「思考や感情の次元」だけで生き続けていくのならば、それはそれでそのままで良い。
それはそれで修行のようなものなのだ。
しかし、あなたが思考や感情によって乱されることのない「魂としての内なる安らぎを得る」ためには、これを逆行しなければならない。
それは大きなチャレンジだ。
そして、上の図を見てもおわかりのように、「思考」よりも「感情」の方が、個としてのあなたの本質である「感受性/魂」と距離的に近いものであるため、「あなたと思考との分離」は比較的に簡単ではあるが、「あなたと感情との分離」の方が困難となるのである。
人格と本質
知性が「あなたが後天的に教育等によって身に着けた表面的な人格」を形成し、いわゆるハートとも称される感受性が「あなたが先天的に持ち合わせている内面的な本質」を形成している。
ゆえに、生きる時代や住む地域などによって変わることのない「普遍的良心」というものは感受性に属する。
しかし、この普遍的良心こそが「悟りの種子」であり「恩寵の入り口」となるものであるということをわかっている探求者にお目にかかったことはない。(無自覚的ながらも体現していらっしゃる方は稀にいました。)
悲しい現実なのである・・・
「探求のやり方」よりも「(魂に直結した)人としての在り方」の方が切実なものであるはずなのに・・・
人間性と霊性
極めてざっくりと言うならば、「人間性においてのあなた」とは知性と感受性とのコンビネーションによって外的に表現されるものであり、「霊性としてのあなた」とは感受性と存在性とのコンビネーションによって内的に体験されるものである。
注釈
※1
魂とは「感受性の主体としてのあなた」のことだ。
「感受性の源泉」
「感受性そのもの」
と言ってもよい。
ニサルガダッタ・マハラジが「究極的には知覚だけがある」みたいなことを言っているのも同じ意味だ。
しかし、私は「知性」との対比のために「感受性」という言葉を使っているのである。
それに、知覚という言葉を使うと、視覚や嗅覚などといった肉体次元のものと誤解されかねないからだ。
「知性」との対比においてではなく、単体で扱うならば「根源的知覚」という言葉でもよいかもしれないが、なにやら余計に難解に聞こえてしまう。
なお、真我を主体として捉えた場合には、魂とは「真我に属する根源的知覚機能」でしかない。
しかし、ここでは読者目線に合わせた方便として、魂を主体ということにして話しを進めているので、あえて魂を「機能」ではなく「主体」とすることにした。
※2
エゴとは「知性と同一化している魂」のことである。
言い換えるなら、
エゴとは「知性と同一化している感受性(の主体)」のことである。
ゆえに、エゴとは「実体」ではなく「状態」なのである。
あなたが、どれだけスピリチュアル教師から「エゴを手放しなさい!」と言われてもできなかった理由が、これでおわかりだろう。
エゴとは「実体」ではなく「状態」だから、意図的に手放せるような「もの」ではないのだ。
だから、それを言うなら、正解は「知性活動をやめなさい!」なのだ。
しかし、それでも掴み所がないので、私は「思考活動は必要最低限に控えるのがよい」と指導しているのである。
「結果が出せない指導」なんてものは意味がないどころか有害にすらなり得るのでね。
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