想念を愛する人々
この記事は2021.10.6、15:45に更新しました。
更新内容:記事を推敲いたしました。
「愛」と「憎しみ」
あなたは「想念を憎んでいる」と言う。
ネガティブな想念によって喚起されるネガティブな感情によって、あなたは苦しむからだろう。
それゆえ、あなたは「想念を憎んでいる」と言う。
しかし、それは「あなたが想念を愛している」からなのだと、どうして気がつかないのだろう・・・
頭を使って考えろ!
獣ではなく人間ならば・・・
「憎むこと」は「愛すること」の反対ではない。
「憎むこと」は「愛すること」の一部なのだ。
「憎むこと」は「愛していたこと」の結果なのだから。
愛していなければ憎むこともない。
愛しているからこそ、それに対しての期待が生じ、その期待通りの結果となれば喜びとなり、期待ハズレの結果となったら憎しみとなるのだ。
「期待がある」からこそ「愛している(執着している)」とも言える。
それが「心というもの」だ。
忘れないでおきたまえ。
「愛すること」の反対は「無関心であること」なのだ。
すなわち、
「愛」と「憎しみ」は「執着」というコインの裏表なのだ。
悪魔にとりつかれた狂人
しかし、愚かな人間ほど、「想念を憎んでいる」と言いながらも「想念をとても愛している」のである。
これって何かに似てないかい?
まるで「DVの暴力男と別れられない女みたい」じゃないか?
彼のことを「大嫌い!」と言いいながらも、結局いつも彼のもとへと帰っていく哀れな女。
あなたが認めようと認めまいと、このような意味において、人間のほとんどは「ドMといえるほどのマゾ」なのだ。
つまり、彼らは「変態的な狂人」なのだ。
あなたが認めようと認めまいと、あなたは想念を愛している。
一人でいようと誰といようと「想念というお気に入りのぬいぐるみ」をあなたはいつも抱いている。
睡眠時以外は決して手放すことはない。
それでは鬱(うつ)にもなるだろう・・・
心も体も壊れるだろう・・・
あなたのエネルギーの全てが想念(および想念との同一化によって引き起こされる肉体/精神活動)に吸い取られていくのだから・・・
この世に悪魔などはいない。
(このような観点からするなら)実は「想念」こそが「悪魔」なのだ。
「想念」こそが「あなたにとってのエネルギーヴァンパイア(吸血鬼)」なのだ。
だから、私は想念になど興味がない。
だから、探求者の戯言(たわごと)にも興味がない。(それゆえ、私に対してスピリチュアルなことについての能書きを垂れるのは、やめてくれたまえ。)
(「切実なこと」や「必要なこと」を除いて)私は人との会話にも興味がない。
想念以外の場所を源泉として出てきた言葉は心地よいので「人」には何らかの興味はあるが、その「人の想念」には全く興味がない。
私は「ドMの変態」が嫌いなので、仕事以外で人と話しなどしない。
「バラ」と「酒」
「褒め言葉」を言われた際にこそ気をつけよう。
「芳しき想念のバラ」には花と棘(とげ)とがついている。
ゆえに、花を愛でれば棘が刺さる。
どんなに酒好きな者でも、飲み過ぎて二日酔いの日には「酒なんて見たくもない!」と言うものだ。
そろそろおわかりになったかな。
あなたのナルチシズム(自身についての幻想)を酔わせてくれるような「心地よい想念」こそが、実は「想念中毒の罠」なのだ。
このような意味において「悪魔に魂を売る」のは簡単だ。
しかし、「想念という酒」を飲まなければ「ほろ酔い(うぬぼれ)の心地よさ」はないのだが「(自己嫌悪などといった)二日酔い」になることもない。
「甘い言葉」にゃ気をつけなはれ。
それが「美味しい酒」となる。
「ほろ酔い」だけでは済まされぬぞよ。
わかったかな?
それでは乾杯!
「ますます輝きを増している君の美しさ」に・・・(笑)
悪魔はいつも囁(ささや)いている・・・
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