こころの雫(しずく)
先日、久しぶりに友人宅で一夜を共に過ごさせていただいた。
私と友人、その奥様と、お酒を片手に夕食の鍋を囲んでの楽しい時間でもあった。
そして、そこでの主役は、友人のお子様でもある、まだ2歳の男の子であった。
当然のことながら、〈言葉を扱うことにおいてはまだ未熟な存在〉である〈子供〉とのやりとりにおいては、〈言葉による対話〉が少なめになる。
なので、〈こころによる対話〉での〈直接的な交流〉が行われることとなる。
そして、《こころ》とは〈魂にとっての母国語や共通語〉のようなものであり、幼き頃から私が最も得意としてきた〈声なき言語〉でもあるのだ。
そうして、短い時間ではあったが、二人の間には少しずつではあるが〈あたたかい何か〉が育まれていったような気がする・・・
そして、朝まで飲み明かしてから眠った。(お酒に弱い友人はすぐに眠ったし、お子様も眠っていらしたので、忍耐強く優しい奥様が最後まで付き合ってくださった。)
その日の夕方前に起きた私は、起きてそうそう、2歳の司令官である彼から「粘土で〈アンパンマン〉を作ること」を最重要任務として命じられた。
しかし、司令官から〈こわっち〉と命名されながらも、優秀な隊員ならざる私が作ったものはといえば、〈アンパンマン〉には似ても似つかぬ〈アソパソマソ〉ではあったのだが、司令官である彼は、私を罰することもなく、むしろニッコリと微笑んでさえいてくれた。
なぜなら、司令官である彼が必要としていたのは、〈アンパンマン〉でも〈アソパソマソ〉でもなく、私との〈こころの交流〉であったに違いないからだ・・・
それゆえ、短い時間ではあったが、真の〈人間らしいつながり〉を結ぶことができたのかもしれない。
その日の夕方、ついにお別れの時間がやってきた。
私はそこから自宅へと帰る予定になっているし、彼ら家族は車で買い物に行くらしい。
すでに薄暗くなりつつあった駐車場での別れ際、私に見守られた彼ら家族は自分たちの車へと乗り込んだ。
しかし、何やら騒がしい・・・
車の中から私との別れの挨拶をしている両親に対して、司令官でもある男の子は、何やら全身で訴えながら要求し続けているようなのだ。
そして、司令官との〈こころの通訳〉に長けた奥様が仰るには、
「こわっちも、この車に一緒に車に乗せてくれ!」
との〈ご命令〉であるらしい・・・
(ごめんね、司令官・・・)
(僕も一緒にいたいし、僕がいてあげることは構わないんだけど、君のお父さんやお母さんの事情もあるから、僕は帰らなきゃならないんだ・・・)
そして、それが〈別れの時であること〉をようやく理解した司令官は、無邪気に泣いた。
その〈こころの雫〉は、私たち大人の〈こころ〉にも伝わっていった・・・
彼は、私のことをも《自分の仲間》だと認めてくれたのかもしれない・・・
「ありがとね・・・」
「また、あそぼうね・・・」
(アソパソマソしか作れないけど・・・)
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外はもう、すでに暗くなっていた。
しかし、24時間ぶりに一人となった帰り道での運転中、〈私のこころ〉は落ち着かなかった。
もちろん、そのような〈落ち着きのないこころ〉を〈落ち着いた眼差し〉で観察している〈私〉も存在していた。
あれから、何かが揺れ動いている・・・
この感じは、なんなのだ・・・
別れの間際に〈彼〉は泣いた・・・
しかし、〈子どもたちのお手本となるべき大人〉であるはずの私は、その気持ちをしっかりと受けとりはしたつもりでいたのだが、駐車場での別れ際のその時の私は、涙を流すほどまで《切実》には悲しんではいなかった・・・
この温度差は、何なのだ?
私は《大切な何か》を見失いかけていたのかもしれない・・・
〈それ〉だけは、何よりも、誰よりも、〈失くさないよう守り続けてきた〉つもりであったはずなのに・・・
もちろん〈普通の大人たち〉より、私は〈それ〉を持っている。
だからこそ、彼は〈私との別れ〉に涙を流してくれたに違いない・・・
しかし、私は彼と同じくらい《切実》に自身の〈こころ〉に向き合うことができていたのであろうか・・・
戦後のメディアによって毒された《知性》の誤用によって、〈思考:考えたこと〉や〈感情:好き嫌い〉や〈欲求:やりたいこと〉などだけを《こころ》と履(は)き違えてしまった〈名ばかりの大人たち〉、そんな〈エデンの園を追放されたような人たち〉と関わり続けていく日常の中で、私もまた〈寂しかった〉はずなのだ・・・
そのような〈こころなき大人たちの世界〉にい続けなければならないことが、〈切実に哀しかった〉はずなのだ・・・
だからこそ、私も〈彼との別れ〉が悲しかったのだ・・・
しかし、駐車場での別れのその時は、大人たちの事情もある手前、その時の〈こころの雫〉を、私はつい振り払ってしまったような気がするのだ・・・
「ごめんね・・・」
「僕も〈こころなき大人〉になりかけていたのかもしれない・・・」
いつの間にか置き去りにされがちとなっていた私の〈こころ〉という存在を、あらためて彼の〈こころの雫〉が呼び覚ましてくれた。
そして、別れ際に彼の流した〈涙〉もまた、外にまで溢れた〈こころの雫〉であったはずなのだ・・・
それ以来、私は以前のように涙もろくなった。
このような子供のようなみずみずしい〈こころ〉を取り戻すことができたのは、どれくらい振りなのであろうか・・・
そして、「〈こころなき大人たちに溢れた群衆の中での孤独〉、そのような意味での〈寂しさ〉や〈哀しさ〉に押しつぶされてはいけない・・・」ということを再認識することもできた。
〈こころの雫〉を振り払う必要などはない・・・
もちろん、〈涙〉という〈外にまで溢れた大粒の《こころの雫》〉をこぼすか否かは、また別の話なのではあるが、せめて〈内なる《こころの雫》〉くらいはなければ、〈こころの花〉はいともたやすく枯れてしまうものなのかもしれない・・・
それを〈彼〉は教えてくれた。
〈たった一つの言葉〉さえも使わずに。
別れの間際に〈天使〉が泣いた・・・
〈こころ〉においては〈ひとつ〉であるから・・・
別れの間際に〈天使〉は泣いた・・・
〈こころ〉においては〈ひとつ〉であっても・・・
「ありがとね、司令官・・・」
そんな一滴の〈こころの雫〉が滴(したた)り落ちると、あの日の声がよみがえる・・・
「こ・わ・っ・ち!!!」
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天使の集い
木幡 等 Hitoshi Kowata
作曲/編曲/打ち込みと演奏
注釈
※1.
〈帰り道での運転中〉とは、〈自家用ヘリコプターでの運転中〉ではなく、〈自家用車での運転中〉のことである。
なぜなら、その友人宅には〈ヘリコプターを止める場所がない〉からである。
それに、自家用ヘリでの帰り道の運転中となると、この話の〈雰囲気が台無しになってしまう〉ではないか。
もちろん、それは「私が自家用ヘリを・持・っ・て・い・れ・ば・」の話ではあるのだが・・・
※2.
そのような〈落ち着きのないこころ〉を〈落ち着いた眼差し〉で観察している〈私〉も存在していた。
※3.
《知性の誤用》
《知性の誤用》によって、〈精神や魂としての成長のための舵取り役〉という〈知性としての最も重要な役割〉が果たせていないということ。
※5.
戦後のメディアによって毒された《知性》の誤用によって、〈思考:考えたこと〉や〈感情:好き嫌い〉や〈欲求:やりたいこと〉などだけを《こころ》と履(は)き違えてしまった〈名ばかりの大人たち〉、そんな〈エデンの園を追放されたような人たち〉・・・
※6.
このような〈自己〉と〈こころ〉との関係における変化や変容は、私の場合、《絶対意識の悟り》の境地に由来する要因も大きいのであろう。
そのような観点からするならば、〈こころある人たち〉と接する時には、もう少し〈顕現よりの次元〉にまで出なければならないということでもある。
言い換えるなら、それは〈大智と大悲のバランス〉の最適化における微調整の問題であるとも言えるのであるが、そこに焦点を当てると、多くの読者がついてこれなくなるので、この記事ではあえて〈こころとの向き合い方〉という観点から書くことにした。
※7.
〈こころ〉においては〈ひとつ〉であっても・・・
それは、ラマナ・マハルシのもとから離れたくなかったプンジャジの気持ちにおいても同じであったに違いない・・・
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