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アドヴァイタ

ラマナ・マハルシ

アドヴァイタ,

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この記事は2021.10.31、15:10に更新しました。

更新内容:記事の冒頭に加筆をいたしました。

 

ラマナ・マハルシと直接伝達

まずは、現代に直接伝達を蘇らせたラマナ・マハルシと直接伝達との深い関わりを紹介しよう。

以下は「あるがままに ラマナ・マハルシの教え/デーヴィッド・ゴッドマン編」より、直接伝達について言及されている文章の一部をそのまま抜粋。

太字による強調は、要点が理解しやすくなるよう私が行ったものである。

 

山嶺に暮らしはじめて数年ののち、彼の内なる覚醒は外面的な霊性の輝きを放ちはじめた。

ほとんどの間、彼は沈黙のうちにとどまっていたにもかかわらず、この輝きが数人の帰依者のグループをひきつけ、彼のグルとしての活動がはじまった。

(中略)

だが、人生のこの段階においては、シュリー・ラマナはほとんど話をすることがなく、彼の教えは特異な方法で伝えられていた

言葉による教えを与える代わりに、彼は絶え間なく沈黙なる存在の力を放射し続けたのだ。

それに同調した者たちの心は静められ、ときによって彼は彼自信が絶えず没入している、その状態の直接体験さえも与えたのだった。

後年、彼はより以上に言葉による教えを与えるようになる。

しかし、その時でも沈黙による教えは、それから学ぶことのできる者たちにつねに開かれていた

生涯を通して、シュリー・ラマナはこの沈黙の力の流れこそが彼の教えの最も直接的な凝縮された形であり、言葉による教えは彼の沈黙を理解できない者たちのために与えられたものであると主張し続けた。

 

「あるがままに ラマナ・マハルシの教え/デーヴィッド・ゴッドマン編」

9ページ6行目〜10ページ4行目

 

これも、ラマナ・マハルシが「真我探求において、直接伝達を最も重要視していたこと」を明らかにしている。

 

そして、さらに

言葉による教えを与える代わりに、彼は絶え間なく沈黙なる存在の力を放射し続けたのだ。

それに同調した者たちの心は静められ、ときによって彼は彼自信が絶えず没入している、その状態の直接体験さえも与えたのだった。

 

これを師の元へと直接出向くことなく、師とのパーソナルな接触なし、つまり遠隔で可能にしたのが私が行っているノーコンタクトセッションである。

 

つまり、弟子の側から見るなら、「沈黙による教え」すなわち「直接伝達」こそが「シェフからふるまわれた料理」であり、「言葉による教え」すなわち「言葉による伝達」とは「シェフから伝えられたレシピ」にしか過ぎないということだ。

 

「絵に描いた餅(もち)」は食べることができないのである。

 

「直接伝達」についてをもっと詳しく

 

ラマナ・マハルシ~その人物について~

人類の長い歴史において、賢者や覚者として認めることのできる人は何人かいますが、その中でも唯一無二の傑出した輝きを放っているのがラマナ・マハルシ(マハリシ)です。

 

彼は、ガンジーや心理学者のユングからも敬慕されていたアドヴァイタを代表するスピリチュアル・マスター(グル/導師)です。

あの辛口であったOSHO(ラジニーシ)に、

「キリストのような人間、仏陀のような人間だった。」

[引用/『私が愛した本』/著者:和尚]

と言わしめたほどです。

 

このようにラマナ・マハルシは、多くの有名人たちからも一目置かれている、人類史上まれにみる偉大な覚者です。

 

そんな彼は沈黙による教えこそが最上である」と語っていました。

ここで言うところの「沈黙による教え」とは、もちろん直接伝達「沈黙による直接伝達」および「臨在による直接伝達」)である。

 

それゆえ、彼の直接伝達(「沈黙による直接伝達」および「臨在による直接伝達」)の能力は相当なものであったと想像できる。

 

しかし、と言うべきか、それゆえ、と言うべきだろうか、「言葉による教え」においては(言葉に宿すエネルギー的な伝達は別として、)偉大な師であったとは言えない。

これから私が何を言いたいというと、「ラマナの(言葉による)教えは、けしからん」ということではなく、「ラマナの教え(本)を読んでいるだけでは、どうにもならん」ということを探究者や読者に伝えたいがためです。

私は人間としてのラマナのことは大・大・大好きですから。

ですが「私がラマナを好きであること」と「指導者としてのラマナの言葉による教え」が優れていたか否かは、また別のことです。

ここでは、あくまでも指導者としてのラマナの言葉による教えについての私なりの考えを述べています。

 

話を元に戻し、もう一度繰り返します。

 

ラマナ・マハルシは「言葉による教え」においては、偉大な師であったとは言えない。

なぜなら、彼の有名なフレーズである「私は誰か?(Who am I ?)」という問いかけに基づく教えにおいては、自己意識としての「私」(アートマン)絶対意識として「私」(ブラフマン)との区別がなく、両者をまとめて「私」=真我とされている。

それはなぜかというと、ほぼ全ての探求者にとってのゴールは自己意識としての「私」を実現すること、すなわち自己意識の悟りだからである。

なぜなら、絶対意識の悟り自己意識の悟りなしにはありえず(いくつかの条件が整えば、低次の次元での「純粋意識との接触」ならば可能である)、さらにいうなら、絶対意識としての自己/非自己を実現することは極めて困難であるゆえ、絶対意識の悟りにまで至る人は人類の歴史上においても極めて稀だからである。

 

ゆえに「私は誰か?」という問いかけの真意が、その問いかけの受け手である探求者にとっては曖昧(あいまい)なものとなる。

つまり、「私は誰か?」の「私」は、一般的な探求者に対しては自己意識としての「私」を指すこととなり、すでに自己意識としての自己が目覚めている、ごく一部の探求者にとっては純粋意識としての自己を指すこととなる。

もちろん、自己意識としての「私」の延長線上に純粋意識としての「私」が存在しているわけだから、そのような意味において間違いはないのだが、自己意識としての「私」から純粋意識としての「私」を実現すること、すなわち純粋意識の悟りまでへと至るまでの道のりは長い。

さらに言うなら、自己意識としての「私」から純粋意識としての「私」へと至るには、純粋意識との接触が絶対的に必要なのだが、その純粋意識そのもののことも真我という言葉で語られている箇所が多々ある。

もちろんラマナは方便として語っているのだが、方便としてもあまりにも雑過ぎるのである。

OSHOの言葉による教えにも、その教えの全てにおいてではありませんが、聞き手の理解を混乱させかねないような表現をしている個所が多々ありますが、グルジェフの言葉による教えはもっと明確です。OSHOはともかく、ラマナは仕事として教えていたわけではないですし、自身の教えを彼が自賛していたわけでもないので、私は責めているわけではない。私だって仕事でなければ、ここまで厳密に考えたり伝えようとする必要がないのだから。ラマナにおいては、もう終えた宿題のことなのだから・・・16歳で学校をやめて山にこもった彼には、いわゆる学がないということもありますが。)

 

そのへんのこともラマナにはわかっていたでしょう。

ですから彼は「沈黙による教えこそが最上の教えである」と言っている。

すなわち「沈黙による直接伝達こそが最上の教えである」と言っているのである。

(厳密には、「ただの沈黙による直接伝達」よるよりも、「見つめての沈黙による直接伝達」の方がより効果的であり、さらには「触れながらの沈黙による直接伝達」の方がより強力であるというようなことを語っています。ラマナのどの本の何ページに書いてあるのか、おわかりの方は下のコメント欄にて教えてください。)

 

ゆえに探求者は以下のような理解となる。

 

1.真我自己意識としての「私」

2.真我純粋意識としての「私」

3.真我純粋意識そのもの

4.真我絶対意識としての自己/非自己

 

 

それゆえ探究者にとって、真我というものが捉えどころのないもの、仮に運よく捉えたとしても厳密に検証しようがないものとなってしまうのである。

 

そんな彼の教えはシンプルであるがゆえに、真我との接触がない方、すなわち真なる自己の目覚めが起きていない方にとっては、「どのように取り組んでいけば良いのかわからない」という方も、大勢いらっしゃるかと思います。

また彼の対話集は、サンスクリット語から英語、そして日本語へと翻訳された二重翻訳のものであるため、そのシンプルな教えと相まって誤解を生じやすいということもあります。

 

ラマナ・マハルシは「瞑想」よりも本質的な「真我探究」、それよりも「沈黙による教えと称した直接伝達」を最上の教えであるとして、最も重要視していました。

 

このことは、私がこれまでに行ってきたセッションによって何度も経験していますので、その意見には全面的に同感です。

実際にラマナが、直接伝達によりプンジャジを覚醒させ、そのプンジャジもまた直接伝達によりガンガジやムージらを覚醒させているという事実が、何よりの証左であります。

 

私がスピリチュアリティ/霊性というものに興味を持つきっかけとなったのは、ラマナ・マハルシという存在を知ってからでした。

彼の写真を見た時の驚きと感動は、今も忘れることができません。

 

そしてすぐさま、(「想念にまみれた生き物」である「人間」のはずなのに、)どうして彼はここまで美しのだろうか?という疑問が湧きました。

そして彼に関する書物を買いあさり、私が最も愛読したのが彼の対話集である「あるがままに」です。

 

ラマナ・マハルシ~その教えについて~

対話集『あるがままに』

彼のような人間が実在していたということは、当時の私にとっては救いだったのです。

「人間の本質とは想念に汚染されていないものである。」という、ラマナ・マハルシという人間の存在を通しての事実。

 

ですから私の探求者としての土台には、それまでの人生で理解してきたことに加えて、スピリチュアリティ/霊性における「ラマナの教えという間違いのない基盤」を築くことができました。

このような「スピリチュアリティ/霊性の目覚めや進化における本質的なこと」が書かれた本を探求の初めにきちんと学んでおけば、「インナーボディ」や「ガイダンス」や「ノートに書く作業」などといった、あなたのスピリチュアリティ/霊性の目覚めや進化において不必要で有害なものとの関わりを防ぐことができます。

当然、無駄な時間や出費を防ぐこととなります。

 

なので、「本質的ではないワークで遠回りするようなこと」が極めて少なかったことは、とても幸運であったと思います。

「浅はかで無知な教え」によって迷路に迷い込んで抜け出せなくなった時には、「原点に帰ること」すなわち「ラマナの本を手にすること」で、いつでも「正しい道に戻ること」ができました。

このような稀有(けう)な存在が、この地球にかつて実在していた。

その事実だけでも、人類や地球に対する開いた慈悲や恩寵のようなもの感じることができます。

彼に対する感謝を超えた想いは、言葉にすることができません。

 

ラマナ・マハルシ

 

今でも私は、あなたを愛しています・・・

 

写真集『静寂の瞬間(とき)』

この写真集は稀有な隠遁者のフンドシ一丁のヌード写真集ではありません(笑)

ヌードはヌードでも魂のヌード写真集です(なんのこっちゃ?)

 

当時の私は、彼の写真集『静寂の瞬間(とき)』を眺めているだけでも幸せでした。

 

私はラマナに、恋をしてしまったのです。

 

それは今でも変わりません。

 

永遠に・・・

 

私は誰か?

ラマナ・マハルシの偉大な問いかけである「私は誰か?」。

その答えを言語的に真我/アートマンすなわち自己意識としてのあなたとして導き出すことは簡単なのである。

しかし、それを言語を介さずに直接的に自覚せなばならないというところにその難しさがあるのだろう。

 

当然のことながら「私は誰か?」と問いかけているのは知性としてのあなたにしか過ぎない。

 

問いかけている者 問いかけられている者
知性としてのあなた 自己意識=真我としてのあなた
思考者としてのあなた 観照者としてのあなた

 

 

しかし、広義に解釈すれば《(問いかけという意図的)思考》も《(内的な精神的)行為》であるがゆえ、《思考者としての自己》は《行為者としての自己》に含まれる

よって、以下のよう分類することもできる。

 

問いかけている者 問いかけられている者
肉体/精神としてのあなた 自己意識=真我としてのあなた
行為者としてのあなた 観照者としてのあなた

 

ラマナ・マハルシをはじめとした覚者が口を酸っぱく語り続けている以下の言葉、

「行為をしているのは《あなた》ではない。」

その真意とは、このような意味においてなのだ。

 

同様に覚者が多用する以下の言葉、

「私は何もしていない。」

それは、

「《真我としての私》は何もしていない。」

ということなのだ。

すなわち、

「真我としての私にとっては、ただ自然発生的に観照が起きている。行為者と同一化している私が《観照という行為》をしているわけではない。」

ということを語っているだけなのだ。

彼らは《行為者との同一化による思い込み》ではなく《観照者としての事実》を語っている。

 

これらは(意識のレベルによって異なる)視点の問題だ。

 

このような「真我」すなわち「自己意識」とは「個としての意識の主体」すなわち「主観意識としての自己の主体」であるとも言えます。

瞑想の初歩において「気づき」や「マインドフルネス」を重要視するのは、この「自己意識を目覚めさせるため」なのです。

 

「私は誰か?(Who am I ?)」。

ゆえに、これは単なる知的な問いかけではない。

よって、知的に、すなわち言語的に答えようとすると的を外すこととなる。

言語的に答えようとするのは、いつも落ち好きのない「知性としてのあなた」でしかないからだ。

もしそれが、知的な問いかけなら、わざわざ問いかける必要などはなく、初めから答えを書けばいい。

しかし、ここで言うところの「私」とは「真我としての私」であるため、言語を介さない体験的知識として、ダイレクトに見つけなければならないゆえに、その答えへと至ることは簡単ではない。

瞑想を実践することは、そのための手段の一つにしか過ぎない。

 

私はそのための最も強力な手段として「ヘッドセンターの直接伝達」を行っている。

ラマナ・マハルシが言うところの「私は誰か?」。

ソクラテスが言うところの「汝自身を知れ」。

『ヘッドセンター』とは、その答えである「私」へと至るための入り口であるからです。

 

脚注

※.

ちなみに本来は「観照者=自己意識=自我」であるため、「観照者=自己意識=自我=エゴ」となるのだが、一般的には「思考者=エゴ」すなわち「思考者としての自己=知性としての自己=エゴ」として認知されている。

裏を返せば、このようなエゴについての誤解が広まっているということ「自己意識が目覚めている人がいかに少ないか」を示唆している

 

もっと理解を深めたい!

 

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