一流の証は「抜け感」にあり!
買い物を終えた後の私は、喫煙タイムだ。
師はそこで、私のくだらないオシャベリに付き合ってくれる。
その話の中で師が、ふとつぶやいた言葉。
「オシャレの究極は、どれだけ抜けるかだと思うんですよね。」
「キメるのは簡単ですからね・・・」
その言葉が、私の意識内においての連想思考を生じさせていく。
三冠王を三回という、いまだ破られていない記録をお持ちの落合博満氏のバッティングにおいても、ある種の「抜け感」というものを感じる。
イチローのバッティングにも、同じような「抜け感」を感じる。
アレサ・フランクリンやオーティス・レディング、ダニー・ハサウェイの歌。
忌野清志郎氏のライブなんかも「抜け感満載ベイベー ♪」だ。
ちなみに清志郎は、オーティス・レディングのステージングをモチーフとしてパロディーにすることで、意図的に「抜け感」を作っている。
それは同時に、彼のシャイな性格を隠すためでもあるだろう。
往年の名優ジェームズ・キャグニーは、その自伝で以下のようなことを語っていた。
「エンターテインメントに大事な要素の一つはバカバカしさだ」と・・・
彼が言うところの、この「バカバカしさ」とは、最近のテレビのバラエティー番組のような「くだらなさ」の事ではなく、「深刻過ぎてはいけない」という戒め的な意味合いがあると思うんだよね。
そういう意味では「せめて娯楽にくらいは、(軽やかさなどの)抜け感が欲しいよね」ということが言いたかったのではないのかな・・・
探求者やスピリチュアル教師においてはどうだろう・・・
スピリチュアル教師においては、そのファッションにおいても、抜け感のないキメキメの服装、つまり作務衣や袈裟やヨガっぽい服装ばかりだ。
しかも、教科書通りのキメキメの姿勢で長時間の瞑想をしなければ、高次の意識状態やサマーディには至れない探求者や指導者には「抜け感」というものが全く感じられない。
一方、一流には程遠いが、私なんかは「抜け感」だらけだ。
直接伝達の時には煙草を吸っているし、特別セッションの時などは場の雰囲気を和らげるために酒も飲むこともある。
しかし私の意識内は極めて明晰なのだ。
落合博満氏のバッティングと同じで、バットを軽く振っているように見えるが、力を入れるべきところにはきちんと入れているのである。
素人には、それがわからないから、力を抜いている=手を抜いているようにも見えてしまう。
しかし、それは違う。
手を抜いているのではなく、余分な力だけをあえて抜いているのだ。
つまり、脱力とリラックスとは違うのだ。
脱力とは、中味が抜けている間抜けの状態だ。
だから、その表面だけでもキメキメにしなければならない。
リラックスとは、無駄な力は抜いていても、肝心なものが締まっている真締めの状態だ
だから、その余裕が「絶妙な抜け感」となって現れてくる。
ある有名な瞑想者が「私は二呼吸でサマーディに入れる」みたいなことを自慢げに本に書いていた。
裏を返せば、彼には、きちんと坐って二呼吸するキメや気張りが必要だということだ。
それは同時に、「普段はサマーディの状態にない」ということをも暗示している。
しかし、怒りんぼのニサルガダッタ・マハラジなんかは、あれだけ怒ったりしていても、意識の軸はサマーディの状態にあるからね・・・
ラマナやプンジャジなどが言うところのサハジャ・サマーディというやつだね。
これが一流と二流の違いだよね。
しかし、自身が感情と自己同一化している人から見れば、マハラジが怒っている時に、彼が同時にサマーディの状態にいるなんてことは想像もつかないだろう。
私はマハラジくらいの「突き抜けた抜け感」が好きなのである。
つまり、「私が怒りっぽいことで、周りから覚者と思われなくなっても、私は平気だよ・・・」という一流の本物の余裕なのである。
偽グルは逆に「自身の俗的または人間的な部分を隠して、人格者ぶる」方向に作為があるので、とても不自然な振る舞いになる。
彼らは図らずとも、その違和感こそが偽グルの証となってしまう。
ラマナなんかは立場的に、壇上の虎の革の上に座らされたりと、あまり「抜けるところ」がなさそうで、そのような意味においてはかわいそうだが・・・。
記事の書き方においても同様だ。
探求者兼スピリチュアル教師の書いたブログなんかは、その内容や書き方がクソ真面目過ぎるというか深刻さすら感じるほどの余裕のないキメキメの文章であるので、読んでる私の方が恥ずかしくなってくる。
「悟った人間とは、完全無欠の人格者である。」
そのような子供じみた幻想を壊していかないと、「人格者ぶった偽グル」たちに騙される人たちが後を絶たないので、吾輩なぞは「そのような誤解を壊してやろう」と、今も「抜け感」だらけの文章を書いているのである。
キリストだって神殿で怒って大暴れしているんだ。
ラマナだって実の母親に対しては、私から見ても「そこまで言うか?」というくらいに皮肉たっぷりだった。
たとえ、それが方便であったにしてもね。
ならば、マハラジが怒っているのも方便なんだ。
しかし、それは偽グルが我慢できずに怒ってしまうこととは意味が違うし、その動機も違う(笑)
「悟った人間とは、俗的な部分が完全に浄化されていなければならない。」
そのような間違った大前提に立ってお書きの探求者兼自称スピリチュアル教師の文章によく出くわすが、その人自身が悟っていないのに、どうして「悟った人とはこうあるべきだ」なんてことが書けるのかね?
その神経を疑ってしまう。
そして、そのような神経でいられる人間性も疑ってしまう。
彼らからは悟りどころか、人間としての良心や知性さえも感じられない。
しかし、この記事をお読みの賢明な読者様方は彼らに引っかかることはないだろう。
偽グルは、いつもキメキメなのだから・・・
「集中」と「くつろぎ」の均衡理論の観点からすれば、キメキメとは集中過多の状態だ。
「純粋意識との接触」があれば、彼らの所作や見た目や文章などの全てにおいて、「ほど良い抜け感」くらいは自ずと生じてくるはずである。
もちろん、ヌケヌケの間抜けの指導者などは問題外だよ。
彼ら彼女らは自己意識さえも目覚めていない。
それでは最後に、ファッションにおける我が師の言葉でしめるとしよう。
「キメるのは簡単ですからね・・・」
コメント ( 4 )
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続きが気になります!
悟りだけでなく、ファッションや音楽も学べるとは…。
こだわりを持って深く探求するという妙味が人生を豊かにするのですね。
これは悟りの道にも通じるのでしょうか。
木幡先生のレベルではできませんが、自分にも取り入れられたらと思います。
とはいえ、ファッションの師匠の技がすごいですね。
細部にまで手を加えていながらも、それを感じさせないさり気なさとは…。
一流の技の極みを感じます。
それが分かる先生の感性もすごいですが。
なので、木幡先生の大人スタイルのTシャツ短パン姿…どんな感じなのかもすごく気になります!
木幡 様
いつも興味深く読んでおります。
今回のコーディネートとは別になりますが、ベレー帽、素敵ですね。
ベレー帽って本当に難しい。
日本人ではなかなかこうはキマらないです。
ベレー帽のイメージ。
① ベレー帽の硬派でワイルドなイメージ → 軍隊、特殊部隊、傭兵、革命家
② ベレー帽の知的で内省的なイメージ → 芸術家、画家、哲学者
師は、① 無骨さ、豪快さ、を持ちつつも、かつ、② 知的な繊細さ を演出しています。
①、②のイメージを両立させていますね。
これはきっと帽子だけに、ヘッドセンターの均衡理論を象徴的に示しているのでしょうか。
考えすぎでしょうか…笑
いや本気でそう思ったりもします。
例えば、ゴツイだけの人が付けると①のイメージで、ミリタリーベレー、軍人ぽくなりますし、
線の細い人が被ると、②のイメージが拡大され、なよなよした繊細な感じになります。
童顔な日本人ですと場合によっては幼稚園児のようにもなります。
(もちろんベレーの種類にもよりますけど。)
たぶん私が被ると、もうコントのようになってしまいます。
大昔、ベレーを被ってたら手塚(治虫)先生かよ!と言われました笑
また、師が「スピリチュアル教師的キメキメファッション」じゃなくて本当に良かったです。
「抜け感」の続き、楽しみにしています。
奥深い内容の記事をありがとうございます!
ファッションについての軽快な話から、人としてのあり方まで考えさせられるものでした。
大事な所は「真締め」にしておきながら、それ以外は「抜け感」「遊び」を出す…。
技を極めていたり、人間として成熟しているからこそ出せる余裕なのでしょうね。
怒られているのに愛を感じるとか、皮肉なんだけど愛を感じるなども芯に愛があるからこそなんですね。
それは決め過ぎている時より、真の心がフワッと香るくらいが上品というところでしょうか。
前の記事の「転調と転生の法則」にも通じるものがあるように思います。
素晴らしい記事をありがとうございました!
追申: 私はこの記事の写真もコーディネートの素晴らしさだけでなく、先生の熟成された人となりを感じられて良いと思いました。
「抜け感」のご説明ありがとうございます。
「均衡理論」の理解も深まりました。
凡人には、<本当の意味>で、キメるのもなかなかむつかしく。
私なんか、キメてないのに、ゆるく抜けてばかりの毎日です笑
天才たちの仕事は、本物の集中あってこその、(恩寵によって訪れる)、本物のくつろぎ、そのバランスなのでしょうね。
たぶん、晩年のピカソが子供のような線画に回帰(抜け感)したのも、天才的に精巧なデッサン力(キメ)が基礎にあり、時代とともに様々なスタイルの変遷があったからでしょうし。
キヨシロー(忌野清志郎さん)も、おふざけをやっているように(抜け感)見せかけて、実は物凄いピッチが正確な(キメ)日本有数のボーカリストですものね。
>キリストだって神殿で怒って大暴れしているんだ。
イエス様、結構ハチャメチャにやりますよね笑
怒りも哀しみもシンプルに作為なく自然に表現されていました。
妥協なき態度、当時のユダヤ教の形骸化した部分に対してNO!と言う態度において、例えば音楽の方法論に置き換えると、もうほとんどパンクに近いです。
けれども、時代に、個人に、霊的な揺さぶりをかけるって、時にそういうことですよね。
師の霊的な目的は、「行為者、思考者としての」相手が、必ずしも予定調和で満足することではないですし。
次の書き物も楽しみにしております。