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基礎用語

絶対の境地における「根源的直覚」

基礎用語, 真我

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この記事は
2026.4.15、6:00に公開しました。
2026.4.15、10:28に更新しました。

質問者: あなたは今、意識がないのですか?
ニサルガダッタ・マハラジ 「脳の意識(Brain consciousness)」は停止している。
しかし、私は自分が「意識がない状態であること」を自覚している。

出典:『I Am That』 11章「Awareness and Consciousness」

こやつはイカれているのだろうか?
もちろんイカれているのだろうよ。
行き着くとこまで行かれているのさ・・・

こやつにしてもラマナちゃんにしても「何かに『なること』のみならず、肉体や精神、人間意識として『あること』さえもやめた魂」だからね・・・

たとえるなら、絶対無(狭義の真我)への長期継続的没入によって、その感受性のプラグを「肉体や精神」から(可能な範囲でだが最大限に)引っこ抜いてしまったような奴らなんだよ。
裏を返せば、その「絶対無への惚れ込み具合」はストーカーをも彷彿させる!(笑)

要は、肉体や精神との戯れに飽きた彼らは、己や世界が「在ること」よりも「ないこと」の方が好きなのだ。
「好き」という表現に誤謬があるなら、「それならば耐えられる」からこそ、没入し続けることができるのだ。
(もとろん、「好き」とか「耐えられる」などといった表現は「魂を擬人化した上での言葉の綾」だよ。)

ラマナ・マハルシ:眠りのときのようにあなたが真我としてとどまるとき、世界とその苦しみはあなたに影響を与えないだろう。
それゆえ内面を見なさい。
真我を見なさい。
そのとき、世界とその不幸は終焉するだろう。

あるがままに〜ラマナ・マハルシの教え〜(372ページ、4〜6行目)

あなただって疲れている時には「何もない眠りから覚めたくない」でしょ?
「二度寝をしたくなる」でしょう?

しかし「本質的に『在ること』よりも『ないこと』の方が好みである」というのは、「魂における嗜好」のようなものだと思うので、努力してなるようなものではないし、どちらが優れているというわけでもない。
もしもそれが「魂における進化の段階」を反映しているのなら話は別だが、どちらが正しいのかを検証することなど誰にもできない。

そして、このように「『在ること』よりも『ないこと』の方が好みである」のなら、「そもそも、おどれは何のために産まれてきたんや?」ということになるわけでね・・・(苦笑)

私なんか比較的に恵まれた環境で育った方だが、小学生の頃から「なんでこんなとこ(地球)に来てしまったのだろうか?」と違和感を感じ続けていたもんだよ。
今になって思えば、「己の本当の居場所を知っていた」からなんだろうけど・・・
「魂レベルでのホームシック」とでも言えばいいのかな。

もちろん、今でも「この世に生を受けたこと自体が罰ゲームのようなもの」だよ(苦笑)
だから、意識とか世界にはできるだけ関わらないようにしている。
ここ5年くらい記事を書いていなかったのも、そのためだ。

ラマナちゃんに言わせれば、以下のようになる。

ラマナ・マハルシ:真我という純粋な健康状態から見れば、肉体を持つということ自体が一種の『病』であり、不自然な『腫れ物』の突出なのです。

Maharshi’s Gospel

ラマナ・マハルシ:肉体そのものが一つの大きな『腫れ物』です。
人はその肉体という腫れ物を日々世話し、守っています。
しかし、その(肉体という)腫れ物の上に、さらに別の小さな腫れ物(癌)ができたからといって、どうしてそんなに騒ぎ立てる必要があるのでしょうか?

Talks with Sri Ramana Maharshi, Talk 619

マハラジちゃんに言わせれば、以下のようになる。

ニサルガダッタ・マハラジ:彼(ジニャーニ=悟った者)は願望と期待がないだけではなく、「存在すること」にも魅了されないことだろう。

(ジニャーニ=悟った者)は木幡による加筆

意識に先立って〜ニサルガダッタ・マハラジとの対話〜321ページ最終行

ニサルガダッタ・マハラジ:昔私が愛したものを、今ではもう欲しいとは思わない。
なぜなら、私は自分の本質に気づいているからだ。
私はこの意識をたとえ5分間でも必要としない。
……私はこの顕現世界に対して、すべての愛情を失ってしまった。

意識に先立って〜ニサルガダッタ・マハラジとの対話〜166ページ、7〜11行目

これらを読んでも、この様な傾向というものが「魂のタイプ」に由来するものなのか、「魂の進化段階」を反映したものなのか、「魂としての寿命」によって生じるものなのか、仮説くらいはいくらでも立てれるが、実際の所はわからないからね。

とはいえ、理由は何であれ、彼らにとっても『肉体を持ってここに在ること』自体が、『絶対無(狭義の真我)から突き出した癌細胞のようなもの』だったんだろうね・・・

だからこそ、やつらはその感受性が必要最小限程度には肉体や精神と接続されていながらも、「肉体という腫れ物」や「意識というオモチャ」にはまったく目もくれず、絶対無(狭義の真我)に没入し続けていたのだ。

しかし、私たちの有するエネルギーは粗雑なので、粗雑な物質である肉体や精神の活動に費やされる。
だが、奴らの有するエネルギーは微細な状態へと変容されているので、動きたい衝動にかみみだされることもなく、ずっと座り続けていることができるし、そうしていても「絶対無というベース」に「至福というノイズ」くらいしか生じないのだ。

要は、粗雑なエネルギーが「肉体のドタバタ」に浪費されるのに対し、彼らの有する微細なエネルギーは「意識の静止」に留まるためのバッテリーにもなり得るということだ。

では「停止した意識の自覚」とは、どのようにして生じるのだろうか?

「脳の意識」は停止しているのに「根源的直覚(マハラジの定義によれば「意識を超えた純粋な気づき」)」が機能していることによって、このような自覚が生じる。

これは「意識に先立つ自覚的な機能」があることの直接的な記述でもあります。

意識

↑↓

存在性
(広義の真我)

↑  ↓

絶対無
(狭義の真我)

根源的直覚

究極的には、すなわち根源的直覚という立脚点からすれば、意識の基盤である存在性ですら「絶対無(狭義の真我)に付随する環境的機能」にしか過ぎません。

しかし、この「根源的直覚」は意識の基盤である「存在性」にすら先立つものです。
存在性という「至福の場(環境)」が立ち上がるよりもさらに深い、絶対無から直接的に発せられている「明晰な眼」そのものであります。

このような「根源的直覚」だからこそ、停止した意識をも「自覚」し得るのです。
「根源的直覚」だからこそ、絶対無をも「直覚」し得るのです。
「根源的直覚」だからこそ、己の究極的な本質が絶対無であるということを「直覚」し得るのです。

しかし、これは体験した者にしかわかりませんし、悟りの次元をも超えなければわからないでしょう。

ですが、あなたもイカレポンチの仲間入りをしたいと言うのであれば、そのようなコースもご用意してお待ちいたしております。

しかし、たどり着いた「そこ」には「何もない」のですから、「何も手に入らない」のにお金を払うというのは、私のさらに上を行く本物のイカレポンチなのかもしれないな・・・

やっぱり関わるのは、やめておきますッ!(笑)

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