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基礎知識

絶対の境地における「根源的直覚」

基礎知識, 真我

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この記事は
2026.4.15、6:00に公開しました。
2026.4.20、3:55に更新しました。細やかな加筆ですので、忙しい人は読まない方が良いかもしれません。

この記事について

この記事はイカれています。

なぜなら、「視座が全く異なるイカれた人間」が「視座が全く異なるイカれた人間」についてを語っているからです。

たとえるなら、ニャンコがニャンコに向かって「ニャーニャー」と語り続けているのを、人間であるあなたが聞いているようなものかもしれません。

ですが、今日はニャンコとしてでなければ「根源的直覚」について書くことができません。

視座が異なるからなのです。

「在ること」と「ないこと」〜 どちらがお好み?〜

質問者: あなたは今、意識がないのですか?
ニサルガダッタ・マハラジ 「脳の意識(Brain consciousness)」は停止している。
しかし、私は自分が「意識がない状態であること」を自覚している。

出典:『I Am That』 11章「Awareness and Consciousness」

こやつはイカれているのだろうか?
もちろんイカれているのだろうよ。
行き着くとこまで行かれているのさ。

こやつにしてもラマナちゃんにしても「何かに『なること』のみならず、肉体や精神、人間意識や純粋意識としてさえも『在ること』をやめた魂」だからね・・・

たとえるなら、絶対無(狭義の真我)への長期継続的没入によって、己の根源的なプラグを「心身や意識」から(可能な範囲でだが最大限に)引っこ抜いてしまったような奴らなんだよ。

よって、裏を返せば、その「絶対無への惚れ込み具合」はストーカーをも彷彿させる!(笑)

要は、肉体や精神との戯れ、意識の戯れに飽きた彼らは、自己や世界が「在ること」よりも「ないこと」の方がお好みなのだ。

「好き」という表現に誤謬があるなら、「それならば耐えられる」からこそ、没入し続けることができるのだ。

(もちろん、「好き」とか「耐えられる」などといった表現は「魂を擬人化した上での言葉の綾」だよ。)

ニサルガダッタ・マハラジ:昔私が愛したものを、今ではもう欲しいとは思わない。
なぜなら、私は自分の本質に気づいているからだ。
私はこの意識をたとえ5分間でも必要としない。
……私はこの顕現世界に対して、すべての愛情を失ってしまった。

意識に先立って〜ニサルガダッタ・マハラジとの対話〜166ページ、7〜11行目

あなたが職場の同僚から突然こんなことを打ち明けられたら、「あっ、この人『重度のうつ病』なんだな 💦」って思うでしょ?

それなのに相手から「あなたのために教えてあげているんだよ〜 ♡」なんて言われた日ニャー・・・

ってことになるでしょう?

関わるのは控えたくなるでしょう?

だけど、人間から見たら『重度のうつ病』にも思えるこのようなマハラジの状態こそが『ニャンコにとっての健康体』『ニャンコにとっての自然体』なのだ。

健康は『状態』であり、自然は『法則』なのだニャー🐱

『視座の違い』によるものだワン🐶

だけど、あなただって疲れている時には「眠り(無自覚的な意識の不在状態)から覚めたくない」と思うでしょ?
そんな時には「二度寝をしたくもなる」でしょう?

ラマナ・マハルシ:眠りのときのようにあなたが真我としてとどまるとき、世界とその苦しみはあなたに影響を与えないだろう。
それゆえ内面を見なさい。
真我を見なさい。
そのとき、世界とその不幸は終焉するだろう。

あるがままに〜ラマナ・マハルシの教え〜(372ページ、4〜6行目)

しかし彼らが「『在ること』よりも『ないこと』の方がお好きであられる」というのは、「魂における嗜好」のようなものかもしれないので、それならば努力してなるようなものではないし、どちらが優れているというわけでもない。

もしもそれが「魂における進化の段階」を反映しているのなら話は別だが、どちらが正しいのかを検証することなど誰にもできないワンタン麺。

そして、このように「『在ること』よりも『ないこと』の方がお好きであられる」のなら、「そもそも、おどれは何のために産まれてきたんじゃ?」ということになるわけでね・・・(苦笑)

(私なんかは比較的に恵まれた環境で育った方でもあるので「目の前の現実が苦しくて・・・」というわけではないのだが、)小学校低学年の頃から「俺はなんで、こんな場所(地球)にいるんだ!?」と、そんな根源的な違和感を感じ続けていたもんだよ。

今になって思えば、「(潜在的には)己の本当の居場所を知っていた」からなんだろうけどさ・・・

魂においてのホームシック」とでも言えばいいのかな・・・(苦笑)

だけど、当時は「なぜ、そんなことを感じてしまうのか」なんて、わかんないからさ。

もちろん哲学的に考えていたわけじゃないよ。

なのに「ここにいるのは明らかにおかしい!!!」ということだけは自明のこととして直感しているんだ。

だから、もちろん今でも「僕にとっては、この世に生を受けたこと自体が罰ゲームのようなもの」だと思っているよ(苦笑)

なので、今でも「意識や世界にはできるだけ関わらない」ようにしている。

ラマナやマハラジにおいても同様だと思うが、存在性という微細な振動によって極限まで繊細になった彼らの剥き出し過ぎる感受性では、下手に世界や意識と関わると「何か」が壊れてしまうんじゃないのかな・・・

だって、(時代が時代であったとはいえ)ラマナ坊っちゃんなんて、子供のくせに家族を捨ててまでして、人里離れた山へと逃げ出したくらいの徹底ぶりでしょ?(笑)

いやっ、違う!

子供のくせに ではなく 子供だったからこそ 逃げ出すしかなかった のかぁ・・・

まいったな 〜

なんだか涙が出てきたよ・・・

もちろん私がここ5年くらい、ほとんど仕事もしていなかったのも、同じ様な理由だよ。

ラマナちゃんに言わせれば、以下のようになる。

ラマナ・マハルシ:肉体そのものが一つの大きな『腫れ物』です。
人はその肉体という腫れ物を日々世話し、守っています。
しかし、その(肉体という)腫れ物の上に、さらに別の小さな腫れ物(癌)ができたからといって、どうしてそんなに騒ぎ立てる必要があるのでしょうか?

Talks with Sri Ramana Maharshi, Talk 619

ラマナ・マハルシ:真我という純粋な健康状態から見れば、肉体を持つということ自体が一種の『病』であり、不自然な『腫れ物』の突出なのです。

Maharshi’s Gospel

マハラジちゃんに言わせれば、以下のようになる。

ニサルガダッタ・マハラジ:彼(ジニャーニ=悟った者)は願望と期待がないだけではなく、「存在すること」にも魅了されないことだろう。

(ジニャーニ=悟った者)は木幡による加筆

意識に先立って〜ニサルガダッタ・マハラジとの対話〜321ページ最終行

ね?

彼らにおいては「もう肉体や意識に執着がない」どころか、「今ではむしろ肉体や意識にさえも生理的嫌悪感のようなものを感じ始めている」ということが感じとれるでしょ?

つまるところ『私という牢獄』をも破壊して『究極の自由』を体験した者からすれば・・・

ジニャーニと敬称されたニャンコたち

やっぱ彼らは『ジニャーニ』なんだニャー🐾

それは『悟り』と言っても『行き着くとこまで行かれたニャンコ』。

さすれば『行き着くとこまでイカれた人』に見えても仕方なし、とも言えようか・・・

それゆえ『聖』に見えるのか、それとも『狂』と映るのか?

このように人々が『聖』として拝むのか『狂』として恐れるのかは『視座の違い』によるものでしかないということも『ニャンコたち』はチャ〜ンとチャ〜ンと知っている。

それらは『思考の戯れというノイズ』でしかないということを知っている。

だからニャンコは「人がどう思うか」なんて気にしていないのだニャ〜🐱

彼らのように『ジニャーニになるべくしてなったニャンコたち』というのは、すでに産まれてきた時からニャンコ的素質が満載なんだから・・・(苦笑)

だから「悟りへの種子」とでも言うべき自己意識なんてものは、小学生の頃にはとっくに目覚めているわけでしょう?

ニャンコの鳴き声

「思考や感情に乗っ取られたゾンビ」から「真の人間」へと成長して『自己意識』は目醒めた。

さらには「静寂の至福」をもたらす『純粋意識』も目醒めた。

せやけど、突き詰めていくと「自己意識」であろうが「純粋意識」であろうが、そもそも「意識そのもの」が『外界からのノイズを拾うアンテナ』にもなり得るんだニャー。

それは「消え去ることに憧れながらもスーパーセンシティブであるニャンコ」にとっては『致命的な欠陥』でもあるから「意識」さえも停止させて『絶対無』へと消え去るんだニャー。

ニャンコにとっては、このような「何もない」という「究極のストレスフリー状態」こそが「最高の贅沢」なんだニャー 🐾

意識の階層図

自己意識

純粋意識

根源的知覚

そのようなわけで、だから僕なんかはどんな状況にあっても直接伝達ができるわけでしょ?

もしも「今日はとても悲しいことがあったので、直接伝達は明日に変更させてください・・・」みたいなレベルだったら仕事にならないでしょ?(笑)

さらにいうなら、おもしろいことに、伝達開始時に受け手は僕の『ギアが上がった』と感じるらしいが、僕からすれば『ギアをニュートラルに戻しただけ』のことなんだよ。

だから「呼吸をするよりも簡単なこと」なんだ。

それに『高次の知性や感受性』も目覚めているので、話をしながらもできるし、食事をしながらだってできる。

ついでにいうなら、ニャンコが行っているレベルでの直接伝達とは「ニャンコがギアをニュートラルに戻しているだけ」だから人間には「真似」ができない。

なぜなら「真似」とは「人間が行う行為」すなわち「ギアを入れること(気功みたいなもの)」だからね・・・

このように『ニャンコにとっての普通や日常』は『人間にとっての異常や非日常』ともなり得るわけなので、そこまでの悟りはおすすめしないし、そこまで極端な状態は必要としないのが『人間としては普通』だと思う。

なので「感受性が存在性を感じとり、知性が認識している状態」すなわち「純粋意識の悟り(広義の真我実現)」で充分だと思うよ。

だから冒頭で『ニャンコの戯言(鳴き声)』だと伝えておいた訳だし・・・

しかしこれらを読んでも、彼らの様なニャンコの傾向というものが「魂のタイプ」に由来するものなのか、「魂の進化段階」を反映したものなのか、「魂としての寿命のようなもの」によって生じる自然現象なのか、仮説くらいはいくらでも立てれるが、実際の所は確かめようがないよね。

とはいえ、理由は何であれ、彼らにとっては『肉体』『意識』『命』さえもが『絶対無(狭義の真我)から突き出した吹き出物のような厄介物』だったんだろうね・・・

だからこそ、やつらはその感受性が必要最小限程度には肉体や精神と接続されていながらも、「心身という乗り物」や「人間意識というオモチャ」「純粋意識という置物」などにはまったく目もくれず、絶対無(狭義の真我)に没入し続けていたんだろうね。

しかし、私たちの有するエネルギーは粗雑なので、粗雑な物質である肉体や精神の活動に費やされる。

だが、奴らの有するエネルギーは微細な状態へと変容されているので、動きたい衝動にかき乱されることもなく、ずっと座り続けていることができるし、そうし続けていても「絶対無」には「静寂の至福というノイズ」くらいしか生じないのだ。

要は、粗雑なエネルギーが「肉体のドタバタ」に浪費されるのに対し、彼らの有する微細なエネルギーは「意識の静止」に留まるためのバッテリーにもなり得るということだ。

では「停止した意識の自覚」とは、どのようにして生じるのだろうか?

「脳の意識」は停止しているのに「根源的直覚(マハラジの定義による「意識を超えた純粋な気づき」)」が機能していることによって、このような自覚が生じる。

これは「意識に先立つ自覚的な機能」があることの直接的な記述でもあります。

認識における階層図

認識の対象

意識

根源的直覚

自己の階層図

知性

↑↓

感受性

↑↓

存在性
(広義の真我)

↑↓

絶対無
(狭義の真我)

究極的には、すなわち根源的直覚という立脚点からすれば、意識の基盤である存在性ですら「絶対無(狭義の真我)に付随する環境的機能」にしか過ぎません。

しかし、この「根源的直覚」は意識の基盤である「存在性」にすら先立つものです。
存在性という「至福の場(環境)」が立ち上がるよりもさらに深い、絶対無から直接的に発せられている「明晰な眼」そのものであります。

このような「根源的直覚」だからこそ、停止した意識をも「自覚」し得るのです。

「根源的直覚」だからこそ、絶対無をも「直覚」し得るのです。

「根源的直覚」だからこそ、己の究極的な本質が絶対無であるということを「直覚」し得るのです。

しかし、これは体験した者にしかわかりませんし、悟りの次元をも超えなければわからないでしょう。

ですが、あなたもイカレポンチの仲間入りをしたいと言うのであれば、そのようなコースもご用意してお待ちいたしております。

しかし、たどり着いた「そこ」には「何もない」のだから、「何も手に入らない」というのにお金を払うというのは、私の数段上を行くホンマモンのイカレポンチなのかもしれないので、やっぱ関わるのはやめておきますわッ!(笑)

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